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働く農家の子どもたち(5)



          ☆本格的な農作業と技能の伝承

 小学校の時は二~三日間の田植え休みがあった。田植えの時に子どもを休ませて手伝わせる親がいたし、学校も子どもが手伝うのは当たり前と考えていた時代なので、こうした農繁休暇をわざわざつくったのだろう。もちろん休んでもたとえば一年生などは田植えはできない。私の場合は、おっぱいを飲ませるために弟妹をおんぶして田んぼに行ったり、お昼の弁当や三時のおやつなどを家から運んだりするのが仕事だった。まぶしい日差しを浴びている新緑の生け垣のなかから道ばたにまで手を伸ばしてびっしりと咲いている真っ白な卯の花を見ながら、田んぼに急いだものだった。
 そのうち、なえぶづ(苗打ち=苗代から運んできた苗を田んぼの中にいる植え手のところに畦から投げ入れる作業)をさせられるようになる。稲刈りや脱穀のときは稲束運びが仕事となる。こうして少しずつまともな野良仕事の手伝いをさせられるようになる。やがて田植え、稲刈りを覚えさせられる。それとあわせて、野菜の種まき、収穫、家畜のえさにする草刈り、鎌とぎ、縄ない等々、一つずつ仕事を覚えさせられ、仕事の数が増えてくる。働かされる時間も長くなってくる。ましてや野菜作中心の私の家では子どもができる軽労働はたくさんあるし、多くの作物のそれぞれの適期に合わせたいろいろな作業があるものだからほぼ年中手伝わされた。
 春の仕事の一つに、家の前の畑につくられた苗床(「温床」)の保温のための夕方の菰(こも)かけと朝の菰外しがあった。この温床についてはまた後で述べるが、ちょうど菰をかける時間に紙芝居屋がくる。しかもそれを家の前の道路でやる。しかしそれを見るわけにはいかない。全部かけ終わらなければ紙芝居を見る小遣いももらえない。それが面白くなくてついつい菰かけをしながら兄弟げんかをし、祖母から怒られたことがあった。紙芝居を見ている子どもたちはみんな私たちの方を見た。ほとんど非農家の子どもである。その子どもたちに向かって紙芝居屋がこういった、みんなのようにお利口に紙芝居を見ていないからけんかをして怒られるのだと。それ以来その紙芝居屋の顔は見たくもなくなり、紙芝居を絶対見なくなった。
 夏はトマト、ナス、キュウリの収穫である。はけご (わらで編んだ籠で、手提げ・腰提げとしてあるいは背負い籠として用いられる)を腰に着けて食べられるようになった実を見分けて穫る。ただし朝飯前に収穫するキュウリもぎはあまりしなかった。学校があるからである。トマトやナスは午後に収穫してリヤカーで家に運び、夕方から木箱に詰め、翌朝駅か農協に運ぶ。この木箱つくりとそれに詰めるのも子どもが手伝う。それは翌日東京や仙台に出荷される。秋には白菜やダイコンの収穫である。白菜は炭すご(炭俵)に詰められ、貨物列車で東京に送られる。
 また消毒の手伝いがある。硫酸銅の溶液と生石灰の溶液とを混合した乳青色のボルドー液を入れた消毒器を背負って野菜に散布する。ただしこれは中学に入ってからである。

 小学校高学年から中学にかけて本格的な農作業の手伝いが始まる。田植えのし方、稲の刈り方、束ね方を教えられ、単なる補助労働ではなく、まともに田植えや稲刈りをさせられるようになってくる。また鍬による耕起なども覚えさせられる。
 そして日曜日はもちろん朝晩も働かされる。本格的な農作業に従事させながらその技能を覚えさせるのである。畜力耕も親の付き添いのもとにときどきやらされる。また何かポイントの作業、たとえば水管理をするときは親が連れて歩く。どこそこの田んぼの水口を開けてこい、あるいは閉めに行ってこいとも命じられる。これは手伝いというよりもその技能や経験を身につけさせ、それぞれの田畑のそれぞれ微妙に異なる性質を覚えさせるためでもあったのだろう。
 冬には、縄ない、むしろ織り、俵編み、草履やわらじ作りを覚えなければならない。
 いやとはいえない。家族総ぐるみで働いているのを見ると、遊んでいるわけにはいかない。何とか早く覚えて一人前になろうと努力する。そうしないと大変なことになるからでもある。

 山形県南の山村でいま地域のリーダーとして尊敬されているCさんは、中学校を卒業するとすぐに農業に従事した。一九五〇年代の農村はそれが普通だったので何の疑問ももたなかった。そして親の言う通りに働いた。それから一年もたたないうちに父親が急死した。その悲しみから立直る間もなく春の農作業の時期となった。頭のなかが真っ白になった。何からどう作業すればいいかわからない。女は男の言うとおり働くというのが当時普通だったので母もよくわからない。隣近所の見様見真似で働いた。しかし馬耕するとまっすぐにはなかなか進まず、普通の農家の何倍もの時間がかかる。田圃の条件によって異なる水の掛け引き、肥料散布などの微妙な管理もわからない。下手に水をかけると隣の田圃の人から水利権の侵害として怒られる。家の金や財産がどうなっているのかもわからない。村のしきたりや不文律もわからず、以心伝心にもついていけず、親戚付き合いのしかたもわからない。ともかく何もかもわからない。男が担っていた当時の骨のきしむような重労働が自分一人の肩にかかる。いやになって逃げ出したくなっても母と幼い弟妹を残して出ていくわけにもいかない。ともかく働いた。失敗を重ねながら技術を覚え、金の出し入れや村での付き合い方も覚えた。そして妻を迎え、弟妹を一人前にして外に出した。
 家と農業を継ぐというのは、当時は大変なことだった。ともかく覚えておかなければならないことがたくさんあった。しかもそれを身につけるのに何年もかかった。だからこそ、親は早く子どもに技術、技能を身につけさせ、経験を引き継がせようとしたのである。労働力として子どもまで働かせたという面はもちろんあったが、こうした継承という側面からも働かせる必要があったのだということを見落としてはならないであろう。

 私の場合、覚えなければならない仕事のなかで一番大変だったのが天秤棒担ぎだ。父は二つの桶に水やダラ(下肥)をいっぱい入れ、天秤棒の両端にそれをぶらさげて、こぼしもしないで、細いあぜを上手に歩く。子どもの私にはとってもまねができない。背の低い母と力のない私と二人で天秤棒のまんなかに桶をぶらさげ、両端を肩に担いで、息を合わせながら運ぶ。下手すると水やダラがたぷたぷ波打ち、あふれて足にかかる。結局私の天秤棒担ぎは上手になれずに終わってしまった。
 それだけではない。何もかも半人前で終わってしまった。大学に行って家から離れたためである。もちろん、田植えや稲刈りのときの土日には必ず手伝いのために山形に帰った。それ以外にも月一回は帰って野菜の作業を手伝った。しかしやがて稲刈り、田植えは機械化され、さらに都市化の進展で田畑は少なくなるなかで手伝いをしなくともよくなってきた。また草履やむしろなどは工業製品におきかえられてしまった。だから熟練と技能を身につけることなく終わった。
 それでも一つだけ我ながら感心したことがある。機械化で手刈りをしなくなってから何年過ぎた頃だったろうか。生家に行ったらちょうど近所の農家の方がバインダーを持ってきて生家の田んぼの稲刈りをしてくれていた。当然あっという間に終わるし、私などが手を出すところはない。ただし機械で刈り残した隅だけは手刈りしなければならない。それはやれるはずである。しかし、鎌で刈り取ることはできても、かなりの熟練が必要だった稲まるき(刈り取った稲をわらで束ねること)は忘れている。どうやるのか思い出そうとしても思い出せない。それでもともかく刈ってみた。すると両手が独りでに動く。束ねるだけの稲株を刈り取り、その上の方から束ね用の四~五本の稲を手に取り、それを横にして刈り取った稲の上に置く。そして稲を持ち上げながら、くるっと回して束ねる。うまく説明はできないが、ともかく考えることもなしに手がひとりでに動くのである。もう完全に身に付いていたものもあったのだ。縄ないもそうで手が覚えていてくれている。わらを持つと、遅い早い、うまい下手は別にして、両手がひとりでに動く。

 私の家は野菜作が中心だったし、子どもはとくにそれを手伝わされたので相対的に軽労働だった。そのかわりに年中暇なしだった。だから花見や紅葉狩りなどしたことがない。山菜取りもない。山が遠かったこともあるが、そのころはもっとも忙しい時期だったからだ。雪が消えたらともかく忙しくなり、そんなところに子どもをつれていく暇などは親にはなかった。近所のサラリーマンの家の子どもたちが遊びに出かけるのを、畑で手伝いながらうらやましく見ていた。
 水田もけっこう経営していたので、とくに田植え、稲刈りは手伝わざるを得なかった。二日もやると足腰が立たなくなるほど痛い。とくに大変なのが田植えだ。稲刈りだと稲まるきで腰を伸ばし、一息入れることができる。しかし田植えは向こうのあぜ道に着くまでずうっとかがんでいなければならない。しかも日が長いと来る。夕方、時々父がいう、「もう少し日が長ければなあ」。その気持ちはわかってもやはり恨めしく聞く。

 私の勤めていた研究室で技官をしていた宮城県北出身のTKさんがこんな話をしたことがあった。
 子どもの頃、三番草(田んぼの三回目の除草)を手伝わされた。じりじりと照りつける太陽で背中をあぶられながらの、田んぼの水に反射する太陽の光を顔に受けながらの草取りで、もう倒れそうになった。その時お父さんが背の高くなったヨモギをとってきて背中にさし、日陰ができるようにてくれた。何て親はありがたいんだろうと涙が出るほどうれしかった。それで一所懸命働いた。夕方へとへとになって家に帰りかけたときふと考えた。親父は本当に自分の身体のことを考えてヨモギをさしてくれたんだろうか。仕事が一はかでも二はかでも(註1)進むように、自分をこき使うためにやっただけではなかったのか。
 こんなふうに親の愛情を疑いたくなるほどの厳しい労働だった。

 戦前は東北の農村のほとんどで養蚕がいとなまれていた。とくに福島・宮城の阿武隈丘陵地帯、山形内陸が盛んであった。ただ私の生家では私の生まれる寸前に養蚕はやめていた。それで養蚕の仕事の経験はない。母の実家が養蚕をやっていたので知っている程度である。いうまでもなく養蚕はかなり忙しく、子どもも桑の葉摘みを始めさまざまな仕事の手伝いをさせられた。

 こうして農家は子どもも含めて家族ぐるみで働いた。男は「馬車馬(ばしゃうま)」のように、女は「角(つの)のない牛」のように働いた。女性の労働はとくにすさまじかった。厳しい農業労働に加えて、いまのように省力化されていない家事育児の労働があったのである(註2)。

(註)
1.「ひとはかでもふたはかでも」と読み、「はか」は「計」もしくは「量」と書き、仕事の量を示す。「はか」には仕事量としての「田畑の区画」という意味もあるので、この場合は『一区画でも二区画でも』、つまり「少しでも」、「ちょっとでも」という意味となる。
2.次回から、「農家の嫁」について語る。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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