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野菜・果実の形、色、味の変化


                食生活の変化(4)

             ☆野菜・果実の形、色、味の変化

 霜の降った朝、口のなかが凍みるように冷たい白菜漬けをおかずにして湯気の立った熱いご飯を食べる。このことを小学5年の冬に俳句にして父に見せたら、父はそれを添削してくれた。そもそもの私の原作は覚えていないが、添削してもらって完成した句はいまだに覚えている。
  「白菜の 歯ぐきに浸みる 霜の朝」
 漬け物として、お汁の身として欠かせない晩秋の白菜、これは大根などと並んで日本古来の伝統野菜である。と思いこんでいたが、そうではなくて白菜は明治以降の食べ物だとわかったのはかなり後のことであった。そして芭蕉菜(ばしょな)、青菜(せいさい)をつくる山形は変わってるといったが、実はそうではないことも後で知った。
 かつてアブラナ科の植物は全国各地にさまざまあった。育種学者に聞くとアブラナ科の植物は同じ科の仲間であればすぐに受粉して雑種を作り出すらしい。要するに花粉は浮気者であちこちに子どもをつくるのである。だからさまざまな雑種があった。そのうちそれぞれの地域の条件に適する品種、その地域の人間がおいしいと思った品種が各地に生き残った。しかもそれが地域独特の品種として純粋な形で残った。わが国の起伏の多い地形が他地域からの別の品種の花粉の飛散を阻んだからである。だから全国各地にその地域在来のアブラナ科植物があったらしい。当然、それに対応した漬け方や料理のしかたがある。まさに地域性、多様性に富んでいた。だから変わっていると言えばそれぞれの地域がすべて変わっていたのであり、山形で青菜や芭蕉菜をつくっていてもとくに不思議はない。
 ところが、明治以降、とくに戦後、地域独特の野菜が消えて行った。そして秋の漬け物といえば白菜、青首大根に画一化、一律化してしまつた。一地方の野菜でしかなかった野沢菜は全国ブランドになったが、それ以外の大根やカブ、漬け菜など、大きさ、色、辛味、食べ方等の異なるさまざまなアブラナ科の品種は絶滅の危機に瀕している。
 そればかりではない。生きのびた野菜の形や味は大きく変わった。

 あるとき沖縄の研究者の一人から聞かれた。女満別空港から車で10分くらい行ったところの道路脇の畑に植えてあった作物は何か、そこの畑以外では見られなかったのだがと。私のよく通る道だけど、聞かれてもよくわからない。彼らを空港で見送ってから改めて注意してみたら、たしかに私も見たことのない作物があった。車のなかから注意して見てみると、種子採りのために大きく成長させたホウレンソウに似ている。そうか、これはビートだ、採種用に大きく伸ばしているだけなのだと一人うなづいた。普通のビートとはかなり姿形が違うのでみんなわからないのである。府県からくる人たちはもちろんわからない。ビートそれ自体も知らないからだ。当たり前である、府県では見られないのだから。あれはホウレンソウだという人がたまにいる。その人には半分当たっていると誉めることにしている。ビートはホウレンソウと同じアカザ科だからである。私もそれを知っていたから、そして私の生家ではホウレンソウの自家採種をしていて大きく伸びたホウレンソウ(食べるホウレンソウとは姿形がまるっきり違う)を知っていたから、そしてそれと似ていたから、あれは採種用に伸ばしてあるビートだとわかったのである。後で聞いたらその畑の農家はホクレンの委託で採種しているとのことだったが、その昔はほとんどの作物の種子は自分の家で生産していた。つまり自分の田畑に植えた作物のうちの一部を種子用として残し、その種子を翌年自分の畑に播くというように自家再生産していたのである。
 私の生家でもそうだった。キュウリの場合などは、収穫が終わる頃、採らずにそのまま大きく太らせて黄色に熟した実を採ってくる。それを半分に切って大きなタライに入れて踏みつぶし、出てきた種子を取って洗い、乾かす。そしてそれを翌年の種子播きまで保存した。子どもの頃その踏みつぶしがおもしろいので手伝うが、ナスのときだけは逃げ出した。ものすごくいやな臭いがするからである。こうした自家採種が地域の在来種を保存してきた。

 もちろん、種子屋から買う場合もあった。とくに白菜は買わなければならなかった。自家採取しても白菜は他のアブラナ科の植物と受粉するので、できた種子を次の年植えても結球しないからである。つまり白菜ではなくなってしまうのである。農業関係者はよく知っていることだが、このアブラナ科の浮気性のために日本では白菜はつくれなかった。明治期に白菜の種子を中国からもってきた人の中に、白菜の種子を採るときは他のアブラナ科の植物がないところに隔離して栽培すればいいではないか、たとえば離島に植えれば花粉が飛んでこないので白菜の血統は純粋に残り、結球するはずであると考えた人がいた。実際にやってうまくいった。ただしこれは個々の農家がやることはできない。そこで種子屋が離島の農家に委託して生産し、それを他の地域の農家が種子屋を通じて買って栽培するということになった。かくして白菜は日本人の重要な野菜となったのであるが、戦前は仙台白菜のブランドが有名だった。宮城県小牛田町(現・美里町)にあるW種苗という種子屋が孤立している松島の島々で白菜の採種と育種を行って松島白菜と名づけた質のよい種子を提供したからである。
 しかし今は、このような特別なものだけでなく、ほとんどの野菜の種子を買うようになった。自家採種してきた在来種の野菜は売れなくなってきたからである。消費者の好みに合わせて品種を改良してきた種苗会社の種子を買って栽培した方が売れる。そこで在来種や自家採種をやめて種苗会社の品種に切り替えることになる。
 しかもそれを毎年買わなければならない。種苗会社から買った種子を撒いて育てた野菜から自家採種をするわけにはいかないからである。今売られている種子のほとんどがF1なので自家採種しても先祖返りをしてしまい、親の性質をそのまま発現するのは少なく、ばらばらな質の生産物となってしまうのである。
 こうして種苗会社の改良した品種に切り替わるなかで、また接ぎ木の技術が進展して接ぎ木をした苗を買うようになるなかで、野菜の形や味は大きく変わった。

 かつてのトマトは酸っぱかった。形も大小さまざまで、ぶかっこうだった。今のトマトのようにきれいな曲線の円形をしておらず、下の方は凹凸でしわしわだった。色もいまの品種の「桃太郎」のようにすべて均一に赤くならず、上は赤だが、下の方は緑というのが店に並んだ。切ると中の種がトロッと落ちてくる。それで、弁当に入れて持っていくのは難しかった。そして酸味が多かった。しかし、完熟したときの甘みはいまの品種の「桃太郎」などとは比較にならないほどだった。
 かつてのキュウリのへたの部分(茎から出ている方の部分)はすさまじく苦かった。だからその辺の2~3㌢は切って捨てなければならなかった。形の悪いキュウリも多かった。曲がった小さいキュウリのことをわれわれはヘボキュウリと呼んだ。とげが痛かった。でもナスほどではなかつた。
 ナスのへたのとげは大きくて固くて、本当に痛かった。収穫のときなどに刺して思わず飛び上がるほどの痛みを感じたものだった。収穫のときはもちろん、漬けたばかりのナス漬けを食べるときにも、へたのとげに気をつけなければならなかった。昔の山形のナスは丸く、小さかった。子どもの頃、ナス漬けの中身を取って皮を残し、それに水を入れて飲んだりして遊んだが、それほど皮は固かった。
 とぎみ(トウキビ=トウモロコシ)は固く、あまり甘くなかった。
 マクワウリやスイカの糖度も低かった。なお、私の生家ではウリはつくったが、スイカはつくらなかった。母の実家ではスイカをつくっており、夏に泊まりに行ったとき食べるのが楽しみだったが、今と違って甘みは少なく、塩をかけて甘さを出そうとしていたほどで、生家のウリの方が甘く感じたものだった。ウリやもらったスイカは暑い日に井戸につり下げて冷やして食べた。
 イチゴは酸っぱかった。あまり食べたいとは思わなかった。戦後仙台に来てイチゴに牛乳と牛乳をかけてつぶして食べることを初めて知ったが、これは何とか食べられた。
 ニンジンの味は何ともきつかった。子どもが嫌うのは当たり前だった。
 これに対して昔のホウレンソウは甘かった。葉っぱに切れ込みがあり、根っこが赤かったが、葉っぱのうちの根っこに近くて赤みを帯びている部分がとくに甘く、私はそこが大好きだった。今のホウレンソウ(西洋種)は形は大きく、緑が濃くてきれいである。しかし苦い。とくに根のところが苦い。蓚酸が多いのだそうである。いつ頃からであろうか、私はホウレンソウをあまり食べなくなった。
 でも、全体としていうと、かつての野菜には癖があり過ぎた。

 果物はほとんど酸っぱかった。
 秋、稲の脱穀の時期などのおやつにリンゴがでる。あぜ道に座って稲の刈り終わった後の田んぼを眺めながら、リンゴをズボンなどで拭いてきれいにする。赤くピカピカになったリンゴにがぶっとかみつくと、プルプルッと身体がふるえるほど酸っぱかった。
 東北産ではないが、冬に買うミカンも酸っぱかった。夏ミカンなどはとっても食べられたものではなかった。
 サクランボも同じだった。たまに採り残したサクランボが紫色になるくらい熟したのは甘いが、そこまでなど待っていられない。鳥に食べられてしまう危険性もある。黄色みがまだ残っているサクランボを採って酸味の中に混じっているわずかな甘みを楽しんだ。
 こうしたなかで本当に甘いのは柿の実だった。ただし山形には甘柿が少なくて渋柿が多い。十月の末頃庭の大きな渋柿の木から実をもぎ、焼酎かお湯につけて渋を抜く。この渋抜きの柿は甘かった。固い甘柿の甘さの何十倍もある感じである。干し柿も甘い。砂糖のない時代にはそれを甘味料にもした。
 もう一つ甘いのは洋ナシだった。ただしかつてはバートレットという品種で、黄色味をおびた青い実は固く甘みが少ない。そもそも缶詰加工用なのである。たまにそれをもらうとすぐに食べないで机の引き出しのなかに入れ、毎日眺めながら茶色に熟するまで待つ。いい時期に食べると、ちょうど柔らかくて甘くて何とも言えない高貴な味がする。もちろんラフランスにはかなわない。とは言ってもそれがわかったのぱ1980年を過ぎたころだった。それまではラフランスを食用として栽培していなかったからである(このことについては後に詳しく述べる)。

 戦後の品種改良や接ぎ木、その他さまざまな栽培技術の進展によって、野菜はかっこうがよくなった。色もきれいになった。味も変わった。全体的に甘くなった。酸味や苦み、匂いが少なくなった。ジューシーになり、軟らかくもなった。要するに食べやすくなった。ニンジンは子どもも食べられるようになった。
 キュウリのへたは捨てなくともよくなった。上から下まで全部食べられるようになった。ヘボキュウリも見られなくなった。とげも固くなく、さわっても痛さを感じることはなくなった。ナスのへたのとげも昔ほどではなくなり、皮もやわらかくなった。トウモロコシは甘く、軟らかく、しかも小粒になった。マクワウリは甘いメロンに替わった。
 果実も甘くなり、酸味や苦みが少なくなり、果汁は多くなり、軟らかくもなった。どんな果実も昔より味が薄くなったなどという人もいるが、ともかく大きく変わった。
 なお、一般に果実はかっこがよくなったが、悪いのに売れるようになったものもないわけではない。それはラフランスである。しかしこれは例外的といってよいであろう(米の味の変化等については後に述べる)。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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