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食べたいときにいつでも食べられる幸せ



                食をめぐる消費者と生産者の諸問題(1)

              ☆食べたいときにいつでも食べられる幸せ

 ちょっと昔の話に戻るが、私の母が死んだ1946(昭和21)年の春、夕方になると、どこの家からもカド(にしん)を焼く薄紫の煙がたなびき、いい匂いがただよった。当時は魚が配給だったのだが、その年は大漁だったのだろうか、4月になると大量のカドが配給されたのである。それまで戦争でまともな魚が食べられなかったので、私たち子どもはその匂いをかぐと食べたくてしかたがなかった。
 しかし食べられなかった。今と違って当時の葬式等の仏事で出すのは精進料理であったし、肉親は五七日まで、つまり死後35日間、魚や肉などの生臭ものを断たなければならなかったからである。
 母の死後35日過ぎてはじめて夜の食卓にカドが出され、家族みんなで食べた。でも父だけは食べなかった。父は百ヶ日が終わるまで、つまり3ヶ月以上の間、魚と肉は一切口にしなかった。私もそうしようと心ひそかに決め、その35日の日は食べなかった。父は私に食べるようにと言ったけれども。しかし、それから4、五日もたたないうちに、カドを焼く匂いの誘惑に負けてしまった。自分の弱さを責めながら口に入れた。おいしかった。母に申し訳ないと思いながらも食べた。
 カドを焼く匂いをかぐと、食べたいと思うのと同時に罪悪感のようなものが今でもかすかに胸をよぎり、辛かったあのころの気持ちがふっと思い浮かぶときがある(註1)。

 1960年頃の仙台、住宅街を通るとそれぞれの家から魚を焼くいい匂いがしてきた。これは山形も同じだが、仙台の場合は、夕食にまだまだの3時ころから魚を焼く匂いがただよってくる。しかもそれが魚屋さんからである。見ると店先に炭火がおいてあり、そこで金串に刺した何か白い楕円形のものを焼いている。最初は何かわからなかった。山形では見かけないものだったからである。それは「笹かまぼこ」だった。自分の店の売れ残った白身の魚なども入れてすり潰してすり身にし、形をととのえて焼いて売っていたのである。だから当時の笹かまぼこには魚屋さんの手の指の跡がついていた。いまは仙台名物になっているが、その昔の笹かまぼこはまさに売れ残りを処理するための、廃棄物を出さないようにするためのものでもあり、冷蔵施設のない当時のきわめて合理的な魚屋さんの製品だったのである(と私は考えている)。
 そればかりではなかった。夕方になると普通の魚も焼いて売っていた。これも冷蔵手段のない時代の産物で、売れ残りを焼いて売っていたのである。ただよってくるおいしそうな匂いをかげばついつい魚屋に立ち寄りたくなるし、熱々の焼き魚を見ればついつい買いたくなってしまう。ついでに他の魚なども買ってしまう。ともかくうまいことを考えたものだと思う。
 山形ではこんなことはなかった。だから魚は家で焼いて食べるものだと思っていたので驚いた。仙台の人は魚焼きまで家事まで手抜きをするのかとすら考えた。しかしそれは誤りで、生魚が多く売られているかどうかの違いだった。海から遠い山形では生魚の品数も量も少ないので余って焼いて売らなければならないなどということはなかったし、夕方おそくなったら腐って捨ててしまわなければならない質の悪いものも多かったので焼いて売るわけにはいかなかったのだろう。

 いつごろからであろうか。魚を焼く匂いが各家庭からただよわなくなってきた。炭火で魚を焼く時代ではなくなり、家の密閉度も高まったからであろう。
 さらに魚屋さんから魚を焼く匂いがただよってくるなどということもなくなった。あれだけ多かった魚屋さんはなくなってしまったからである。スーパーで焼いて売るなどということはもちろんしない。笹かまぼこは専門の業者の専売になってしまった。
 夕方ただよう焼き魚、笹かまぼこの匂い、これも海に近い都市の食文化の一つだと思うのだが、とうとう消えてなくなってしまった。
 これは70年代以降の流通機構の変化、その基礎となる冷凍・冷蔵技術の進展等によるものだが、魚屋さんがなくなり、さらには八百屋さんもなくなったのはとても淋しい。
 そのかわりに、カドはほぼ一年中スーパーの店先に並ぶようになった。秋にしか魚屋になかったサンマもいつ行っても店先にある。といっても、春にはカドが多く、秋にはサンマが多い。その点ではやはりカドは「春告魚」であり、サンマは「秋刀魚」である。旬(しゅん)はある。ありながらも一年中いつでも食べられる。これは幸せなことではないだろうか。
 かつては旬の時、つまり大漁のさいには買いたたかれ、捨て値で売らざるを得ず、さらには廃棄せざるを得なかった。それが冷凍、冷蔵等の技術の発展によって保存され、捨てられることなく一年中食べられるようになった。これは資源の活用という面から考えても大きな進歩といえよう。
 農産物もかつての旬のときだけでなく一年中店先に並ぶようになった。これは冷凍、冷蔵等の技術だけでなく、施設栽培技術を始めとする農業技術の進歩によるものだった。
 今から20年ほど前になるが、このことについて次のような一文を書いたことがあった。

 「いま仙台のけやき並木が美しい。その緑は本格的な夏の近さを思わせる。もうすぐ露地もののキュウリ、トマト、ナスが食べられる。まさに旬(しゅん)となる。
 旬といえば、それが最近わからなくなったと消費者からよくいわれる。そしてそれは、生産者が季節はずれの野菜や果物に力を入れ、高くてまずいものを売るようになったからだという。
 しかし生産者はなにも好んで季節はずれのものをつくっているわけではない。できるなら旬のものをつくりたい。その方がつくりやすいし、収量も高いからだ。
 しかし価格はあまりにも低い。とくに最近は、かつてのように旬の時に大量に買ってさまざまに調理して食べたり、漬け物にして保存しておくことをしなくなった。
 こうした料理の単純化が買う量を減らし、価格をさらに低める。それどころか消費者は安いとかえって買わない。近くの八百屋さんで聞くと、同じ量を仕入れても、高いときはすべて売り切れるが、安いときは売れ残るという。それでますます安くなる。これでは生産するわけにはいかない。
 ところが季節はずれのものは高く買ってくれる。つまりそれだけ消費者の需要があるのである。だから農家はそれにこたえて無理してでもつくる。
 このことは、農家が季節はずれのものをつくるからではなく、それに対する消費者の需要があることが旬をなくしていることを示しているのではなかろうか。

 それでは、季節はずれのものを食べたいという消費者の考え方はまちがっているのだろうか。
 『二十四孝』という中国の古い説話を聞いたことがある。親孝行の話を二十四集めたものという。このなかに、次のような話があった。
 老母が死のまぎわにタケノコを食べたいといった。しかし真冬である。それでも親孝行の息子は、雪のなか竹林に行ってタケノコをさがした。神様はそれを見て感心し、タケノコを生やしてやった。それを食べた老母は元気になった。
 この話は、食べたいものが旬の時期以外にもあればいいという願いを人間は昔からもっていたことを示すものではなかろうか。
 私自身も以前からそうした願いをもっていた。
 戦時中、一歳半になる私の妹が、はしかから腎臓を患い、重病になった。薬のないそのころなので、祖母が腎臓に効果があるとしてスイカのエキスのようなものを買ってきた。真っ黒でとても飲めたものではなかったらしく、妹はいやがったが、むりやり飲ませていた。妹は、スイカとブドウ、納豆が大好きだった。腎臓にきくなら、スイカそのものを食べさせてやりたかった。
 しかし、真冬のことで当然あるわけはない。正月の寒い日、妹は死んだ(註2)。あれほど好きだったスイカやブドウを食べずに、幼い命がつきてしまった。そのとき、しみじみ思った。真冬でもスイカとブドウを食べさせてやれるようにならないものか。それができる農業をつくりだせないものかと。

 当然、季節はずれのものの生産は多くの資材、エネルギーを要求する。これは資源の浪費だからやるべきではないという。とくに東北のような寒冷地でハウス栽培などはすべきでないという。
 たしかに東北は雪国である。だからかつては冬期間青物は食べられなかった。そこで知恵を出し、秋に大量につくった漬物と雪のなかに埋めたわずかの野菜とで、最低限必要な栄養分を確保してきた。だから東北の漬物は多種多様であり、本当においしい。
 もちろんそれで満足はできない。だから春はうれしかった。雪のなかから芽生えてくる野草、山菜、ともかく緑のもので食べられるものはすべて食べた。
 東北で冬に野菜を生産するなという人は、こうした昔に帰れというのか。漬物だけで冬を過ごせというのか。
 いやそうは言わない、石油など使わなくともすむ暖かい地方から野菜などをもってくればいいというかもしれない。
 しかし、そこからもってくるにしてもガソリンは使う。やはりエネルギーの浪費ではないか。同じ浪費なら、東北で生産してもかまわないではないか。しかもそれは東北の農家に冬期間の農業就業機会を増やし、青年層の農外流出を抑え、担い手を残す効果もある。

 もちろん、資源の浪費は、また農薬散布などは、できるかぎり避けなければならない。そのための農業技術の発展にさらに努力しなければならない。
 また、市場の営利主義に単純に応じてはならないであろう。市場は、安くて手数料があまり入らず、量が多くて面倒な旬の時期の出荷をいやがり、少量で価格が高く、手数料が多くとれる季節はずれのものを要求しがちだからである。
 しかし、農家にとっては、いくら市場価格が高くとも、コスト高で手取りが少なければ何にもならない。それを忘れて季節はずれにのみ力を入れて市場のもうけに奉仕し、旬の生産量を減らして消費者に高いものだけを食わせるなどということがあってはならない。
 そして、消費者に本当の旬を教えていかなければならない。やはり近年は旬を忘れつつあるからである。とくに若い人にその傾向が強い。旬のうまさを教え、さらに消費量を増やし、価格の暴落などが起きないようにしていく必要があろう。

 農業技術の発展のなかで、かなりの青果物の生産が一年中できるようになった。その値段さえ問わなければいつでも食べたいものが食べられるようになった。やはりこのことは素直に喜ぶべきではなかろうか。
 しかも、旬がなくなったというが、やはり旬はある。それはそのうまさでわかる。そして消費者もそれがわかっている。だから、旬の時期の消費量が多く、それに対応して生産量も多いのである。
 旬があって、しかも食べたいときはいつでも食べられる。こういう幸せを望んでいいのではなかろうか。そして農業はそれにこたえていくべきではなかろうか。
 東北の夏は、昼は暑く、夜は涼しい。だからうまい野菜ができる。今年もそれを思いきり味わおう。近づく夏を、旬を楽しみにして待っている今日この頃である。」(註3)

(註)
1.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」参照
2.10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」 参照
3.拙稿「食べたいときにいつでも食べられる幸せ─同時に旬も大切にしたい─」、全国農業協同組合連合会『全農通信』1928号(1988年7月11日)所収
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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