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食と農の断絶─「新栄養失調時代」の到来─


               食をめぐる消費者と生産者の諸問題(4)

              ☆食と農の断絶─「新栄養失調時代」の到来─

 これまで農薬問題に関心をもつ消費者の悪口を言ってきた。悪くは言ったが、そうした消費者はまだいい。ともかく食に、農業に関心をもっているからだ。そして誤解さえ解ければわかってくれるし、農業の発展を応援してもくれる。
 問題なのは、食にまったく関心をもたない消費者である。当然のことながら彼らは日本の農業に関心をもっていない。こうした消費者が増えてきている。そしてこれが日本農業衰退の促進剤になっている。
 かつてはそんなことはなかった。ほとんどの国民が食に、農に対する強い関心をもっていた。
 その昔は国民の圧倒的多数が農民、農村住民で、都市住民は少数派であり、農産物の消費者は即生産者だったからこれは当然のことである。
 もちろん、資本主義が発達してくるなかで農民の比率は低下する。資本主義は農村から都市や工場地帯に労働力を吸収しながら発展するものだからである。そして都市人口、農業生産をしない消費者が増えてくる。しかしその消費者の圧倒的多数は農民・農村出身である。そして農業の体験をほとんどもっており、農村は都市で食いはぐれたりしたときに帰るふるさとだった。だから農村、農業に違和感はなかった。
 しかもいまのように都市が大きくない。すぐ近くに農村があり、農業が見える。また農産物もその近郊農村から直接、あるいは八百屋などを通じて地域から購入する。交通手段が今ほど発達していないから、今はやりになっている地産地消などは当時としては当然というより必然だったのである。このように、都市と農村は分離されつつあっても、いまだに心の面でまた食(=身体)の面で、つまり心身ともにつながっていた。だから、農業がだめになったら食べられなくなる、生きていけないということが実感としてわかっていた。
 しかし、1960年代からこのつながりが断絶してくるようになる。それはまず、資本の高度成長のもとで、農村から都市への労働力流動化、とりわけ離村が激しく進んだことからもたらされた。いうまでもなく、家ぐるみの離村は、ましてやその結果としての集落の消滅は、農村との縁が切れたことを意味する。帰るべきふるさとがなくなるのである。一方、明治以降昭和初期までの間に農村から出てきた都市住民は、たとえ家や親戚が残っていたとしても、農村から出てきたばかりの一代目、その二代目ぐらいまではまだ農村との親戚づきあいがあるが、三代目、四代目となると縁が切れてくる。こうしてもふるさとがなくなってくる。つまり都市と農村、生産と消費は「血縁的に断絶」するようになる。そして都市住民には農業、農村が見えなくなってくる。
 さらに、こうした農村からの都市への人口集中、都市の急激な膨張は、これまでの都市近郊農業を崩壊させる。このことは触れあえるような農村、農業が近くになくなることを意味する。都市の巨大化は消費者に農業、農村を見えなくさせるのである。かくして都市と農村、生産と消費は「地縁的に断絶」させられる。
 それどころか、都市住民と近郊農家との間に対立まで引き起こされる。都市の人口集中にともなう住宅問題の深刻化のなかで、農家が農地を手放さないから都市住民は困るのだ、都市住民が高地価で困っているときに近郊農家は土地成金でぜいたくしている、こういう反感が醸成されてくる。土地転がしに基礎をおいた高度経済成長に酔いしれる財界は、こうした対立を煽りながら土地を買い占めて開発し、都市近郊農業を潰していく。
 ただ、そうなると問題となるのが大都市における生鮮野菜等の農産物の入手先である。それを解決したのが、高度経済成長の牽引車となったモータリゼーションを中心とする輸送手段の発達であった。遠隔地から農産物を運んでこれるようになり、近郊農業がなくとも生きていけるようになったのである。このことはまた、遠隔地から大量に農産物をもってこないと巨大化した都市の生活が支えられなくなったことを意味する。
 これに対応して農産物の流通機構が大きく変化した。たとえば大都市の大市場に全国から集められた野菜が転送等で地方の中小市場に送られるという集散市場体系が成立するようになった。こうしたなかで、巨大都市ばかりでなく、地方の中小都市までその地域で生産される農産物を食べなくなる。つまり地域の農産物が他の地域の農産物によって置き換えられるようになってくる。そして生産者から消費者に届くまでの距離が長くなり、その間にさまざまな流通・加工・輸送業者が入り、消費者に生産が、生産者が見えなくなる。
 そればかりではない。地域の農産物は外国農産物によってもおきかえられる。すなわち、世界支配をさらに進めようとするアメリカの多国籍企業、高度経済成長を進めようとする日本の財界は資本と貿易の自由化を進めてきた。そのために、いかに日本の農産物価格は高く、農家は過保護であるか、それでいかに消費者は苦しめられているか、消費者優先の時代なのにこれはおかしいなどと宣伝し、生産者と消費者の対立を煽ってきた。農業、農村を知らなくなった消費者はそうした扇動にのせられた。そして農産物の輸入自由化が進められ、外国農産物が大量に日本に入ってくる。こうしたなかで消費者は、日本の農産物を食わなくとも、日本から農業がなくなっても、外国農産物を買えば生きていけると考えるようになってくる。つまり日本の農業の重要性がわからなくなってくる。
 それどころか、農業が人間が生きていく上で最低限必要な食料を生産するものだということすらわからなくなってくる。農産物をつくっている場所や人の顔がわからないのだから当然のことである。しかも、とにかく食べ物はスーパーに行けば豊富にあるから農業のことはまったく考えなくてすむ。
 かくして「都市と農村の断絶」どころか「食と農の断絶」となる。
 そして農にとくに関心をもたなくなってくる。とりわけ子どもたちは、豊かな自然や生物と触れ合う機会、自ら食糧を生産する機会、つまり人間なら本来持っているし持つべきである機会をもてないので、たとえば稲と米は結びつかず、米は木になり、うどんはうどんという作物からとれると思い、鶏は三本足だなどと考える。大人たちも消費者優先の社会だなどといわれるなかで生産を忘れさせられる。
 こうした人間性を喪失した人間は当然食の安全、環境破壊などには無関心となる。だから、会社人間となって利益を得るために食の安全を無視し、中味をごまかして食品を生産・販売したりする。家庭では何も考えず子どもたちをファーストフードに通わせ、スナック菓子を食わせ、コカコーラなどの清涼飲料水をたらふく飲ませる。

 こうした生産と消費の断絶は、都市住民の精神的荒廃、肉体的荒廃をもたらすことになる。その荒廃は、子どもにまで、というより子どもにもっとも激しく現れる。
 朝飯を食べさせられないで学校に行く子供たちが増えていることはその典型例であろう。もちろん昔も朝飯が食べられない子どもがいた。しかしそれは親が貧乏で、食べさせたくとも食べさせられなかったからだった。そしてかつての親は貧しいなかでいかに食わせるか、必要な栄養をいかにとらせるか、非常に苦労をし、知恵を出して食べさせた。ところが今は親の食に対する無関心で食べさせられないのである。そして飽食の時代であるにもかかわらず、食べるものはいくらでもあるにもかかわらず、子どもにまともに食わせることを忘れている。
 こうしたなかでいま子どもたち、若者たちは栄養失調になっている。かつての栄養失調時代とは違った新しい栄養失調時代を迎えている。
 戦前の農村や戦後の都市を思い出せばわかるように、かつてはまさに栄養失調にあえいでいた。ただしそれは食料不足、貧困等からくる「量的栄養失調」であった。要するに食えなかったのである。その被害をもっとも受けたのは、身体が十分にできておらず、抵抗性の弱い子どもたちであった。病気になり、死んでいく子どもも多かった。
 これに対し、現在の栄養失調は質の問題である。食えないのではなく、必要なものを食わない、食わせられないことによる栄養失調、つまり量の問題ではなく、「質的な栄養失調」なのである。
 飽食の時代のなかで新たな栄養失調が生まれており、まさに『新栄養失調時代』を迎えているのである。
 ただしこの言葉は私が勝手につけたので科学的に正しいのかどうかわからない。しかしそうとしか言いようがない。しかもこれは大人の、とくに親の、食に対する無理解からもたらされたものである。朝飯を食わせない、食わせてもパンと牛乳だけなどはその典型例である。またバランスよく食わせてもいない。ご飯はまともに食べないでスナック菓子やコーラでおなかをいっぱいにしている子どもに注意もしない。こうした親のもとで育つから子どもは食に対する理解をもたずに若者になる。その結果、大きくなればなったで、女性は太るからと言って食事を制限する。最近は、マスコミやエステ産業の宣伝の中で、子どもたちまでがやせたいと考えようになっている。そして食わない。ご飯を食べないでサプリメントだけとっている女性もいる。その結果が栄養失調である。過度のやせすぎとなって身体をこわしている若い女性、ペットボトル症候群や味音痴にさせられている若者などはその典型である。そしてついには精神的不安定となる。たとえばカルシウム不足などですぐ切れるようになり、自殺したり、刃物を振り回して他殺に走ったりする。ある程度の量は食べているから死なないが、自らをあるいは他人を死なせるのである。
 こうして徐々に子どもの身体が心がむしばまれている。そして昔は「餓死」だったが、今の新栄養失調時代は「自殺・他殺」で、子どもたちが若者が命を失っているのである。それに拍車をかけているのが農薬、添加物入りの輸入食料への依存だ。
 まさに子どもたちは被害者である。

 若い女性のやせすぎと逆に、太りすぎになるくらい食べ、やせるためにとエステやフィットネス等に通ってエネルギーを浪費している中高年がいる。途上国などに餓死寸前の人々がいるのにである。しかもスポーツクラブなどに通って電力等を消費しながら環境まで破壊しながらやせようと努力する。エステでやっている自転車こぎで発電するならまだいいが、ただエネルギーを浪費するだけ、まことにもったいない。この世の中、何かおかしい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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