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規制と教育の必要性


               食をめぐる消費者と生産者の諸問題(6)

                  ☆規制と教育の必要性

 価格の安いものを追い求める、これは消費者として当然の行動でまちがってはいない。それは経済的に合理的な行動であるばかりでなく、経済を発展させることにもなる。消費者の要求に応えて生産の側が生産性をたかめようとし、その結果技術が進歩し、少ない物財と労働で多くのものが生産できるようになるからである。このように個々人の要求が積み重なると経済を発展させ、社会を進歩させる。つまり個々人のミクロ的な合理的行動はマクロ的にみても合理的な行動となる。
 しかし、必ずしもそうはならない場合もある。たとえば、現段階で個々の消費者が単純に安い農産物を追い求めることは外国農産物の輸入の増大に直結する。そして日本農業は衰退し、21世紀の食糧危機に対応できなくなり、また食の安全はおびやかされ、さらに地球の環境も悪化させる。つまり個々の経済合理主義的行動はそれを合計すると非合理的行動となる。
 このようにミクロの合理はそれを合わせると、つまりマクロになると合理的とはならない場合もあるのである。これは「合成の誤謬」と呼ばれる。
 近年の工業の生産拠点の海外移転なども同様である。個々の企業にとっては、円高ドル安と海外の低賃金を利用して利益を拡大し、経営として生きのびようとする行動であり、きわめて当然の合理的な行動である。しかし、みんながそうした行動をとると、つまりそうした個々の行動が合成されると、いわゆる開発輸入が増えて国内産業は潰れることになる。そして経済の空洞化が進み、労働者の失業は増大し、最終的には自分も苦しむようになる。
 こうした合成の誤謬におちいってはならない。しかし、放置しておけばその誤謬におちいってしまう。そこで必要となるのが、そうならないように公的機関が誘導していくことである。こうした問題点についての教育を展開し、個々の無制限の経済的合理的行動を規制し、そうした行動に走らないように誘導していくことは公的機関の任務なのである。
 ところが残念ながら政府はそうしようとはしない。それどころか規制緩和、消費者優先などと言って合成の誤謬に拍車をかけている。そして多国籍企業の利益に奉仕しようとしている。

 そもそも消費者優先なるものは、「消費者は神様」とおだてあげ、「浪費は美徳」として売り込み、消費者に無駄なものまで買わせ、また捨てさせることで生産を拡大し、利益を得ていこうとする現代の資本主義の論理なのである。そしてこの消費者優先に対応する生産の軽視は、生産つまり人間の労働ではなくてお金が価値を生み出すと考える逆立ちした資本の論理、さらに生産を忘れてマネーゲームに走る退廃した資本主義の論理の反映でしかない。
 しかし、ここで忘れてならないことは、生産、労働こそ人間を人間にさせたものだということである。動物は消費はするが生産はしない。目的意識をもって自然に働きかけ、自然を改造して新しいものを絶えず創造する、生産するという労働はしない。動物は本能的に繰り返し同じものを作るだけなのである。消費優先と言うことはこうした動物に帰るということにしかならない。また、生産があって消費があり、その統体である生活があるという関係にあることも見落としてはならない。
 改めて原点に立ち返る必要があろう。そして消費者の利益のために規制緩和をするなどと言わせないようにしなければならない。食の安全はもちろんのこと環境、資源を本当にまもろうとするなら規制はかえって強化すべきものだからである。自主規制、相互規制、法的規制を新たな段階で構築すべきなのである。

 私たちの先祖は、生産・生活あらゆる面で、家庭内、地域内での教育や話し合いを通じて自主規制、相互規制をし、さらには決まりや法律をつくって、つまり法的規制をして、社会を存続させてきた。その昔の農村における共同体的規制はその典型例であり、きまり、掟などをつくって農地、水、大気、森林等々生産と生活に必要不可欠の資源、環境を維持し、食料や衣料、住居を確保してきた。そして太陽はもちろんのこと、海、山、川、水、森、田畑等々、あらゆるものに神が宿っているとして大事にしてきた。
 子どもたちにはやっていいことと悪いことを家族や地域が徹底して教え込んだ。たとえば農地や水、山を汚したり、荒らしたりすると、親はもちろん隣近所の大人も厳しく叱った。叱るだけでなく、面白おかしいあるいはこわい話、いわゆる民話をつくって子供たちを説得し、資源と環境、衣食住をまもってきた。たとえばあの山にこの時期に行くと山姥が出る、あの堰、淵、ため池に行くと河童が出てきて馬や人間の尻の穴を抜くとかの話をつくり、みだりに人間が近づかないようにして山林や水源をまもってきた。そしてそれは子供たちの命を直接まもるためにもなった。たとえば河童がいるといって怖がらせ、堰やため池で水遊びをして溺れたりしないようにもしたのである。さらにご飯をこぼせば罰が当たるなどといって自然と人間の共同の生産物たる食を大事にするようにも教えた。生産物をむだにしないことで人間の必要とする以上に資源を酷使したり、環境に負荷を与えたりすることのないようにしたのである。
 子どもたちも子どもたち同士で、何をやってならないか何をなすべきかを教え合い、年上の子どもが年下に伝え、お互いにいましめあって大人になっていった。たとえば野生植物に食べられるものと食べられないものとがあることを年上の子どもが、仲間が教えてくれる。どこに行けばこういうものがとれる、スグリ、グミ、オンコ、バライチゴの実は食べられるが蛇イチゴは食べられない、青梅には毒がある等々、子どもの間での情報交換、相互教育をし、何かまちがったことをすると仲間がやめさせた。まさに相互規制をしてきた。
 こうした自主規制、相互規制を今こそ個人の自由、自立に立脚した新たな段階で構築し、必要な場合にはそれを法制化することを考えるべきではなかろうか。また資源と環境、食と農に関する教育を、学校で家庭でさらに地域で、言葉でまた体験を通じて展開し、食と農の断絶をなくしていくことが必要なのではなかろうか。

 ところが教育現場を見てみると、学校の厳しい校則のなかには環境・資源をまもるためのきまりはなく、農業・食糧問題は小学5年生のとき以外まったく教えない。
 親も親で、受験教育は推奨するが、人間として最低まもるべきことの教育はしない。高度経済成長時代に育った親はもったいないということを忘れ、資源や食料を大事にしなければならないなどの教育はしない。
 これでは食と農はもちろん環境も文化もまもれない。そうなればいまこそ子どもから大人までの食と農に関する教育、じっくり腰を据えた持続的な対策を政府に展開させ、地域に根ざした食料自給率積み上げ運動を推奨・支援する政策を積極的に展開させていくこと、それを基礎に食の安定・安全供給を可能にするような生産者・消費者の自主規制、相互規制ができるようにし、さらに多方面での法的規制をとらせていくことが必要となっているのではなかろうか。

 朝、東京の各駅の前にある立ち食いそば屋にサラリーマンが群がっている。独身者だけではなさそうだ。何ともわびしい光景だが、それでも朝食をとるだけいい。都市生活者の4割は朝飯抜きだというニュースを見たことがある。
 長時間労働、長時間通勤で家でまともな朝食をとる暇がないのだろう。こうした異常さが普通になっていれば、子どもたちの異常な食も気にならなくなるのは当然である。こうした状況におかれている都市生活者にこれまで述べた教育だとか規制だとか言うだけではどうしようもないのかもしれない。
 カローシまで引き起こしているような現在の長時間労働を規制し、巨大都市の異常な膨張を抑制していくこと、要するに今の狂った社会を直していくこと、これがまともな食生活に戻していく上で不可欠なのではなかろうか。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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