Entries

「飲む」「打つ」と農地手放し-戦前の話-


                始まった新たな農地移動(1)

              ☆「飲む」「打つ」と農地手放し-戦前の話-

 60年代後半ではなかったろうか、まだ明るさの残る夏の夕方、農家調査が終わったので調査員みんなでバスに乗り、宮城県北のある駅に着いた。仙台に向かう列車が来るまでまだかなり時間がある。暇つぶしのために飲み屋にでもと思ってもそんなものはない。しかたなく駅前をうろついていたら、酒屋があった。その店のなかに仕事帰りかと思われる人が2、3人、コップを持って立っている。コップには酒が入っているようだ。さきイカなどの入った袋を買い、それをつまみにしてコップを傾けている。酒がなくなると店の人が一升びんからコップに酒を注いでくれる。バスが駅に着いた。彼らは勘定を払い、そのバスに乗り込む。
 これを見た私たちはすぐに真似をした。何しろ値段は安いし、時間つぶしには最高だった。
 いいことを覚えた。それから農村部の駅で待ち時間があれば駅前の酒屋で立ち飲みをするようになった。
 夕方、仕事帰りにキュッと一杯ひっかけ、いい気持ちになって家路につく、何ともほほえましい。しかも飲み屋と違って原価で安く飲めるのだから、家族にも迷惑をかけない。
 ところが、この「コップ酒」で農家が土地を手放したことが明治期にあったという。もちろんその頃だから「茶わん酒」なのだろうが。

 明治の初め、宮城県北のある造り酒屋が自分の家で作った酒を飲ませる店を街道の峠に開いた。自動車もなく、鉄道も整備されていない時代だから、その街道はいろいろな通行人でにぎわっていたが、牛馬であるいは背中に背負って農林産物等を運搬したり、町でそれを売ってきたりする近在の村の人々も朝早くからそこを通る。やがて彼らは仕事を終え、昼おそくか夕方近く帰って来る。峠まで来るとほっとする。後は下るだけ、牛馬といっしょなら彼らは黙っていても家に連れて行ってくれる。しかもふところにたんまり金はある。ついつい気のゆるみからその店で一杯飲む。さて帰ろうと店の椅子から腰をあげ、勘定を払おうとする。しかし店の者は金を受け取らない。「支払いはいつでもいいから」と言う。たいした金ではないし、町で手に入れたお金はそっくり家にもって帰れるので家族にも喜ばれる。「それではこの次来たときに払うから」と家路につく。しかしその次も同じことで、店はお金を受け取らない。直接ふところが傷まないから、ついつい一杯が二杯、二杯が三杯となっていく。それが繰り返されて年末になる。酒屋から請求がくる。かなりの金額になっている。しかし、今まで得た金はぎりぎりいっぱいの暮らしのなかですべて家計に回っているから、払えるようなお金は残っていない。払えない。やむを得ず借用書を書く。翌年も同じことが続く。そのうち借金がたまりにたまり、そのかたに土地が取り上げられる。こうしてその酒屋は数年のうちに大地主になったと言う。
 この話を研究室の技官をしていたTKさんから聞いたとき、本当かなあと笑ってしまったが、まああり得ない話ではない。私もそうだからだ。財布の範囲内で飲めばいいものをツケで飲むものだからついつい飲んでしまい、年末にかなり借金をかかえ、家内に頭を下げて小遣いの臨時支出をお願いしたものだった。
 酒の失敗、つまり「飲む」で土地を売る話があるとすれば、「打つ」でそういう話があってもいいはずだ。実際にあった。

 かの有名な国定忠治は、「赤城の山も今宵限り」の名せりふでわかるように、群馬の人である。この群馬県出身の同級生に言わせると、群馬には忠治のようなやくざが昔から多かったという。言うまでもなくやくざが多いということは博打(ばくち)が盛んだということを示す。それではなぜ博打が多いのか。二人で議論になった。これは養蚕が農業の中心だったということと関係があるのではなかろうか。養蚕というものは生産量、価格の変動がきわめて激しい。つまり当たりはずれが激しく、一種の博打みたいなものである。こうしたことから住民に博打打ち的な性格が身に付く。また養蚕は自給性をもたずすべて販売され、その金で生活するので、貨幣経済が浸透している。つまり博打に掛ける現金はある。こうしたことが博打を盛んにさせ、やくざをはびこらせるのではなかろうか。学生時代のことだから何の立証もなしにこうした結論になったのだが、何となく納得したものである。
 もしもこの「理論」が正しいとすれば、東北の養蚕地帯でも博打が盛んだったはずである。でもそんなことは聞いたことがない。東北は違うのだろうと思っていた。
 ところがそうではなかった。養蚕の盛んな山形県村山地方のある村の調査で大正末に博打で捕まった農家がかなりいたことがわかったのである。その村(昭和の合併以前の村)の戸数は約500戸だが、十数人も捕まって有罪となっていた。このときは捕まらなかったがやったことのある人はもっといたはずである。そうなると、博打を打っていた人数はかなりの数となるはずだ。そして警察に捕まるほど、つまり目に余るほどなのだから、博打の借金で土地を取り上げられ、小作農に転落するものもいたはずである。実際にそこは小作人の村だった。
 もちろんこんなことは調査報告には書けなかったが、やはりわれわれの「養蚕博打理論」は間違っていなかった。でもそうなると、養蚕地帯以外の農村、たとえば水稲中心地帯などではこんなことはないはずである。
 ところがこれも違った。宮城県北の米どころのある集落に調査に行ったときのことである。集落内の農家のお宅に3日も泊めていただいて調査をさせていただいたのだが、そのなかで農家の方とかなり親しくなったころ、あるお年寄りの方が、こんな話を教えてくれた。実は昔ここは博打部落、こわい部落として近隣で有名だったのだと。やくざなどが来て打つのかと聞くと、そうではない、やくざもいるけれども、農家も含めて普通の人が近在から集まってくるのだという。博打を打つ日となると、集落内のあちこちに何人かのおっかなそうな張り番がたつ、普通の家では子どもたちなどを博打を打つ家の近くには絶対に近づかせない、子どものころは本当にこわかった、だから普通の時でもその家は避けて通ったものだったという。
 驚いた。博打はどこの農村にもあったのである。博打で身上(しんしょう)をつぶすというのは町場のことだけかと思っていたら農村部にもあった。人間はやはり同じ弱さをもっているのだろう。ただ、それ以外の村でこういう話を聞いたことがない。だからこれは特殊な事例でしかないのかもしれないのだが。
 これも特殊事例なのだろうか、研究室のメンバーと弘前の近くのある町の調査に行ったときのことである。ある農家の調査だけは先生が行った方がいいと役場の人がにやにやしながらいう。どうしてかと聞くとその農家の主人はやくざだ、先生しか対応できないだろうという。恐る恐る行ってみた。普通の人である。質問にはきちんと答えてくれる。ただ、兼業についてだけはたまに外で働いているというだけでその内容、収入ともにあいまいだった。恐らくこれがやくざ稼業なのだろう。しつこく聞く訳にもいかず、そのまま帰ってきたのだが、「やくざ兼業」というのがあることを知ったのは初めてだった。彼が「打つ」をやっているかどうかわからない。ちなみに、集落での農地の売買はこの十数年間なかった。

 なお、「買う」で農家が身上をつぶしたという話は村で聞いたことはない。地主など金持ちが花街で「飲む」「買う」の贅沢をして財産をなくしたという話はよく聞いたが、普通の農家がそれで失敗したというのは聞いたことがない。花街に行くだけの金がなかったからなのか、私の調査能力の不足で聞けなかっただけなのか、わからない。

 いうまでもないが、「飲む」「打つ」で土地を手放すなどというのは特殊事例でしかない。
 かつては普通のまともなつましい暮らしをしているにもかかわらず土地を手放さざるを得なくなったものだった。
 平年のときでさえ家族がぎりぎりいっぱい食べられる程度の生産しかできないのに、災害にあったり、価格が暴落したり、家族が病気や怪我をしたりしたら食っていけなくなり、金や食糧を借りなければならなくなる。ところがその貸し手たり得る金持ち、つまり地主や商人、金貸しは暴利をむさぼる。結局借金は返せず、土地を売って返すより他なかったのである。そして小作人になるか、夜逃げするしかなかった。
 こんなことにならないように、地主小作制が復活したりしないようにしようと、戦後は農畜産物の価格補償制度をつくり、また農協をつくって協同で信用事業を展開して前期的な商人資本や高利貸資本を排除し、さらに災害等には農林公庫等の長期低利融資、病気には健康保険で対処できるようにした。こうしたなかで、博打を打ちたくなるような自暴自棄にならなくともすむ世の中になり、また酒も相対的に安くなり、「飲む」、「打つ」で身上をなくすなどという話はほとんど聞かなくなった。また、家族の病気や災害で多額の借金をかかえて土地を売るなどという話もあまり聞かなくなってきた。政府は自作農の創設維持、耕す者が土地を所有するという農地改革の精神をまもるために農地の売買を極力抑えたからである。
 ところが、1960年以降、政府は農地流動化を推進するとして土地の売買を推奨するようになった。この推奨にのって北海道などでは開拓とその後の規模拡大などで借金をかかえた農家が農地を売って離農していった。
 しかし、東北では売買はほとんど進まなかった。ところが80年代半ばになって農家の負債が、そしてそれを起因とする土地手放しが東北地方の深刻な問題となってきた。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR