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大口負債と農地売却



                始まった新たな農地移動(2)

                 ☆大口負債と農地売却

 83年のことである。最近大口負債農家の数が急激に増えている、なぜなのか調べてくれという話が宮城県の職員の方からあった。それで普及所や農協の協力を得て調査を開始した。調べて見ると、農家戸数の約3%の3千戸が1千万円以上の借金をかかえていた。
 そのうちの6割が畜産農家だった。しかもその負債額は大きかった。とくに肥育豚、肥育牛、鶏飼育農家の負債が大変だった。これは岩手県の調査でもほぼ同じ結果で、東北の他の県でもやはりそうだった。
 ゴールなき規模拡大で家畜を増やし、それに対応して畜舎を新築し、機械・施設を購入せざるを得なくなったために借金をせざるを得なくなったのである。しかも、建築費を安くすませるために古材で畜舎をつくりたい、そのための低利資金を借りたいといってもそれは認められない。杓子定規の基準にあっていないと借り入れは認めないので、どうしても高価な新建材等を使わざるを得ない。だからなおのこと借金はふくらむ。また、家畜をふやしたからといってすぐに収入が入ってくるわけではない。肥育牛の場合などは最低1年半はかかる。しかしその間も餌は食わせなければならない。餌代も借金となる。
 こうやって借金しても、畜産物を売った金で返せれば問題はない。ところが77~78年頃から相場がおかしくなってきた。牛肉の輸入自由化をめぐる日米会談が開かれると翌日の相場が豚肉も含めてガタンと落ちる。そして79年には豚価が大暴落した。企業養豚(註)の進出・拡大による生産量の増大がこれに拍車をかけた。養鶏については企業養鶏の拡大が価格低迷に影響を与えた。こうした予想外の価格低迷で餌代等の運営費が払えず、高利の短期資金を借りざるを得なくなる。74年のオイルショック時の餌代高騰による借金がまだ返し終わっていないところにこれでは、当然返済できない。それでそのほとんどが固定負債となり、毎年それが増えていくことになる。
 その借金を米の収入で減らすことも考えられるが、米価据え置き、減反ではそういうわけにはいかない。そこに80年冷害だから稲作も赤字だ。とくに青森、岩手では冷害がひどかった。その対策として天災資金等の低利資金が大量に来た。しかし、稲作の減収は農業共済金でかなり補うことができる。だから稲作だけについていえば借り入れの必要性はそれほどなかった。しかしそうすると貸付資金つまり予算が余ってしまう。そこで行政はその消化のために農家に借り入れを勧めた。畜産農家はそれに応じた。そして高利の短期資金を低利の天災資金に切り替えた。ところが81、82年とまた冷害が襲った。その所得減を補うために低利資金を借りようとしてもすでに借りているので借り入れ限度枠がいっぱいでもう借りられない。そこで高利の資金を借り入れる。かくして年を追うにつれ負債は雪だるま式に増え、それは固定負債として累積し、やがて返済しきれなくなる。
 ところが酪農家の固定負債は少なかった。もちろん負債をかかえている。しかし何とか返せるという農家が多かった。中小家畜以上に多額の固定資本を要するにもかかわらずである。また繁殖牛飼育農家の借金も少なかった。価格変動の影響を大きく受けているにもかかわらずである。
 なぜこうした違いが出てくるのか。それは酪農、繁殖牛飼育が自給飼料を基礎にしているからだった。ともかく餌代は借金しなくともすんだのである。
 このことは、畜産農家の負債の基本的な責任は、輸入飼料を基礎にした規模拡大を勧めてきた政治にあることを示すものといえよう。
 しかし、こうしたなかでも固定負債をかかえず何とかがんばっている農家が、少数ではあるが、あった。この相違は技術的な能力、経営管理能力にあった。さらに生活設計能力、家計管理能力にもあった。その欠如で大口負債をかかえた農家も多かったのである。

 調査でたまたま新築したばかりのお宅におじゃますることがある。かつての暗くて寒く、非衛生的な建物を解体して合理的で快適な暮らしができるように新築や増改築をするのは当然のことであり、こうした家を訪ねるのは私にはうれしい。
 そうしたなかにたまにびっくりするほど大きな立派な家がある。都市と違って敷地は広いのだし、農村の伝統を引き継いだ広さや間取りもあるだろうし、それでもちろんかまわない。柱や梁等の建材もすごい。家の持ち山や屋敷林の木を使っているのであればそれはきわめてけっこうな話だし、雪国の場合には積雪の対策のために柱や梁などが太く頑丈なのも当然である。
 それにしてもここまで立派にする必要があるのだろうか。隣近所に対する面子、競争心で、見栄で必要以上に金をかけているというようなことはないだろうか。せめてよそ並みというむらの平等意識が働いていないだろうか。そんな疑問をもたせるような家がたまにある。
 広い玄関から家のなかに入る。客間に案内される。革張りのソファがでんとそこを占領し、広い客間も狭く見える。天井を見上げるとホテルにあるようなシャンデリアがぶら下がっている。これまでの農村の家では考えられない。何かちぐはぐな感じがする。建築屋が勧めたのかもしれないが、もしかするとテレビに出てくるような洋風の立派な家が都市の家だと思い、それを自分の家でもやらないと息子に嫁も来ないのではないかと考えたのだろうか。いうまでもなくテレビドラマに出てくるような家などというのは現実には本当に少ない。非常に狭い敷地、狭い家で暮らしているのがほとんどだ。ただしそこには狭い空間を合理的に利用するという知恵がある。そうしたことを学んでお金を節約しようとせず、表面的なことをまねしてお金を無駄遣いしてはいないだろうか。
 もちろん都市と違って土地代がかからないのだから、建物に少しくらい金をかけてもかまわない。また、お金がたくさんあるのであればそれでもかまわない。しかし1千万も2千万もポンと出せるだけの貯金をもっている農家は少ない。当然農協等からの借金となる。するとこれまでの家計費に年賦償還分、利息分が加わることになる。それだけではない。固定資産税は高くなる。今まで以上に電気代や燃料費がかかる。どこかで切りつめなければならない。それを忘れて今まで通りの生活をしていると、そして自動車を買い換えたりなどしていると、つまり家計管理能力がないと、年賦償還分が返せないどころか借金は増えていくことになる。
 それでも高度経済成長時代は何とかなった。米価は、また兼業賃金は毎年のように上昇していたし、インフレで借金が実質目減りするので、借金しても何とか返せた。しかし70年代後半からはそういうわけにはいかなくなった。新築にむだな金をかければ、新築後の生活設計、家計管理がルーズであれば、多額の固定負債をかかえざるを得なくなる時代となっていたのである。

 新築などの生活関連で大口負債をかかえる、宮城県の大口負債農家の調査はそれを示していた。大口負債農家の約4割は住宅新築、結婚式、自動車等の生活関連で負債をかかえるようになったものだった。
 嫁に来てもらうために条件をよくしたい、それで新築し、新しい自動車や機械を購入する、それでうまくいって嫁がくることになれば町のホテルなどで豪勢な結婚式をやる、それで多額の借金をかかえ、土地を手放しているのが多い、山形県置賜地方のある町の農業委員会ではそんな話をしていた。そして言う、家を建てると平場では50㌃、地価の安い山間部では1㌶の水田を売らざるを得なくなると。
 それでも全財産を手放すよりはいい。土地を売って早く借金を整理させ、新しい生活設計のもとで生活を再建し、地域で生きていけるようにすればいい。
 ところが、全財産を整理しても借金を全部返せない農家もあった。畜産農家にそれが多かった。早く整理させればここまでならなかったはずなのにである。一部の土地を売るだけですみ、少なくとも自宅は残ったのではないか。そういうと農協の職員は、土地を売って借金を整理したらどうかとは義理人情からしてなかなか言えないという。それでも、やはりそうするより他ないと組合長など役員に言う。しかし彼らは整理に踏み切ろうとしない。整理しても貸付金の全部を回収できないかもしれず、そうなると自分たちの責任になるからである。そしてずるずると貸し付けを続ける。それで大口負債農家は何とか息をつき、経営を継続する。しかしますます借金が累積する。そして結局は全財産を売って村から出て行かなければならなくなる。
 ある農協の職員がこう自嘲していた。
 「農協は農家を浅瀬で助けて、深みに引きずり込んで殺している」

 農業委員会でこんな話も聞いたこともある。田中内閣の列島改造ブームのときにブルドーザーを買って土建業を始めたものがかなりあった。そのときに親戚だとか近隣、友人だとかから頼まれてその借金の保証人となった農家があった。ところがその後の不況で倒産し、保証人となった農家は債務保証で土地を売らざるを得なくなった。とくに78から79年にかけてこうした事例がかなりあったと。これはここだけではなかった。各地で聞いた話だった。

 こうして80年前後に農地の売却が増えた。
 しかし、戦前からするとたいしたものではなかった。また、当時根強くあった農地の購入希望からするとそれに対応できる量でもなかった。つまり、売買にもとづく農地流動化はなかなか進まなかった。これに対し、貸借による流動化は70年代以降かなり進んだ。

(註)11年8月3日掲載・本稿第二部「☆農業分野への資本の進出」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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