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「荒らしても土地は貸さない」の背景



               始まった新たな農地移動(3)

             ☆「荒らしても土地は貸さない」の背景

 1960年以降展開された農業基本法農政は農地の流動化による規模拡大を推進するとした。しかしそれはなかなか進まなかった。そこで次のようなことがよく言われた。農地法の存在が土地の「資産的保有」をもたらし、農地価格を高騰させ、農地流動化による農地の有効な利用を阻害し、農業の発展を抑えていると。
 しかしそれはおかしい。
 たしかに土地の資産的保有は農地の売買を抑制する。借金などの特別な事情がないかぎり土地を売ろうとしないからだ。しかし土地を持っているだけでは、つまり利用しなければ収入はまったく生まれない。それどころか荒れてしまって土地の資産価値は減ってしまう。したがって、もしも自分の家で利用できなければ、その土地を貸し付けて利用させ、資産としての価値を保全し、さらには借地料の収入を得ようとする。つまり資産的保有は貸借という形での流動化を促進するのである。
 ところが、現実には貸借による流動化もなかなか進展しなかった。
 70年代半ばに会津の調査に行ったときある農家がこう言っていた。
 「たとえ荒らしても、田畑は絶対に他人に貸さない」
 農地改革で小作地がすべて取り上げられてしまった例もあり、貸したらいつ取り上げられて借入者の所有になってしまうかわからない、それなら荒らしても貸さない方が得だというのである。
 もしも彼が旧地主だったらそう言うのもわかる。土地を取り上げられた経験があるからである。しかし自小作農であり、解放を受けた土地もあった。だから農地改革に恨みをもつわけはないはずである。よく聞いて見た。すると彼もわずかな土地だが解放もさせられていた。ただしその土地は小作料収入を目的とするいわゆる地主小作関係にもとづく貸付地ではなかった。農家の経営と生活の維持に不可欠の貸借であった。それが地主的貸借と同じものとして一律に扱われて取り上げられてしまった。それで、土地は絶対に貸さないという農地改革アレルギーになってしまったのである。

 戦前の農地貸借には、前近代的な地主小作的貸借の他に農民的な貸借があった。
 その農民的な貸借のなかには家族労力過不足対応的(ライフサイクル的)貸借と交換分合的貸借との二つがあった。
 まず前者について説明するが、家族経営には世代交替にともなう家族の人口とその構成の変動のサイクルがある。このいわゆるライフサイクルのなかで、親夫婦が働けなくなり、幼い子どもをかかえた息子夫婦だけで働かなければならなくなる時期がある。こうなるとこれまで四人の労力で耕作していた耕地を経営するのは容易ではなくなる。だからといって耕地を荒らすわけにはいかない。そこで一部の農地を労力が多くて規模拡大を希望している農家に貸し付け、農地として維持してもらうことになる。やがて子どもたちが大きくなって働けるようになる。そこで貸していた農地を返してもらい、さらに労力不足で農地をもてあましているような農家の土地を借り入れ、規模を拡大する。やがて自分たちが働けなくなり、子ども夫婦だけとなって労力が少なくなってくる。そこで借りていた農地を返し、さらに農地を貸し付け、労力に見合う程度に経営面積を減らす。
 このように家族の世代交代にともなって経営規模の大小は循環する。それにともなって貸借関係の成立と解除も循環する。つまりサイクルの時期の異なる農家間でかわるがわる貸借しあう。だから長期的にみれば農家間の平等、バランスが保たれ、貸借双方ともに利益を得ることになる。
 こうしたライフサイクル的貸借では、当然のことながら貸し主が必要となればいつでも返すということになる。もちろん自分が貸し手となった場合も自分が必要となれば返してもらう。
 小作料は地域の平均水準、つまり地主小作的貸借と同じ水準で高額高率である。しかしそれは収奪・搾取関係にもとづくものとはいえなかった。高額高率小作料を払っていてもいつかは自分も貸し手となってそれを受け取ることもあるので、長期的に見ればお互いっこなのである。そしてその高額小作料によって相対的に貧しい労力不足の小経営を相対的に豊かな経営が助けてやる。自分もいつかは労力不足で貧しくなる可能性があり、そのときには逆に助けてもらえるので、これもお互いさまである。
 したがってこうした貸借は、労力不足・土地過剰農家と労力過剰・土地不足農家との間での助け合いであり、家族経営の永続性をお互いに協力してまもり合うための相互扶助的な貸借ということができる。
 こうした農民的貸借にはこの他にもう一つ、交換分合的な貸借もあった。たとえば自分の土地が遠く離れており、逆に遠くに住む他人の土地が自分の家の近くにあるとした場合、耕作の利便性からして両家でその土地を交換して耕作した方が良い。しかし所有権を移動して交換するとなると登記等で大変である。そこで貸借を通じて交換して耕作しよう、こういう話しがまとまることがある。そしてもしもその交換する土地の面積や条件がまったく同じであれば、無償での貸借が成立することになる。問題となるのは交換しようとする土地の面積や条件に差がある場合である。そのさいにはより多くの土地を出した農家がその分だけ小作料をもらうということになる。つまり貸借関係が成立する。
 このように、寄生地主制のような搾取・被搾取関係をともなわない農民的な貸借があったのである。
 とくに戦時中の場合には、戦争による労力不足という特殊な事情が加わって、労力過不足対応的貸借がかなり増えた。基幹男子労力を戦争にとられ、残された家族労力では耕地を耕しきれなくなった農家が一部の農地を戦争から還って来るまでともかく預かってもらうという貸借が増えたのである。
 ところが戦後の農地改革は、こうした農民的貸借を、地主小作的な貸借と同様に、耕作するものが農地を所有するという原則とは異なるものとして否定し、今の瞬間耕作しているものが農地を所有するとして機械的に解放させた。もしくは残存小作地、つまり所有権は残しても耕作権はなく、小作料もほぼただ同然の貸付地にした。
 これにはやむを得なかった面もあった。地主が相互扶助的な一時的な貸借だったと称して土地を取り上げてしまう危険性があったからである。実際にさまざまな理由をつけ、逃げ道をつくって土地を取り上げた。それを防ぐためにやむを得ず一律に解放したところがあったのである。
 もちろん、農地委員会等に事情を話して解放から免れる道もあった。しかし、借りているもののなかにはもらえるのであればもらおうと知らん顔をして解放を受けたものもいた。世帯主が戦地から還ってきておらず、女性だけ残ったため十分に事情を話せずに解放させられた場合もあった。戦地から還ってきたら土地は解放されていて経営面積が大きく減っていたという話を各地で聞いた。またずる賢く立ち回った者もいた。こうしたごたごたがかなりあった。
 そのときの恨み辛みは70年代までかなり残っていた。そして貸せばいつか土地がなくなってしまう危険性があるという意識を当時の中高年層はきわめて強くもっていた。こうした農地改革アレルギーが、土地は荒らしても貸さないという気持ちをもたせ、貸借による農地流動化を阻害したのである。
 しかし、やがて貸さないわけにいかなくなった農家が数多く生まれるようになってきた。。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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