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請負耕作の生成―蒲原と東北―




                始まった新たな農地移動(4)

               ☆請負耕作の生成―蒲原と東北―

 高度経済成長にともなう農村労働力の流出の中で、労力不足になって耕作ができなくなった農家が出てきた。それならそうした田畑を売ればいい。しかし、いつか自分が経営するかもしれないし、借金でもしていれば別だが、何も売る必要はない。だからといって田畑を荒らしておくわけにもいかない。山のなかの孤立した田畑なら別だが、隣りに耕地がつながっているところで荒らしたら近隣の農家に迷惑をかけることになり、近所づきあいが円滑に行かなくなるからである。また、自分や息子が将来耕作することになったとき荒れていては困る。そうすると、だれかに貸して耕地を耕地として維持してもらうしかない。農地改革のことがあるから貸したくないと思ってもそんなことは言っていられない。ましてや農地改革を経験していない世代は積極的に貸そうとする。しかも借り手は多数いる。機械の過剰投資を解決したい、農業だけで生きていきたい、そのために規模を拡大したいという農家が、そうした土地を借りたがっている。しかし、正式に貸す訳にもいかない。農地法にもとづいて貸すと、自分が耕作するから返してくれと言っても、耕作権が強いので返してもらえなくなるからである。しかも小作料はきわめて低い。貸し手にとってはほとんどメリットがない。
 そこで普及したのが請負耕作という名の賃貸借だった。
 請負耕作というのは、作物の全栽培期間にわたる農作業を他の農家に請け負ってもらう、その代わりに一定額の請負料金(委託料)を払うというものなのだが、これなら問題はない。つまり農地法違反とはならない。これは労力過不足対応的貸借の一形態、あるいは雇用の一形態として戦前にあったものだが、労力にゆとりのある農家にこの請負耕作で委託すればよい。しかし、本来の請負耕作のように、労力不足農家=委託農家が作付品種や栽培方式を決め、一々田んぼに出て作業の指図をするわけにいかなくなっている。そこでそうした経営・技術に関するすべてを受託農家に委ねることとなる。これは実質的な貸借である。したがって小作料の授受の関係が成立する。しかし請負耕作という名前はそのままにする。農地法に引っかかるからである。
 そのさいの小作料の水準は受託農家=借り手と委託農家=貸し手との需給関係で決まる。また、かつての地主制のもとでの小作料も参考とされる。だからかつての小作料とほぼ同じ場合もあったが、それよりも高率高額の場合の方が多かった。当時は借り手の方が多かったからである。それで収量を四分六で貸し手と借り手が分けるというのが普通だった。したがって10㌃当たり収量が10俵なら小作料は4俵にもなった。反収がかつてより非常に高くなっているから高額小作料となるのである。しかし借り手には他産業並みの賃金部分は残る。そこにかつてとの違いがあった。兼業機会の多さから自己労働評価観念は高まっており、地元の他産業賃金水準並みの手取りが残らなければ引き受けない、つまり借りてくれないからである。また、それだけ払えるだけの生産力水準になっていることもある。
 もちろんかつての地主制のような従属関係はない。しかも貸し手は経営面積が小さく、借り手は逆に経営面積が大きいのが一般的である。だから両者の関係は対等平等である。
 また、この貸借関係は委託農家=貸し手の都合でいつでも解約できる。その点では本来の請負耕作と同じだった。
 このように請負耕作は実質的には賃貸借であり、本来はそうした農地法を通さない貸借はヤミ小作として禁じられているのだが、請負耕作という名前からして、また貸借双方がメリットを感じていることからして、さらにはその普及の勢いからして止めることはできず、行政としては黙認するより他なかった。

 こうした請負耕作、つまり農業委員会を通さない賃貸借いわゆるヤミ小作が60年代半ばから各地で見られるようになった。私がそれを初めて実際に調査したのは66年、新潟の蒲原平野でだったが、ここでは水田の請負耕作がかなりの程度普及していた。
 調査から帰ってきてからこの話を宮城県農試の経営部長にした。ところが話がかみあわない。請負耕作とは農作業を請負わせてその料金を払うという昔からあった雇用の一形態だと彼は考えているからである。だから蒲原の請負耕作を理解してもらうのにかなりの時間を要した。宮城県内をくまなく見ているこの経営部長すらこうした形のヤミ小作を知らないのだから、宮城県ではほとんどなかったといってよいだろう。宮城ばかりではなかった。東北地方ではほとんど見られなかった。私の情報網も当時はまだそれほどではなかったのでわからなかっただけなのかもしれないが、東北の他大学の研究者もそうした請負耕作の形態を見ていなかったようである。これに対して蒲原平野では水稲集団栽培がほとんど見られなかった。それで蒲原の請負耕作、庄内の集団栽培として研究者の間では対比して論じられるようになった。
 それではなぜ蒲原では請負耕作が進み、東北ではそれが見られないのか。
 それは兼業化の進展度合いの相違によるものだつた。
 新潟では高度経済成長にともない金属加工業、石油関連産業、土建業等が発展し、それに対応して第三次産業も伸びて、地元の就業機会が急激に拡大した。その結果、蒲原の水稲単作地帯で恒常的兼業農家、家族ぐるみ兼業農家が急増した。そしてこうした農家の中に農業労働に手が回らない農家が出てきた。ちょうどその頃、稲作の中型機械体系が普及したのでそれを利用すれば何とかできるかもしれないが、その機械を購入する資金も動かす労力もないものもある。そうした農家は農業とりわけその中心の稲作の継続が困難となる。だからといって水田を売る必要はとくにない。誰かに農地を貸し付けるという手はある。しかし、農地法を通して貸すと、小作料はべらぼうに低いし、借地権が強くなって土地を返してもらえなくなる危険性がある。一方、中型機械体系を導入した農家はその過剰投資を避け、また機械化で過剰となった家族労力を燃焼させるために規模を拡大したい。小作料は高くともかまわない、ともかく機械の減価償却費等の実費と労賃部分が手に入ればいい。こうした両者の希望が一致して、農業委員会を通さない請負耕作が成立するのである。
 これに対して東北では、前にも述べたように高度経済成長の波はなかなかとどかず、兼業と言えば関東方面への季節出稼ぎ、地元の土建業への日雇いだった。だから農繁期の農業労働力は確保されている。また不安定低賃金兼業だから農業収入は不可欠である。それで農業を継続する。そうなると農業機械の購入が必要となる。まわりで機械で作業をしているのに自分だけ手作業でやるわけにはいかないこともある。当然その購入代金は借金となるが、物価高騰でそれは目減りするので、兼業収入で何とか返せる。水田はもちろん畑も売る必要はもちろん貸す必要もない。
 もちろん、個人では機械を購入できない農家、オペレーターとなって機械を操作する若者がいない農家もある。こうした農家は、機械をもっている農家にあるいは集団栽培組織などに参加して、機械作業を委託する。
 かくして東北では請負耕作という農地の流動化が進まず、機械作業受委託、水稲集団栽培が普及することになる。
 しかし、70年代に入ると状況は大きく変わってきた。高度経済成長がようやく東北にも到達し、兼業化が進み、後継者が他産業・村外に流出するようになってきたのである。また中型機械化体系が普及し、すべての機械をそろえるのも大変になってきた。こうしたなかで、労力不足となってまた機械を所有できなくなって、請負耕作に出そうとする農家が生まれて来た。一方、機械を導入した農家、農業専業で生きていこうとする農家は規模を拡大したい。しかし水田を売る者はきわめて少ない。そこで機械作業の受託に加えて請負耕作で経営面積を拡大しようとする。かくして東北においても請負耕作が成立し、普及するようになったのである。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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