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出稼ぎの減少と若者の流出



                 後継者問題の深刻化(1)

               ☆出稼ぎの減少と若者の流出

 農村の現場から学ぶ、これを原則にしている私は農村にとくに地元の東北に何百回となく調査に入った。そのなかに、集落の農家すべてを対象にしてあるいは地域内の農家何十戸か抽出して、そのお宅に直接おじゃまして聞き取りをする調査がある。こうした調査は一人ではやれないので仲間の研究者や学生など何人かで手分けして調査することになるが、そのさいにはまず予備調査ということで二人くらいで何週間か前に農協や役場に行き、また集落の代表者の方とお会いして地域の概況等についてお話をおうかがいする。同時に、いつ頃こういう農家に直接おじゃまして聞き取り調査をさせていただきたい、午前中何戸、午後何戸まわりたいのだが、そのことを農家の方にご連絡していただきたいとお願いする。すると代表者の方は農家の皆さん方と連絡をとり、その都合を聞いて日程を調整してくれる。
 いよいよ本調査の当日、農家におじゃまする。ほとんどの方は、約束通りに決まった時間にいてくれる。玄関先で挨拶をするとすぐに座敷にあげてくれ、お茶を出し、お茶うけに漬け物や果物、お菓子などを出してくれた後、 調査に応じてくれる。
 この自家製の漬物がうまい。北海道の研究者KIさんは私どもが東北の農家調査に案内したときのことを思い出して、次のようにその印象を語っている。
 「農家の茶の間にこたつがあり、その上の台には大ぶりのどんぶりがのっており、その中には3~4種類の色とりどりの漬物があるのが、まず一番に頭に浮かんできます。それはそれまで東北というと無色というイメージを払拭させ、私の頭に強いインパクトを与えた光景であり、ひいては『豊かさ』を感じさせるものであったことを今でも覚えています」
 私どもはこうした漬物などをごちそうになりながら、2時間から3時間、調査項目にもとづいていろいろ聞く。農家の方はいやがらずに一生懸命答えてくれる。調査が終わった後、御礼にもならないがとタオルか手ぬぐいを一本おいてくる。あれだけの時間束縛してわずかそれだけの謝礼と私どもも申し訳ないのだが、なにしろ調査費用がきわめて少ない。それでついつい甘えることになってしまう。

 73年、農林省から農業構造改善基礎調査の委託を受け、岩手県北の奥羽山脈山麓にある二戸市上斗米集落で農地移動に関する調査を行ったとき(註1)のことである。田畑の一筆(註2)ごとにその変化を20年間にわたって追うきわめて詳細な調査であり、我々は何とか農地所有・利用の変化をすべて把握しようとした。農家は農家で何とか昔のことを思い出して答えようとする。当然ものすごく時間をとる。聞く方も聞かれる農家の方も終わったときにはへとへとになる。それでも農家の方はいやな顔をせずつきあってくれた。ところが、その御礼はタオル1本である(といっても当時タオルはまだそれなりに貴重品だったのだが)。
 調査第一日目の夕方、調査から帰ってきた大学院生のKH君とKA君が、何とか農家に対する謝礼を増やせないか、タオル1本では農家の方に申し訳ないと言い出した。しかし、随行した農林省の職員の方は予算がぎりぎりでこれ以上出せないと言う。それなら、と院生は言う、自分たちの日当(もちろん普通のバイト賃からみれば半分にも満たないきわめて低い日当なのだが)はいらない、それを謝金にまわしてくれという。
 この言葉を聞いたとき思わず涙が出そうになった。他人のことを思いやる気持ち、迷惑をかけたことに対する申し訳ないという気持ち、調査に協力して自分たちにいろんなことを学ばせてくれた人に対する感謝の気持ち、研究者としていや人間として当然もつべき思いやり、謙虚さをもっているのである。とくにそうしたことを教えたわけでもないのだからそもそもそうした気持ちをもっているのだろう、おそらく彼らは研究者として大成するだろうと考えたものだった(実際にこの2人はその後大学教授となって活躍している)。
 この調査から5年も過ぎた頃だろうか。同様の調査の委託があった。そこで2人の院生にいっしょに調査に行こうと話をした。ところが、彼らはきちんとした日当を払わなければ行かないという。調査は先生方の業績になるものである、したがってアルバイターの我々にはきちんとした日当を払うのが当然であるというのである。
 驚いた。さきの2人の院生とはあまりにも違うし、我々の感覚とも違う。我々の院生時代はもちろん、その後の院生も、また教員になってからも調査をバイトなどとは考えなかったからである。もちろん、バイト賃をもらえるにこしたことはない。しかしそんなものがなくとも、たとえ他人の業績になっても、自分の勉強になるだけでいい。旅費はともかく出るのだから、それで農村の実態を知り、新しい知識を得ることはありがたいことだからだ。しかもいろいろな地域の人々に触れられ、これまで見たことのない風景を見られることも魅力だ。こうしたことから調査に誘われれば喜んで出かけたし、院生時代は連れてってくれと頼みさえした。もちろん調査は大変だ。胃の調子がおかしくなるくらい辛い。しかし勉強だからそんなものは当然だ。
 こう考えていた我々はおかしかったのであろうか。時代は変わり、若者の感覚が違ってきたのだろうか。彼らが西日本出身者だったからこうなのだろうか。すべて計算づくでなければ動かないということで研究は発展するのだろうか。この2人はこれで研究者となれるだろうか。そう疑問に思ったものだった。

 話がそれてしまったが、農家調査は当然のことながら夏と冬の農閑期に行う。しかしそのうち冬はあまりしなくなった。夏と違ってまったく農作業のない冬は、出稼ぎで大都市に行くか地元の土建業等に働きにいくかして多くの農家の方が家におらず、調査ができない場合が多くなったからである。
 それにしても出稼ぎには困ったものだった。出稼ぎでは日中はもちろんのこと夜も調査できないからである。夫婦で出稼ぎに行っている農家の場合など、完全に調査不能となる。北東北や山村の場合などは夏の調査も大変だった。地元での兼業機会がないために夏も出稼ぎに行く農家が多かったからである。
 この出稼ぎからの脱却、これは東北の農家の悲願だった。その願いをかなえようと農家は新しい作目・部門を導入、拡大したりしていろいろ努力した。しかしそれは容易ではなかった。また自治体は各地に工場団地をつくり、工場を誘致して地元に就業機会をつくろうと努力した。しかし、首都圏や工業地帯に遠い東北地方の北部や山間部にはなかなか工場は来なかった。自治体が田畑を潰して造成した工場団地が草ぼうぼうになって放置されている光景があちこちに見られたものだった。
 このように地元に就業機会がないにもかかわらず、80年代に入るころから出稼ぎ者の人数が急激に減ってきた。これは建設業界の景気後退と機械化による合理化で出稼ぎ採用者の人数と年齢が制限されるようになったことが主因となってもたらされたものだったが、これは将来性のない不安定な出稼ぎでは家と農業を守っていくことができないことを若者たちに教えるものであった。しかし、地域には就業機会がない。農業発展の展望もない。そこで家を捨てて大都会に就職口を求めて流出する若者がさらに増えることとなった。こうやって若者が出て行く一方で残った世帯主等の高齢化が進む。そうなると出稼ぎに行ける人が少なくなる。かくして出稼ぎが減ったのであって必ずしも喜べるものではなかった。
 数ばかりでなく、出稼ぎの質も変わった。青森県津軽のある町に行ったとき、役場の人からこんな話を聞いた。高度経済成長のときの女子の出稼ぎは土建業の補助労働やその賄い婦だったが、最近は病院の付添婦や介護等を行う家政婦に変わってきていると。かつて付添婦などは都市の戦争未亡人などの仕事だった。それが農村の婦人にもまわってきたのである。
 農村の労働力は高度経済成長期には土建業の底辺労働者として利用されたが、低成長期に入ったら第三次産業、とくにサービス業の底辺労働者として利用されるようになってきたのだ。
 もちろん高度経済成長の波が東北北部にも押し寄せ、弱電や繊維などの零細下請け工場ができた。しかし、そこの賃金にしても雇用形態にしても若年女性を惹きつけるようなものではなく、地域の外に出ることのできない農家の嫁さん、働き口のない中高年女性の仕事にしかならなかった。そのうちこうした零細工場は途上国に移転し、その労働需要もなくなってきた。そのために家を継ぐ必要のない若い女性は今まで通り高校を卒業するとほとんどが都市へと流出していった。
 こうして出て行った若い女性のほとんどは故郷に戻ってこなかった。それでも他出した長男は家を継ぐためにいつかは戻ってくるだろうと親は期待した。しかし、戻ってくるものはほとんどいなかった。戻ってきても食えないからである。
 こうした状況があったからだろうか、70年代から80年代にかけて、千晶夫の『北国の春』のような、都会に出たものが故郷をとくに北国を想う歌が大流行した。
  「白樺 青空 南風
   こぶし咲くあの丘 北国の
   ああ 北国の春………
   あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな」
 また、故郷に『帰って来いよ』とお岩木山で必死になって呼びかける歌もうたわれた。
  「可愛いあの娘の 帰る日を
   お岩木山で 今日もまた
   津軽の風と 待っている………
   帰って来いよ 帰って来いよ 帰って来いよ」
 しかし、いくら呼んでも帰ってこなかった。もちろん石川さゆりの『津軽海峡冬景色』のように
  「さよならあなた 私は帰ります」
 などと失恋して帰るものもいないわけではなかったろうが(ただしこの歌での帰郷先は東北よりさらに北になるようだが)。

 1986年の夏、津軽の五所川原市のある集落の調査に行ったときのことである。市の東南部の丘の上に建つ旅館に泊まることとなったが、昼に到着するのでまず旅館に荷物をおき、それから集落に出かけることにした。遠く正面にそびえる津軽富士を眺めながら旅館に入ろうとしたとき、何人かの女性がカラオケで演歌を歌っているのが聞こえてきた。昼日中、しかもたどたどしい言葉で大きな声で歌っている。何事だろうと不思議に思いながら、ともかく荷物をおいて調査にでかけた。夕方帰ってきたら、東南アジア系と思える若い女性が三人、盛装してうろうろしている。役場の人に聞いてみると、旅館に住み込みで酌婦の仕事をしているフィリピンの女性だという。昼に歌っていたのは彼女らだった。座敷での接待のために必要な日本の演歌を勉強していたのである。こうしたフィリピン女性は市内にかなりいて、スナックなどで働いているという。
 フィリピン女性の日本への出稼ぎ、これは当時かなり多くなり、いろんな意味で話題となっていた。これが農村のなかにこんなにも入りこんできているのか。驚いたが、考えてみればこれは当然のことだった。
 若い女性が農村部から大都市にどんどん流出する。これでとくに困ったのは、農村部の零細レジャー施設や飲食店等の色気を売り物とする商売、第三次産業の末端である。賃金を高くすれば若い女性を雇えるかもしれないが、そうするわけにもいかない。それで日本の女性がいなくなる、その隙間を埋めるようにやってきたのがフィリピン等からの若い女性の出稼ぎだったのである(出稼ぎと言うよりも実質身売りだった場合が多かったらしいが)。
 こんなことを考えていたらふと思いついたことがあった。仙台ではフィリピン女性のいる飲み屋が少ないことである。いることはいるが、比率からすると格段の差がある。当然のことである。都市には若い女性が、農村部から来た女性が多くいる(註4)。フィリピン女性に埋めてもらう必要がないのだ。
 この考えを敷衍すれば、農村部に行けば行くほど、都市の規模が小さくなるほど、フィリピン女性が多くなるということになる。これを実証するために、東北各地の農業改良普及所にお願いをして管内の市町村に何人いるか調べてもらおうか。いっしょに酒を飲んだときにそれを普及員に話をすると、それは面白いという。しかし現実にはそんなことはできるわけはない。結局やらずじまいとなった。
 このような調査を考えたのは面白半分からではない。農村部から都市の低賃金労働者として流出し、あるいは出稼ぎに行く、こうして人口構成のおかしくなった農村部のしかも底辺部の職業に、まさに低賃金で人権も無視されて途上国から出稼ぎに来る、こうしたわが国の奇形的な就業構造をこうした側面から明らかにしたかったのだ。

 かつて農家後継者は出稼ぎで家と農業をまもってきた。しかしその数は少なくなり、後継者は他出していった。その親に将来家を農業をどうするのか聞くと、多くの方がそのうち帰ってきて農業をやるはずだと答えた。出て行った本人も両親が働けなくなったら家に帰るものと考えていた。しかし、その期待通りにはならなかった。ほとんどが帰ってこなかった。
 当然飲み屋に通う男性は少なくなる。それに対応したのだろうか、やがてフィリピン女性が農村部であまり見られなくなってきた。

 こうして減少していった農村部からの出稼ぎに代わったのが途上国からの長期出稼ぎだった。土建現場等で中東諸国からの不法滞在者が見られるようになり、研修生という名前での中国等からの女性や南米移住者の二世・三世の出稼ぎが各地の工場で見られるようになった。さらに最近では、高齢化の進展、介護者の労働条件の劣悪さにともなう付き添い等の介護者の不足の深刻化に対応してフィリピン等から稼ぎにくるようになっている。
 最底辺の労働力の供給源は農村から途上国に替わり、農村からの労働力の収奪は途上国からの収奪へと変わってきたのである。
 さらに21世紀に入ると、都市労働者の一定部分がかつての農村からの出稼ぎ、日稼ぎに替わることになる。派遣労働が法的に大幅に認められ、若者も含む都市労働者のかなりの部分が派遣労働者という名の日雇い、季節雇いに変化したのである。このことについてはまた後で述べる。

(註)
1.11年3月25日掲載・本稿第一部「☆残っていた焼畑農業」(1段落目)参照
2.この場合の「筆」とは、土地登記簿の上で地番をつけられた一区画のことをいう。
3.・「北国の春」    歌:千晶夫 作詞:いではく 作曲:遠藤実 1979年
  ・「帰って来いよ」  歌:松村和子 作詞:平山 忠夫 作曲:一代のぼる 1980年
  ・「津軽海峡冬景色」 歌:石川さゆり 作詞:阿久悠 作曲:三木たかし 1970年
4.11年3月3日掲載・本稿第一部「☆集団就職列車」(4段落目)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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