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田んぼがじゃまと言う農家の青年



                 後継者問題の深刻化(2)

               ☆田んぼがじゃまと言う農家の青年

 もう一度話を農家調査に戻すが、調査の時間は日中である。農閑期で農作業の少ない時期を選んで調査するので昼は農家の方が家にいるはずだからである。もちろん夜もおられるが、夕食とぶつかっておじゃまになるし、時間も限られてじっくり調査ができず、帰りの夜道も大変なので、夜は避ける。ただし、どうしても日中は都合が悪いという農家の方については夜の調査となるが、そんなことはあまりなかった。
 これに対して、西日本では夜の調査が多かった。日曜日に来てくれという農家の方も多かった。兼業に出ていて日中やウィークデーには家にだれもいない農家が多かったからである。また、謝礼も高く、西日本の研究者の方は日雇い兼業の時間賃金に近いものをおいてきていた。これが常識なのかもしれないが、最初はちょっと驚いたものだった。
 しかし、80年代に入ると東北でも夜の調査が多くなってきた。恒常的な兼業が増えてきたからである。日雇い兼業の時はわざわざ休んで調査に応じてくれる農家の方もいたのだが、恒常的兼業となるとそうはいかない。さらに日雇い兼業でも休むとクビになるような状況が出てきて休めなくなったこともある。
 かくして東北の村の昼も、就業機会のない年寄り以外、人がいなくなってきた。昼の村はまさにゴーストタウンになってきたのである。その点では西日本に近づいてきた。しかし調査の謝礼はそれほど西日本に近づかなかった。それでも農家の方はいやな顔一つせず快く調査に応じてくれた。技術や経営についてはもちろんのこと、家計や考え方にいたるまで、しかも何年も遡って、微に入り細に入り教えてくれた。こうした東北の農家の人間の良さに甘えながら私は勉強させてもらった。
 それにしても夜の調査はいやだった。家族団らんの夕食をじゃますることになるし、疲れて帰ってきたのにさらに疲れさせることにもなるからである。夕食後におじゃますると、ご主人が晩酌で良い気持ちになっていたり、晩酌に付き合わされてしまったり(これは半分うれしいのだが)して調査が十分にできなかったりすることもある。もっと大変なのは帰り道だ。街灯があるとはいえまだまだ不十分なので夜道はかなり暗いからだ。東北大のKA君などは、宮城県中部のある村に調査に行ったとき、明るい家から外に出たとたん真っ暗になったのでどこをどう歩いているかわからなくなり、側溝に落ちて大けがをし、病院にかつぎこまれたこともある(彼の方向音痴も原因の一つなのだが)。

 このように調査時間を変えざるを得なくさせた恒常的な兼業が地元に増えたのはとくに東北南部だった。70年代中頃から、徐々にではあるが、またほとんどが下請けではあるが、工場が立地するようになってきたからである。また、県庁所在地や地域の中核的な都市に量販店、外食産業等々の第三次産業が立地するようになってきた。それに対応して建設業も盛んになってきた。これは東北北部にも及んだ(もちろん格差はあったが)。こうして、東北全域で、家から車で通える範囲内に就業機会が増えてきた。
 これに対応して、若者、とくに長男は地域の企業に就職するようになってきた。そして彼らは通勤兼業をしながら朝晩、土日に農業に従事した。つまり彼らは長男としての宿命(さだめ)通りに家を継ぎ、農外に恒常的に就業しながらも農業を継承したのである。そして彼らの多くは両親が働けなくなったら兼業をやめ、農業に専従しようと考えており、もちろん親もそれを当然のことと考えていた。
 こうした兼業農家が地域農業を維持するようになったことから、兼業農家を地域農業の担い手として将来とも大事にしていかなければならない、だから一部の専業農家を育成するという農家の選別路線はまちがいだと主張する人も出てきた。
 しかし、家を継ぐ若者の意識は変わってきていた。

 「『農家後継者』はいるけれど『農業後継者』がいない」
 80年代中頃からこんな言葉がむらうちでささやかれるようになってきた。他産業に就職した後継者が農作業をまったく手伝わなくなった、彼らは家は継いでも農業をやろうとする気持ちはまったくもっていないというのである。
 いつごろから、どういう年代の青年からこんな風になったのだろうか。当時東北農試にいたSS君(後に秋田県立大)とこんな話になった。結論としてこうなった、子どもの頃田植えを手伝うことのなくなった世代、つまり1960年以降生まれの世代からではないかと。
 かつて、つまり手植えの時代、田植えは子どもまで含めて家族総出でやるものであり、それを通じて子どもは農作業はきつい労働であることを知り、そこからまた手伝わなければ親に申し訳ないという気持ちをもつようになったものだった。家族の労苦をみんなで分かち合うというこの身に染みついた気持ちがあるから、田植え以外の日常の農作業も手伝った。そして先祖代々のこうした労苦の沁みついた土地、これを守っていかなければならない、こうも考えたものだった
 しかし、彼らがもの心ついたときは田植機があった。だから田植えは手伝わなくなった。そうするといま言ったような感情はもたなくなる。そして農作業にはまったく関与しなくなる。当然こうした青年は親が高齢化してリタイアしても農業はやらないだろうし、またやれないだろう。
 もちろんなかには手伝っているものもいる。しかしそれは親から言われてやむを得ずというのがほとんどである。それも機械作業だけしかやらない。だから日常管理はまったく知らない。経験と熟練の必要な管理作業を知らずして将来農業をやっていけないのではないかと親は心配する。しかし心配の必要はない、実は彼らのほとんどは農業をやる意志はそもそももってないのだから。
 「親から家をまかされたらお前に土地を預けるから、その時はよろしく頼む」
 こう早々と集落内の専業の青年にこっそり頼んでいるほどなのだ。ところが、親はなかなか家をまかせない。それで早く親父が死なないかと待っている。
 当然のことながら農業を手伝っていない青年などは親が高齢化してリタイアしても農業はやらないだろうし、またやれないだろう。

 宮城県北の中核農家の方が私にこう口説いた、ある青年がこんなことを言っていたと。
 「田んぼがじゃまだ」
 そして、これまでは考えられなかったことだと彼は嘆く。私もショックだった。
 土地が、田んぼがあること、これが昔からの農家の望みだった。そして先祖の血と汗のしみ込んだ土地をまもっていくこと、これが当たり前のことだった。子どもの頃からの農作業の手伝いで土地のもつ重みを感じているからである。だから他産業に従事しても土地を大事にしようとする。それが日本の農業を、家族経営を支えてきた。こうした気持ちがなくなった。それは非常にさびしい。
 だからといって、子どもにむりやり農作業を手伝わせることはないと私は考える。子どものときはゆっくり遊ばせ、勉強させたらいいのだ。そして子どもたちがもっと別の視点から農業を継承しようと考えるようになればいいではないか。子ども時代に手伝わせなければ子どもは農業を継がないなどというのがそもそもおかしいのだ。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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