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消えた『明るい農村』―米価闘争の終焉―



               農業をとりまく状況の激変―九〇年前後―(1)

                ☆消えた『明るい農村』―米価闘争の終焉―

 1985年3月、NHKテレビの早朝番組『明るい農村』が廃止された。テレビが普及し始めた58年から四半世紀にわたって、日曜を除く毎日6時30分から55分まで、農村にかかわるさまざまな情報を提供してきた番組がなくなったのである。
 NHKは農業・農村を見捨てるのか、知り合いのディレクターにこう文句を言った。すると彼は言う、いま『明るい農村』を誰がよく視ているか知っているか、農家ではなく、都市のサラリーマンなのだと。通勤時間が1時間もかかるような東京などのサラリーマンが朝飯を食べたり、出勤の準備をしたりしながら、時計代わりに聴いている、こうした人たちを対象にするために『明るい農村』を『日本列島朝いちばん』という番組に変えて、提供する情報の内容を変えることにしたのだと言うのである。
 それもわからないではない。やむを得ないことかもしれない。しかし、『明るい農村』はそうしたサラリーマンや消費者に農業、農村、食などについての情報を提供し、都市と農村をつなぐ役割を果たしてきた。これがなくなることは先に述べたような都市と農村、食と農、生産者と消費者の断絶(註)をさらに進めることになるのではなかろうか。そんな不安を感じさせたものだった。
 農業離れはNHKだけではなかった。新聞もそうだった。かつてはどの新聞も週に一度、一頁くらいの農業欄をもうけ、農業の技術から経営、流通、農村の動きなどの記事を掲載していた。また、地方紙には農業担当の記者がいた。しかしそれも80年代末には姿を消すようになった。農業関連の記事は本当に少なくなった。
 このように農業はマスコミから軽視されるようになってきた。このことは消費者の農業に対する関心の薄れに拍車をかけることになった。

 農業から離れただけではない。マスコミは農業・農家を攻撃すらするようになってきた。
 それがもっとも激しくなされたのは1986年の米価引き上げをめぐってであった。
 この年、政府は前の2年間据え置かれてきた米価を引き下げるという方針を出してきた。当然農家、農協は反対運動を展開した。そして据え置きにさせた。これに対して財界、評論家、マスコミ等は次のように言って徹底して農家、農協をたたいた。その直前に行われた衆院選挙で自民党が304議席という大勝利をおさめたのは自分たちが投票してやったおかげだ、だから米価をあげろと農協は自民党に強要したと。そして自民党内の密室での駆け引きで米価据え置きを決めた、つまり農水省が科学的に算出した米価引き下げを政治的圧力で据え置きにした、まさにこれは「政治米価」だと批判した。たしかにこの米価闘争にはそうした問題点はあった。消費者・労働者等との連携をまったく考えない、政府自民党依存の当時の米価闘争はまさにそこに限界があった。そこをマスコミの報道は突いた。そして農業・農家に対する消費者の反感を醸成した。
 こうした反感を背景にして、翌87年、生産者米価は大幅に引き下げられた。これは戦後初めてのことだった。そしてそれから毎年米価は引き下げられ、もしくは据え置かれるようになった。もちろん農家は引き上げ運動を展開した。しかしマスコミは冷たかった。そして米価は物価の王様だ、近年の物価上昇を米が引っ張っている、農家はそして圧力団体の農協は高い米を食わせて不況下で賃金切り下げや首切りで困っている勤労者の生活を苦しめている、農家は過保護だと宣伝した。
 さらに、財界、マスコミは、自由貿易で日本経済はなりたっている、農産物自由化は国際的な流れである、それに乗らなければならない、国際社会で孤立してはならないと世論を誘導した。
 労働組合の多くはこうした宣伝に完全に乗り、農民の運動をまったく支援しなかった。
 こうしたなかで、農産物の輸入自由化はやむを得ないという世論が多数を占めるようになってきた。ある世論調査では「全面自由化」と「自由化やむなし」を合わせると7割にもなった。
 そして88年、日米牛肉・オレンジ交渉は牛肉・オレンジの輸入を91年から自由化することで決着した。あれほど農家が反対したにもかかわらずである。

 米価闘争、自由化反対闘争の中心をなしてきた青年たちは深い挫折感に襲われた。世論から孤立しているという雰囲気、いくらがんばっても成果があがらないという状況の下で、運動への絶望感にうちひしがれたのである。
 こうしたなかで青年たちの一部に生まれてきたのが農民党をつくろうという動きだった。財界と官僚に屈服し続ける自民党はもちろん他の政党ももう頼りにならない、消費者や労働組合も何もやってくれない、農民の代表を議会に出そう、農民党をつくろうというのである。しかし、農村に網の目のように張り巡らされた自民党の集票システムはそれを許さなかった。たとえそれをはねのけて代表者を立候補させたとしても当選するわけはない。圧倒的多数は労働者、消費者であって農民は少数派だからである。たとえ当選したとしても、その農民の代表者と称する人が農業政策以外でアメリカや財界の言うことを聞いていたらどうしようもない。結局こうした動きは尻すぼみに終わった。
 その結果としての閉塞感が議会に対する民主主義に対する絶望となり、誰か一挙に変えてくれないかという独裁者待望論となり、さらには戦争待望論になるのではないか、戦前農村がファシズムの基盤となったが再びそうなるのか。もちろん、戦後根付いてきた民主主義はそこまでいかせないだろう。農業しか食える道がないのであればそうなるかもしれないが、兼業で何とか食えるという逃げ道もある。そうは考えたが、戦争でも起きてくれないか、そうすれば食料の重要性もわかるだろうと冗談話で農家が言うのを聞いたときふとそんな心配までしたものだった。

 それではどうしたらいいのか。もはや道はないではないか。もう闘うのはやめよう。やってもむだだ。こう言う青年たち、闘う意欲を失いつつあった青年たちに、私は次のようなことを言った。
 たしかに情勢はきびしい。闘っても要求はかちとれないかもしれない。しかし、闘わなかったらどうなるか。闘ったからこそ不十分ではあっても要求をかちとってきたのではなかったか。
 そもそも現在の財界本位、アメリカ本位の政治のもとで要求を完全にかちとることができないのは当たり前である。満額要求をかちとったとしたらかえって眉につばする必要がある。その裏には何かあるからだ。
 したがって闘争の成果をどれだけ要求を勝ち取ったかだけで評価し、判断してはならない。そうでないと必ず負けという結果になり、絶えず挫折感に襲われ、闘っても無駄ということになってしまうからだ。
 闘いのなかで農民の意識がどう高まり、農民の団結がどれだけ固まったか、闘うエネルギーがどれだけ統一され、蓄積されたかと言う視点から闘争の評価がなされる必要がある。
 同時に、闘争に対する消費者の理解、日本農業を発展させて食糧自給率を高めることの重要性の理解がどれだけ深まったか、消費者との連帯がどれだけ進んだかという視点からの評価もきわめて重要となる。
 たとえ要求をすべてかちとったとしても、それで農民の団結がこわれ、消費者との連帯が断ち切られ、分裂させられてしまったら、それは敗北でしかない。一時的に勝利しても、翌年からの闘争が弱められてしまうのでは、長い目で見れば結局敗北ということになるのだ。86年の米価闘争を見ればよくわかるだろう。据え置きをかちとった結果が財界やマスコミの総攻撃を引き起こし、世論の支持を失わせ、翌年からの連年の引き下げとなったのである。
 要求がすべてかちとれないとしても一歩でも二歩でも団結が強まれば、消費者との連帯が強まり、農政を変えなければならないという意欲が少しでも高まれば、それは勝利と認識する必要があるのだ。
 こう言って青年たちを激励した。
 もちろん、青年たちもそれを自覚しつつあった。そして食糧自給率を高めること、農村、農業を発展させることが消費者のためになること、さらには環境をまもることにもなることをこれまで以上に強調し、だから国は価格を補償し、農家の生活をまもるべきであると主張した。しかしそれは受け入れてもらえなかった。マスコミは、なぜ農業だけ保護するのか、保護があるから農業はだめになったのだとさえいった。それは国のさまざまな面からの援助が直接目に見えない都市住民の気持ちをとらえた。
 かくして生産者米価は低落の一途をたどり、91年からは牛肉、オレンジの自由化が開始され、東北農業の柱であった稲作と柱となりつつあった肉牛生産・酪農に悪影響を及ぼすことになるのである。

 こうしたなかで圧倒的多数の農家は農業の存続をあきらめるようになってきた。後継者には農業を継がせることはやめよう、農業はおれ一代で終わりになるだろう、もうどうなってもいい、米価などで闘ってもしようがない、とりあえずはいわゆるうまい米をつくって米価低落の影響を回避しよう、こうした将来展望を失ったその日暮らしの農家がほとんどになったのである。
 農業で生きていこうとする農家のなかにも、もう農業は国民のためだとかいうのはやめよう、天下国家を論じて米価運動をするなどはやめようという考え方をもつものが多くなってきた。それには二通りあった。
 その一つは、そもそも農業は天下国家のためにやっているのではない、自分が生きるためにやっているのだ、消費者がどうあれ日本がどうなれ自分だけが生きていけさえすればいいではないか、政府に米を売るとか農協を通じて販売するなどは考えず、販売や購買は個人でやって、自分だけ生き延びていこうとするものである。
 もう一つは、生物を扱うこと、自然に囲まれて生きることに喜びを感じ、有機農業などで自然をまもることに生き甲斐を感じ、何も言わず黙々として農業を続けよう、政府などに頼らず、それを理解してくれる消費者と手をつないで生きていこうとするものである。
 こうした農家の中に、補助金が農業をだめにした、補助や融資に頼らないでやろうなどと主張する農家も出てきた。たしかに補助融資に問題のあるものが多かった。しかしそれは補助融資それ自体が悪いためではなく、画一的形式的官僚的なやり方に問題があったのだが、マスコミはそれにのり、補助融資に頼らないのはこれからの農家の生き方だとはやしたてた。
 こうしてみんなみんなばらばらになった。かつての米価闘争のようにまとまって要求したり、運動したりしなくなってきた。これはまさに政財界の思うつぼだった。
 たった一つ、東北のほとんどの農家が共通して取り組んだのは、ともかくうまい米をつくって少しでも高く売ることだった。

 ちょうどその頃、秋田県農試が開発したあきたこまちが秋田県の奨励品種となり(84年)、ササニシキ・コシヒカリと比較して遜色のないおいしい米としてデビューした。ササニシキのつくれなかった秋田、岩手県北の農家はこれに飛びついた。それであっという間に普及した。
 こうして秋田、岩手県北はあきたこまちに、岩手県南、宮城、山形、福島は今まで以上にササニシキに、集中するようになってきた。さらにこうした品種の適地ではなく、政府米としてしか売れなかった青森ではつがるおとめが栽培されるようになり、同じく政府米地帯の北海道ではきらら397が開発され、ともに自主流通米として販売できるようになった。こうしたなかで、生産者米価の引き上げに対する農家の関心はさらに低くなってきた。もちろんまったく関心を失った訳ではない。政府米価は下支えの価格として意味をもっていたからである。しかし農家の関心はうまい米をいかにつくっていかに高く売るかという産地間競争に移っていった。
 かくしてかつてあれほど盛りあがった米価闘争は80年代末に終焉の時を迎えることになった。
 ただし、食糧管理制度に関してはほとんどの農家がそれをまもろうとした。その需給調整機能がなければ価格が暴落する危険があったからである。そしてそのために減反に協力してきた。
 もちろんすべての農家がそう考えていたわけではなかった。ササニシキ地帯の農家のなかには食糧管理制度などなくても生きていけるというものもいた。ササニシキは自主流通米で高く売れており、ヤミ米業者も高く買い上げていく、だから食管がなくなっても大丈夫だというのである。
 ところがそのササニシキ信仰は90年ころから崩れ始めてきた。

(註)
11年10月19日掲載・本稿第三部「☆食と農の断絶─新栄養失調時代の到来─」参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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