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安定多収からうまい米へ


               農業をとりまく状況の激変――90年前後――(2)

                  ☆安定多収からうまい米へ

 「米がうまい」、1960年代、仙台に転勤してきた人たちがよくこう言っていた。たしかにうまかった。私も調査や学会などで他の地方に行って仙台に帰ってくるとご飯がうまいと感じたものだった。とくにうまかったのはササニシキだった。ところがそれを他の地方で食べるのは難しかった。かつては自由に全国どこにでも販売することはできず、地域の米はまず地域の消費地で販売され、それで余ったものが他の消費地に販売されることになっていたからである。それで仙台市内の米はササ中心となり、うまいとみんなが言うのは当然だったのである。
 やがてササニシキのうまさが全国的に評判になってきた。そして自主流通米として全国で販売されるようになった。それでササニシキはコシヒカリと並んでうまい米として全国に名声を馳せることとなった。

 しかし、そもそもササニシキはうまい米として育種されたわけではなかった。前にも何度か触れたが、麦の裏作ができるようにと晩植用を目標に宮城県古川農試(当時は県農試古川分場)が交配選抜したものだった。つまりササニシキは裏作を導入するための稲だったのである。
 だけど生まれた時期が悪かった。それが品種として認められるころは麦の裏作が衰退しており、もはや役に立たなくなっていた。当然そうなればそれは普及しないで終わることになる。つまり陽の目を見ないで終わる品種になるはずである。
 ところがササニシキはたまたま多収性をもっていた。そこで試験場は安定多収品種として1964年から普及奨励することにした。ちょうどその頃は米の増産時代である。それで当時多収品種として南東北を中心に普及していた多収品種ササシグレ(これはササニシキの親でかなりうまい米だった)に代わって徐々にその作付面積を増やしていった。
 この多収米が突然うまい米に変身したのは、米の過剰が問題になり始めた1969年からであった。自主流通米制度ができ、米価に銘柄格差が導入されるなかで、良質・良食味米として評価されたササニシキが銘柄米として高価格で取引されるようになったのである。減反と政府米価の低迷に悩んでいた農家はササニシキに飛びついた。それでその作付面積は、69年の全国第6位・10万㌶が、85年には全国第2位・20万㌶へと激増した。
 まさにササニシキは数奇な運命をたどったといえよう。裏作対応品種という日陰の身で生まれ、消失すべき運命にさらされたのに多収品種と評価を変えられて表舞台に登場し、さらにうまい米として生まれ変わって檜舞台で脚光を浴び、全国に名声を馳せるまでになったのである。
 しかも当初ササニシキはコシヒカリ以上の高値で取引され、商系業者やヤミ米業者は農家の庭先まで行って買いあさった。そして「日本一おいしいコメ」とまで言われた。ササニシキは南東北でしか穫れず、コシヒカリのようにほぼ全国で生産できるのと違うことから、貴重なものとされたのである。
 そこで南東北の平坦部はほぼ100%ササニシキとなった。宮城県では不適地とされていた山間部までササニシキをつくるようになった。宮城ササニシキの評価はきわめて高かったからである。そして、食管がなくなろうとも米が余ろうともササは大丈夫だ、ササさえつくっていれば生き延びていける、こうした信仰がとくに宮城の農家に蔓延した。
 この集中はちょっと異常だった。しかし、危険分散、労力分散という面からいくつかの品種を組み合わせて栽培するというこれまでの常識はもう通用しなかった。若干の気候不順があっても現在の稲作技術で克服できる、機械化で労力分散など考えなくともよくなったと農家は考えるようになっていたし、それに対して行政、普及、農協等々も何も言わなくなっていたのである。
 異常と言えばもう一つあった。日本農業が始まって以来追求したはずの多収という言葉が聞かれなくなり、うまい米づくり、良質・良食味が追求されるようになったことである。

 エンゲル係数、この言葉は確か私が中学時代に習ったと思うのだが、戦後は新聞ラジオ等でもかなり取り上げられた。ところがこの頃はほとんど話題にならない。当然のことかもしれない。1950年前後は50%以上にもなっていたのに、80年代に入ると20%台に低下し、問題とならなくなってきたからである。もしかするともう学校でこの言葉を教えなくなったのではないか、心配になって後輩の大学教員ST君に学生から聞いてもらったらほとんど中高時代に習っているとのことである。ちょっと安心したが、こんなことが気になるくらい食費のことが話題にならなくなってきた。もちろんこれは喜ばしいことである。所得が低くて主食を始めとする食糧が高くて買えないなどということがなくなってきたこと、所得格差が少なくなったことを示すものだからである。
 しかし、必ずしも喜べない面もあった。エンゲル係数の低下は、所得の向上というよりも価格の安い食料品が豊富に出回るようになったことからもたらされ、そしてそれは外国農産物の輸入によるところが大きかったからである。
 さらに問題なのは、こうしたなかで食糧、農業に対する関心が薄れてきたことである。食糧難時代には国民のほとんどが農業に関心をもち、食糧の増産を、豊作を願ったものだったが、食料品はスーパーに行けば必ずしかも豊富にあり、お腹いっぱい食べているので、食糧増産などは考えなくなってきた。かつてのような「食える・食えない」という話題はほとんどなくなり、「うまい・まずい」が大きな話題になるようになってきた。そしていわゆるグルメブームが始まる。その火付け役となったのが80年代半ばから漫画雑誌に連載が始まった漫画『美味しんぼ』(註)だった。テレビはテレビで有名料理人の対決だとかグルメ店の紹介だとかでブームを煽った。
 このブームがすべてまちがっているなどというつもりはない。うまいものを食べたいと思うのは当たり前だからだ。
 しかし、食糧不足で苦しんでいる人々が世界中にいることを忘れ、国内で生産できるのに生産もしないでそういう人たちに供給すべき外国の食糧を日本人が買い占め、グルメと浮き立っていていいのだろうか。もちろん『美味しんぼ』はそうした問題点も指摘している。しかし、多くの消費者はもう食糧の増産、自給などということは忘れてしまった。ましてや米については余っているのだから減産するのは当たり前、うまい米をつくって消費者に安く供給しろと言うようにすらなってきた。

 生産者も多収には関心をもたなくなってきた。
 もちろん70年代はうまい米のササニシキを増やすと同時にその単収増加にも力を入れた。先にも述べたように庄内などでは800㌔穫りを目標とした。つまり良質と多収の双方を目標としたのである。その後も減反分は増収で補うくらいの意気込みで多収に取り組んできた。
 しかし、問題が起きてきた。これまでのように窒素肥料を多投して増収すると米はまずくなり、評価が落ちて価格は下がるというのである。そこで80年代後半になると各県は目標収量を引き下げることにした。庄内の場合は追肥回数、施肥量を抑えて600㌔にすることにした。すでに700㌔穫りが普通になっていたのにである。農家はそれを受け入れた。いくら収量が多くとも価格が下がったらどうしようもないからである。
 もう一つ、増収すると生産調整面積が増えるということもあった。つまり、食糧管理制度が有名無実化し、米の価格形成が市場動向に事実上ゆだねられるようになるなかで、増収による供給過剰は価格低落を引き起こす。それを防ぐために生産調整という実質的な不況カルテルを形成して供給を調整せざるを得なくなっていた。しかし何百万戸の生産者をまとめて減産カルテルを結ぶのは容易ではない。農協がその主体になるべきなのだが、それだけの強い力はない。そこでこれまでの減反政策、つまり政府の権力と経済力を利用して需給を調整するより他ない。そうなるとかつてのように単純に減反反対というわけにいかない。したがわざるを得ないし、これ以上減反面積が増えないように、あまり増産しないように考えなければならない。かくして増収意欲を自ら抑制するということになるのである。
 こうして安定多収というこれまでの目標はどこかに消えてしまった。そして増収どころが減収に取り組むようになった。こんなことはかつては考えられなかった。
 ある普及員の方がこう言っていた。
 「お年寄りには困ったものだ、まだ増収を追求しようとしている、古いから考え方が切り替わらないのだ」
 私も古い人間だったようである。どうしても安定多収という考え方から抜けきれない。もちろんうまい米も必要だ。そしたらうまさと増収の両方ができる技術こそ追求すべきなのではなかろうか。もちろんそれは容易ではないが。そういうと米がますます余って困るではないかと言われる。そしたら転作面積を増やせばいい(米の備蓄をきちんとした上でだが)、そして国内で不足している麦とか大豆、飼料作物をつくればいい。もちろんそのためには基盤整備や価格保証などが必要となるが、そうすることこそ世界的な食糧危機に対応していく道なのではないか。
 しかしそれは空論でしかなかった。転作は稲作に対して決定的に不利だったからである。増収すればするほどそうした転作が増えるのでは増収などしてもしかたがない。だから増収意欲は減退した。しかも米価と農外賃金の比較からして増収などに力を入れるよりはよそに稼ぎに行った方が経済的にずっと良い。それどころではない、そもそも増収に取り組もうにも人手がいなくなっていた。
 そして多くの農家は、うまい米なるものをともかくつくり、普及所と農協がよこす稲作カレンダーにそって作業をこなし、農外に働きに行きながらその日その日を送っていく、こういう展望のない生活を送るようになっていたのである。

 しかし、秋田の米どころ、岩手県北、青森にはササニシキのようなうまい米がなかった。秋田では、山形庄内に隣接する由利地域以外、高い評価の得られない多収品種トヨニシキ・キヨニシキ・デワミノリを中心につくらざるを得なかったし、青森は政府米でしか売れないレイメイ・アキヒカリなどしかつくれなかったのである。
 そこで何とかうまい米をつくろうと各県の試験研究期間は品種改良に必死になって取り組んだ。農家も強く期待した。そうしたなかで生まれたのが「あきたこまち」だった。秋田農試が育成選抜し、84年に奨励品種として世に出したのである。また青森では「むつほまれ」(84年)、「つがるおとめ」(88年)が生まれた。
 宮城でも同様に新品種育成に取り組んだ。ササニシキには気象変動に弱く、イモチに弱いという弱点があったからである。
 しかしそれは容易ではなかった。耐冷性が強いと今まで言われてきた品種とうまい米を掛け合わせてもいい品種がなかなかできないのである。ポストササの品種育成を使命とさせられた宮城県古川農試の技術者の中には病気で倒れるものすら出てきたという。
 こうした状況を打破したのが、大学時代に私の一年下だった古川農試の育種研究者ST君を中心とするグループだった。80年冷害を契機に耐冷性の検定試験を見直し、これまで耐冷品種といわれてきた藤坂系の品種は必ずしも耐冷性は強くなく、単に遅延型冷害を回避できる早生多収品種でしかなかったこと、これまで耐冷性が弱いとされて交配品種から除外されてきたコシヒカリが実は耐冷性が非常に強いということを発見したのである。そしてこれまでの常識を覆してコシヒカリを親とする交配選抜に取り組んだ。
 こうしたなかでできたのが「ひとめぼれ」だった(91年、この命名にはかなり抵抗があったらしい)。また山形では「はえぬき」、「どまんなか」が交配選抜された(93年)。
 岩手県でも新品種を育成したが、そのさい沖縄県石垣島に依頼して種籾を増殖した、まさにこの品種は沖縄と岩手の架け橋となった、それで品種の名前は「かけはし」とした(93年)、こんなことが大きな話題にもなった。
 こうしてさまざまな話題を呼びながら東北の各県が新品種を開発しているのに、うちの県は一つもない、けしからん、県は何をやっているのか、福島県の会議などに出席するとよくこういう意見が出されていた。しかし、福島に適する品種と言っても、自然条件の異なる会津、中通り、浜通りの三地域に共通して適する品種を育成するなどはきわめて困難である。それなら他県の開発した品種を導入し、福島の各地域に適した肥培管理技術を確立して栽培した方がいいと思うのだが、ともかく試験研究機関は責められて困ったようである。
 こうして80年代から90年代にかけて品種改良が大きく進んだ。しかし、その方向は70年以前とはまるっきり違っていた。多収品種の育成から良食味品種への育成へと変化したのである。

(註)原作:雁屋哲 作画:花咲アキラ『美味しんぼ』、小学館『ビッグコミックスピリッツ』で1983年より連載
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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