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ササニシキの凋落



               農業をとりまく状況の激変―90年前後―(3)

                   ☆ササニシキの凋落

 80年代後半ではなかったろうか、宮城県北の青年からこんな話を聞いた。庄内に行ったとき、ササニシキの姿が宮城とかなり違うことに気がついた。これは気象・土壌条件の違いだろうとは思ったが、本当にそうなのか試してみようと思って、種子をもらってきて自分の田んぼに植えて見た。そしたら何と、別の品種かと思うくらい稲の姿形が違っていた。何十年も別れて作られているうちに違ってしまったのだろうか。こう彼は不思議がっていた。
 そんなことはあり得ないはずである。品種更新をしているかぎり、つまり試験場から提供された原種から採種した種子の配布を受けて作付しているかぎり、同じものであるはずである。技術者も異口同音にそういう。ところがそうでもなさそうである。県のある職員がこんな話をしていた、いま栽培されているササニシキは最初に育成されたときのササニシキとはかなり違ったものになっているらしいと。こんなことはあるはずがないのだが。
 しかし、こんな話が出てくるのは、ササニシキに対する不信感、ササの将来に対する不安感が生産者の間に生まれてきたことを示すものだったのかもしれない。現に、米販売業者や消費者のなかにササ離れが起き始めていたのである。

 ちょっとだけ話は米から離れるが、岩手県和賀町(現・北上市)で大規模な稲作・畑作経営をいとなむTKさんから次のような話を聞いた。転作でひまわりと大豆を栽培したのを契機にひまわり味噌を製造販売することにした。製品ができあがってさて売ろうとしたら、ある販売業者からこう言われた。味噌を売るのは容易ではない、消費者は一度この味噌と決めて食べたら、簡単に他の味噌には変わらないものだからだ、ただし一度変えたらずっとそのままになると。たしかにそうだった。売り込むのに本当に苦労した。しかし、何とか買ってくれたお客さんのなかにいつも買ってくれるようになったもの、つまりお得意さんになってくれたものがいると。
 そういうものかもしれない、毎日食べている味噌汁、その味に慣れているからかよその家の味噌汁はあまりうまいと思わない、前にも言ったがまさに手前味噌(註)、だからよほどのことがないかぎり他の味噌に切り替えようとは思わないのだろう。私の家でもそうだ。
 この話を聞いたとき、ふと思った、米もそれと似ていないかと。
 米屋さんから米を買う場合、あるときはある品種、あるときは別の産地の米、などと目先を変えて食べている消費者は少ないのではなかろうか。一度これはおいしい、この品種の米を買って食べようと決め、それを毎日食べてその食味、食感に慣れてしまったら、簡単に切り替えないのではないだろうか。
 食堂の場合も同じだろう。行くたびにご飯の味が違うようではお得意様はつかないから、一度これと決めたら簡単には変えない。
 ただしそれはその品種の米が毎年安定して供給されることが前提となる。
 ある年不作でいつものAという品種が買えなくなり、やむを得ずBという品種に切り替え、そのB品種が前のA品種と味などで遜色なく、しかも安定して供給されるとなれば、その後はBをずっと継続して食べるように、つまりA品種の購入はやめることになるからである。
 もう一つの前提は、その品種の食味、食感が年によって大きく変わったりしないと言うことである。
 たとえばうまいと思って毎日食べていたある品種の米がある年非常にまずかったと実需者から不満が出れば、販売業者は他のうまい米に切り替えて供給する、するとその後はそのまま切り替えた品種が定着するようになり、前の品種の米は買わなくなる、こうなるからである。
 つまり、年による販売量=生産量の振れ、品質の差が小さいことが、消費者や外食産業、米販売業者を把握しておく上で不可欠なのである。

 80年の秋、ササニシキの新米を食べたとき、そのまずさに驚いた。76年のときにも感じたのだが、それ以上だった。農家の方もそれは認めていた、冷害年の米はたしかにまずいと。そしてササは他の品種とくらべて気象条件の影響を受けやすく、うまい年とまずい年の差が激しいとも言っていた。
 こんなことは米の販売業者にとっては常識で、年によるササの食味の振れの大きさに困っていたらしい。
 さらに困ったのは、気象によって生産量の変動が激しく、安定して販売できないことだったという。それはササの適地が比較的狭いことによって拍車をかけられた。つまりこういうことである。
 コシヒカリのように全国的に栽培されるなら、たとえばある産地が天候不順で生産量が落ちても被害の少ない他の産地から集めて手当てすることができ、つまりある産地の変動は気象条件の異なる他の産地の変動で相殺されるので、相対的に安定して供給できる。ところがササの場合には東北南部3県というほぼ同じ気象条件のところでつくられるからそうはいかない。ある年には産地すべてが豊作になって一挙に大量のササが大都市市場になだれこみ、逆に天候不順の年にはみんな不作になるので極度に不足することになり、安定供給ができないのである。適地が限られることから希少価値が生まれてササニシキの価格形成に有利に働いたとさきに述べたが、それが逆に泣きどころでもあり、不利にも働くのである。
 それでも、ササニシキに代わるうまい米がなかったことから、ともかく需要量は減らず、作付面積全国第2位の地位は変わらなかった。
 しかし、1990年を最高にしてその作付面積は減少し始めるようになった。さきに述べたように80年代後半からさまざまな良質米品種が登場し、それがけっこう高値で売れ、ササニシキとの価格差が縮小したので、そうした品種の導入、転換が始まったのである。
 ササ・コシと比較して遜色ない食味だといわれたあきたこまちがその典型であった。とはいっても当初はなかなか売れなかった。すでに信仰のように確立していたササ・コシの人気を打破するのは容易ではなく、秋田経済連などは売り込みに相当苦労したようである。しかし、徐々に市場の評価は高まり、しかも東北だけでなく栽培できるということから、作付面積は88年に急激に拡大した。そして91年には全国3位・10万㌶に作付されるようになった。
 一方、ササ信仰から目覚め始めた宮城の農家は91年開発されたひとめぼれを導入し始めるようになる。また山形ではひとめぼれに加えて92年からはえぬき、どまんなかも導入するようになった。
 こうしたササから他の品種への移行が決定的となるのは93年の大冷害を契機にしてだった。
 この冷害でササニシキは壊滅的な被害を受けた。しかし、ひとめぼれは被害が軽微だった。しかもその食味はササ、コシに劣らず、価格もいい。そこで翌94年には作付面積は倍増し、全国2位の10万㌶にまで伸び、逆にササニシキは10万㌶を切って4位に落ち込み、それから5年後の99年には最盛期の十分の一の2万㌶を割り、ベストテンからその名が消えるまでに急減した。
 稲の品種の寿命は10年程度と言われてきたのに、1964年の導入から93年の激減までの30年間の長きに亘ってその名声を誇ってきたササニシキも、ついに凋落することになったのである。

 こうしてササはその地位を失ったが、ひとめぼれ、あきたこまちが東北を代表する品種として全国を制覇している。これは東北人としてうれしい。しかし、その両品種ともにその親が福井生まれのコシヒカリであることが何とも口惜しい。とはいっても、コシヒカリの先祖には、明治時代に山形庄内地方の篤農家阿部亀冶が選抜した亀の尾があり、秋田県にあった国立農事試験場陸羽支場(現在の東北農業研究センター大曲キャンパス)で大正期に育成した陸羽132号がある。つまりコシヒカリも東北の血をひいている。ということはひとめぼれ、あきたこまちも東北の品種だと言っていいことになる。米に関してはやはり東北は誇りをもっていいのである。

(註) 11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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