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豊作貧乏+凶作貧乏


               農業をとりまく状況の激変―90年前後―(4)

                   ☆豊作貧乏+凶作貧乏

 農家にいくと座敷に仏壇と神棚がある。私の生家もそうで、部屋は違ったがやはり二つあった。祖父は朝晩必ず神棚と仏壇の前に行って拝む。神棚では立って柏手を打って、仏壇の前では座ってお経を詠んで拝む。これは家長の責務だった。また家族は全員朝食前に各自お詣りをする、これが日課だった。その前に神さま仏さまそれぞれにご飯をあげておく。これは私たち子どもの仕事だった。なお、仏壇に供えるご飯は「おぼくさま」という独特の形をした真鍮製の対の小さな器に、神棚にあげるご飯は小皿(これを何と呼んでいたか思い出せない)に盛っていた。
 こうしたなかで育ったから、神棚と仏壇の二つがあることに何の違和感も感じなかった。しかも神仏はどうも分業の関係にあるようだった。だからなおのこと不思議に思わなかったのもかもしれない。
 仏さまはご先祖さまへの祈り、あの世のご利益(りやく)の祈りであり、神さまには現世のご利益(りやく)、干ばつや水害などの自然災害がないように、豊作になるようにとか、健康や勝利とかを祈ったのである。
 たとえば、仏壇には先祖の月命日やお彼岸などにおぼくさま以外に一通りのおかずの入った小さなお膳を特別にあげて拝む。お葬式のときには何日間か神棚を半紙で覆って(つまり神様に引っ込んでいていただいて)、仏様だけを拝む。
 一方、神棚にはたとえば早苗振(さなぶり)のときに苗をあげる。野菜など初めて収穫した日には初物としてそれを神棚にあげる。それから、つまり神さまにまず食べさせてから自分たちが食べる。こうして豊作を祈っていた。
 村の神さま、つまり鎮守さまなどもそうで、村祭りは豊作祈願が中心だった。村は農家の集まりだからこれは当然のことなのだが、町の祭りでもやはり五穀豊穣を祈願した。凶作になってもっとも困るのは都市の一般庶民だったからである。農家の場合は若干でも収穫があればそれを何とか食いつないであるいは近くの野原や林野に行って雑草や木の実などを穫ってきて飢えをしのぐことができるが、都市の一般庶民はそういうわけにはいかない。だから豊作は都市住民の強い願いでもあり、つまり生産者・消費者すべての願いだったのである。

 しかし、貨幣経済が浸透してくると農家にとって豊作は必ずしも喜びではなくなってくる。豊作は価格を暴落させ、豊作貧乏にさせるからである。もちろん、凶作の時には価格が暴騰する。農家の場合それで凶作による収入減を若干でも補うことができる。また、豊作時の価格暴落による減収分を凶作時の価格暴騰で取り返すことができる場合もある。しかし、豊作の価格のときでもぎりぎりいっぱいの生活を余儀なくされている都市の一般庶民の場合は、凶作で価格が高騰すればましてや買うことができなくなる。とくに困るのが主食の米だ。野菜などは買わずにあるいは代用品ですますことができるが、主食はそういうわけにはいかない。高くて買えないとなると飢えるより他なくなる。だから豊作は生産者よりも消費者にとって必要だったのである。
 にもかかわらず現在の技術段階では凶作は必ず起きる。また買い占めや売り惜しみで米価が高騰することもある。それがとくに大きな社会問題となったのは1918(大正7)年だった。いわゆる米騒動が起こったのである。
 一方、1930(昭和5)年の大豊作とその前年から始まる昭和恐慌を契機に米価は三年間にわたって大暴落し、農家は貧困のどん底に陥れられた。
 こうした状況が起きないようにしようと、米などの主要食糧については国家が流通と価格を管理するようになってきた。それは1942(昭和17)年に食糧管理制度として確立した。ただし当時のそれは戦争遂行に役立てるためのものだった。やがてそれは戦後の民主化の中で徐々に変化し、生産者が安心して生産できるように、消費者は安定した生活が送れるようにするための制度として定着してきた。
 それで豊作はその昔のように国民みんなの喜びとなった。豊作になっても価格は暴落することはないし、豊作のときの米を政府が備蓄しておくので凶作のときは価格暴騰など引き起こさずに消費者に安定して供給することを可能にしたからである。

 ところが、1970年ころからそうではなくなった。都市住民は作柄どころか食糧に農業にまったく関心をもたなくなった。それどころか、豊作に不満すらもつようになった。財界やマスコミの徹底した宣伝の中で、豊作で米が余っているのに、余っていれば価格は下がるはずなのに高い米を食わされている、さらに食管赤字を増やし、国家財政を苦しめていると都市住民は考えるようになっていたのである。
 農家は農家で豊作を祈願しなくなった。豊作になると米が余り、減反は強化され、米価は据え置き(諸物価上昇のもとでは実質引き下げ)どころか引下げられるようになってきたからである。そして先に述べたように多収を追求しなくなった。豊作祈願どころか、不作にでもなってくれ、そうすれば都市住民は米のありがたみがわかるだろうなどと考えるようにすらなった。私もそんなことを考えるときがあった。都市住民の農業・食糧に対する関心の薄れに頭にきていたから、米不足にでもなれば食糧増産の必要性に気が付くのではないかどと考えたくもなるのである。
 しかし時代は違っている。凶作になって国産の重要性などに消費者が目覚めるなどいうことはもはやない。国産農産物が不足すると外国からその分安く輸入されてくるだけで、消費者はとくに困らないからである。
 しかも一度輸入されると、その安さから豊作時でも輸入され、消費者もそれを当たり前として購入するので、国産農産物の消費は減らされる。つまり凶作は輸入を増やし、農業に打撃を与えるのである。
 野菜がその典型例だ。よく野菜農家は豊作貧乏で泣かされたが、それでも何年に一度は価格が上昇した。野菜農家の中には、三年に一度もうかればいいのだというものもいたほどだった。不作の年に価格が暴騰して豊作年の暴落による減収を補うことがあったし、よそが不作でも自分のところはとれて価格暴騰でいい思いをするということもあった。しかし最近は、豊作による価格低落はあっても不作による価格暴騰はなくなった。不作になれば外国から一挙に野菜がなだれこみ、価格は上昇どころか低落さえするのである。「豊作貧乏」ばかりでなく、「不作・凶作貧乏」にも泣かされるようになった。さらに恒常的に途上国等から野菜が輸入されるようになり、産地は大打撃を受けるようになるのである。

 こうしたことの走りがうどん用小麦の輸入だった。実はそれを知ったのは農大に勤務してからで、つい最近のことである。農大には全国各地から学生が集まってくるが、私のゼミの香川出身の学生は休みで家に帰ると必ずと言っていいほど讃岐うどんをお土産にもってきた。彼らの自慢なのである。たしかにうまい。聞いてみると、香川県人はほぼ毎日のように食べるくらいうどんが好きなのだという。それもあってだろう、一人の女子学生が卒論で讃岐うどんの原料となる小麦の問題を取り上げた。私はほとんど知らなかったので興味深く読んだのだが、それによるとかつて讃岐うどんの小麦はほとんど国産だった、ところが1963(昭和38)年小麦が不作となり、それを契機にオーストラリア産のASW(Australia Standard White)小麦が輸入された。これでつくられたうどんは国産に比べて色が白く、見栄えがいいので、消費者の評判が非常によかった。しかも価格は安い。それでASW小麦に合わせた製粉機・製粉方法が普及し、後には讃岐うどんの原料はほとんどそれに変わり、香川の小麦は壊滅状態になったというのである。最近になって県農試が小麦の品種改良に力を入れるようになり、2000年に見栄えもよく雨に強い「さぬきの夢2000」が開発され、普及しているという。これをどう定着させ、拡大していくか、これを彼女は問題としたのだが、いずれにせよ香川の小麦が復活しつつあることはうれしいことである。
 それからうどんの原産地を注意してみるようになり、国産小麦を原料としたうどんを購入するようにとくに気をつけるようになったのだが、最近国産が増えている。そのさいの小麦は北海道産がほとんどなのだが、いずれにせよ喜ばしいことである。
 もちろんまだまだ輸入小麦が多い。そしてその激増のきっかけは凶作だったのである。
 このように凶作は輸入を増やす。今の輸入自由化政策が続く限り、消費者の意識が変わらない限り、この法則性は貫く。そしてそれは米においても貫かれた。93年の大凶作は緊急輸入をもたらし、それも一つのきっかけとなって95年から恒常的にミニマムアクセスとして米が輸入されるようになったのである。

(次回の掲載は、1月6日とする)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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