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93年冷害と米不足



                農業をとりまく状況の激変―90年前後―(5)

               ☆93年冷害と米不足―農村と都市の対応の違い―

 1993(平成5)年、東北地方の夏は寒かった。そして百年に一度とまでいわれた80年冷害(註)をはるかに上回る凶作となった。しかも凶作は全国的なものだった。それは米不足を引き起こし、「平成の米騒動」とまで言われた混乱を引き起こした。

 その年の夏遅く青森県三沢市に調査に行ったが、80年に行ったときと雰囲気はまるっきり違っていた。前回の冷害のとき農家は「もう米は駄目だ」と暗く落ち込んでいたが、今回はそういう話はまったくでない。8月末で収穫皆無ということが分かっているのにかかわらずである。
 その秋、岩手県北の軽米町に調査に行った。当然農家から凶作の話が出ると思った。ところがここでもまったく米の話が出ない。収穫皆無であるにもかかわらずである。そこで最後に「今年は米が大変だったですね」と水を向けてみた。ところが「まあそうだな」と反応が鈍い。そこでまた聞いてみた、経済的に大変ではないかと。すると笑って答える、
 「先生、裏の畑に行ってみろ。札束がごろごろ転がっているから」
 野菜が高値で米の減収を補ったというのである。
 もちろん冷害で被害を受けた野菜もあった。ニンニクなどはその典型だった。中国からの輸入による価格低下はそれに拍車をかけた。しかし、夏取り野菜の高価格はそれを補った。80年冷害から学び、畑作にさらに力を入れ、品目と作型の多様化を図った結果、ダメージは大きくなかったのである。もちろん米がまったく穫れなかったのだからダメージがまったくないわけではない。しかし意気消沈するなどということはなかった。まさにこれは複合経営化の成果だった。
 だけどちょっと淋しかった。何でこんなに米に無関心になってしまったのだろうかと。これまで稲作は経営の柱だった。そして特別な思いでつくってきた。ところが凶作になってもそれほど精神的打撃を受けていない。こんなに稲作に対する意欲を失ってしまっていいのだろうか。これはやむを得ないことかもしれない。何しろ米価は16年前と同じだし、特にこの地域は政府米地帯(いわゆるまずい米地帯)でその低迷の影響をまともに受けており、自由化までいわれているのだから、米にたよるわけにはいかなくなっていたからである。
 自主流通米地帯(いわゆるうまい米地帯)でもそれほど大騒ぎにはならなかった。日本海側は何とか穫れたし、被害の大きい太平洋側は兼業収入があるので生活はできるし、何とか食い扶持、自家消費分だけはとれたからである。

 いうまでもなく冷害は生産者に大きな経済的打撃を与えるので農村部は大騒ぎとなる。
 一方都市部は食管制度で需給が管理されているので、米不足や価格の暴騰で大騒ぎになることはない。
 ところが93年はその逆になった。都市部が大騒ぎとなったのである。
 仙台の米屋に米がない、93年の晩秋、パニックに近い状態になった仙台をテレビのニュースが全国に流した。それを見た奥さんの実家・鹿児島から米が送られてきた、研究室の助教授(当時)HT君はこう言って苦笑していた。子どもをかかえていた彼はそれでも足りなくて東京に行ったときに米を買ってきたと言う。
 なぜこんな事態が起きたのだろうか。米どころの宮城県になぜ米がなく、鹿児島や東京にあったのだろうか。
 それは仙台市民に占める東北の農家出身者の多さから来ている。平年であれば、出来秋に実家や親戚・友人などから新米が贈られてくるので米屋から買わず、それが切れた頃から購入する。ところが今年は不作のため米が送られてこない。そこで米屋に買いにいく。つまり縁故米需要が一般需要に切り替わったのである。
 こうして需要が増えたのに供給は平年と同様になされる。しかも農水省食糧事務所は冷たい夏のさなか東京や大阪にどんどん米を送り込んでいた。政府在庫不足のなかで予測される大都会の米不足とそれによる混乱を避けなければならないからである。そして宮城県内の需給は米の産地だから何とかなるだろうと判断していた。ところが県内の需要は急増し、減収は予想を上回った。それで大都会に米があって生産県の宮城に米がない状況になったのである。
 それなら宮城県に対する供給量を急いで増やせばいい。食糧事務所が指示して政府の備蓄米や相対的に被害の少なかった他県の米を宮城にまわせばいいはずである。
 ところが備蓄がない。他県も刈り取りの遅れですぐには宮城県にまわせない。しかもヤミ米業者の暗躍で政府米や自主流通米としての集荷量が少ない。
 かくして仙台の米屋に米がないという事態が引き起こされたのである。
 こうした異常な事態は年末ころには解消された。小売価格も若干上がったが買えないほどの価格ではない。新米が出回り始め、また他県産米も宮城県にまわされてきたからである。需要に対応して消費者に的確に安定して米を供給し、不作による生産者価格上昇を抑えて消費者価格の暴騰を抑制するという食糧管理制度が機能したのである。したがってこの事態は食管制度が消費者のためにもなっていることを教えたといえよう。
 こうして仙台の混乱は一時期おさまったが、事態はふたたび深刻化し、米屋の店頭から米が消え、さらに混乱は全国的なものとなった。200万㌧も減収したのだから米不足になるのは当然のことだった。もちろん、政府がきちんと備蓄しており、それを放出すれば問題はない。ところがまともに備蓄していなかった。それで米屋に米がないという状況になったのである。

 しかし、マスコミはそうしたことはいわない。そして、農家がトラックで米屋にきて安い米を買い占め、それをヤミ屋などに高く売っていることが米不足の原因だとまでいう。しかしそんなことをして農家はもうかるわけがない。二重価格制は実質的になくなり、消費者価格より生産者価格が高いなどということはなくなっていたからである。もちろんヤミ米業者ならもうかる。実際に買い占めにきたのは値上がりを予測した業者だった。こうしたことを調べもせずに農家が悪いという。
 また農家が米を農協に売らず、ためこんでいることが問題だともマスコミはいった。しかしそれは家族が食べるためであって、いつもやっていることでしかない。もしかしてそれ以上にためこんでいる農家もあるかもしれないが、私が農家だったらやはりそうするだろう。凶作は続くといわれるなかで来年の収穫が心配であり、飯米確保のために準備しておく必要があるからだ。しかも政府の備蓄にたよれないことがはっきりした状況のもとでは、都会に出ている子どもや兄弟のために自分が備蓄して来年の端境期の米不足に対処してやろうと考えるのも人情であろう。ところが、ためこみはヤミで高く売るためであり、それが米不足をもたらしているとして農家はけしからんという。こうして消費者との分断を図る。
 一方政府は、百年に一度の不作だから米不足もやむを得ないという。
 たしかにすさまじい凶作だった。しかしそれが即米不足になるというものではない。豊作の年の米を備蓄しておけば不足になどならないからだ。そもそも、いかなる事態が起きても大丈夫なように、不足にならないようにするのが政治なのである。
 ところが政府は、財政問題を理由にして、過剰になったら困るとして転作割り当てを増やし、十分な備蓄をしてこなかった。米の過剰だけ心配して不足になった時どうするかを考えなかったのである。
 そこに問題があったのに政府はそれを自然現象の問題にすりかえる。
 たしかに、凶作は自然現象とそれを克服できない技術の問題である。しかし、凶作が不足や飢饉になるのは政治経済の問題なのである。そのことにはマスコミは触れない。 
 そして基本技術をまもらず、収量を落とした農家が悪い、それが米不足をもたらした一因だともいう。しかし誰が基本技術をまもれなくさせたのか。生産者であるかぎり誰だってきちんと管理をして収量をあげたいのである。ところが、生産者米価を17年前と同じ水準に据え置き、農家の米生産意欲を阻害してそれをやれなくさせてきた。もちろん、深水管理等をきめこまかくやった農家のなかには周辺の農家よりも高い収量を上げたものもある。それでもやはり平年より収量が低い。それは気象ばかりでなく良質米追及、多収技術の軽視に追い込まれたことによってももたらされている。そうしたことを問わずして農家に責任をかぶせる。

 こうして引き起こされた米不足を解消するためにと政府がとった施策は、米の緊急輸入だった。
 しかし輸入した米はだれも買わなかった。買った人もその多くは食べずに捨てた。近所の奥さんが家内にこんなことを言って笑っていたという。あまりのまずさに食べるのをやめた、しかし捨てるのはもったいない、それで庭の木々に集まる小鳥の餌にしようと庭に撒いた、そしたら雀も食べなかったと。こうしてタイ米の多くはゴミとして捨てられた。マスコミはそれを大きく取り上げ、強く非難した。たしかに問題がある。食べたくとも食べられない人々がたくさんいる国から金にあかせて持ってきて捨てているなどということは許せないことである。しかし非難する方もまちがっている。米と言っても、輸入米つまりインディカ種は国産米のジャポニカ種とまったく質の異なるものだからである。それを同じ米だからと言って輸入する政府・特権官僚がそもそもまちがっているのである。小麦が不足したからと大麦を輸入し、それで間に合わせろというようなものなのだ(と言ってもそれも高級官僚や二世政治家はわからないか)。
 当然、緊急輸入したタイ米は店頭で売れ残ったままとなる。そこで政府は「国産米の単独販売は認めない」として国産米と輸入米のブレンド販売をするという方針を打ち出した。これはさらに混乱を引き起こした。消費者は一斉に店頭に走った。当たり前である。小麦と大麦を抱き合わせで販売するからこれでパンをつくって食べろと言われてもどうしようもないのと同じだからだ。そこでそうなる前にともかく国産米を大量に買っておこうと米屋の前に行列をつくった。
 こうした混乱は「平成の米騒動」と呼ばれた。しかし、大正の米騒動とは決定的に異なっていた。ともかく米の流通、価格形成は政府の管理下にあり、買い占めや売り惜しみ、価格の暴騰などで米がまったく食べられない勤労市民が形成されるということはなかったし、輸入原料でつくられたものではあるがパンや麺などが豊富にあったからである。

 93年冷害とこの事態は、食糧管理制度・食糧自給・食糧備蓄の重要性を示すものであった。そして消費者は米の大事さを再認識するはずだった。
 しかしそうはならなかった。消費者はますます米から離れていった。パンや麺、スナック菓子、畜産物などの輸入食糧で腹を満たしたことが習慣として定着し、さらに米離れが増幅されたのである。
 そしてマスコミは、米の緊急輸入を契機にこれまでよりさらに大声で米の輸入自由化を叫ぶようになった。たとえば彼らは、自分の都合のいいときだけ外国から買うのは虫がよすぎる、いつも買うようにしないのは、つまり自由化しないのは商道徳に反するという。飛び込みでものを買うとき、いつも買うと約束しなければ売らないなどと商店はいわないが、こうした商道徳もあることを彼らは忘れる。アメリカでは輸入制限しているピーナッツが不作になった年だけ輸入しているが、つまり都合のいい時だけ買っているが、こうしたことがあることをマスコミは消費者に伝えない。
 そして緊急輸入による国際価格高騰でアメリカなどの輸出国が喜んでいることは伝えるが、その結果輸入国の大半を占める開発途上国が困っており、自由化すればさらに困るだろうことはかくす。マスコミの好きな国際貢献がこれでできるのかは突然忘れる。
 こうした混乱した状況の中で、93年12月、政府はガット・ウルグアイラウンドで米のミニマムアクセスという部分自由化を含む農産物の輸入自由化に合意した。十分な国民的議論もなく、国会での審議もないままに、農民の強い反対を押し切って、米の市場開放に踏み切ったのである。

 他方で政府は、94年の生産調整目標を大幅に少なくした。ともかく米がないからである。そして目標達成を強要した。ただしそれは今までと違っていた。今までは減反目標を超過達成すれば誉められたのだが、今度は超過しないように、目標通りに米をつくるようにというのである。農家は困ってしまった。転作面積を簡単に変えられては営農計画は立たず、ようやく集落をまとめてつくったブロックローテーションや転作組織も混乱させられるからである。しかも後二年か三年して過剰だとなると今度はまた減反目標を増やし、それを強要してくるのだろう(実際にそうなったのだが)。
 まさに「猫の目農政」だった。長期的視点、計画性の必要な農業にとってこれではどうしようもない。ともかく大混乱だった。

(註)
11年8月12日掲載・本稿第二部「☆80年冷害―マイクロバス・機械・銘柄冷害―」参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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