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たばこをやめた話



               農業をとりまく状況の激変―90年前後―(8)

                    ☆たばこをやめた話

 兵隊に行ってたばこを覚えた、という話をその昔よく聞いたものだった。入営すると、喫煙するしないにかかわらず毎日何本かのたばこが支給されるので、まあ吸ってみようと吸っているうちにやめられなくなったというのである。軍隊がたばこを世間に普及する、そうやって増えたたばこにかけた税金で軍隊を維持する、いい循環をつくったものである(ちょっとオーバーかもしれないが)。
 ところが戦後、こうして育てられた愛煙家は非常に困った。たばこは配給制になり、しかもなかなか配給されないのである。一方で就職口はない。そこで生まれた商売が「もく拾い」だった。道路などに落ちているたばこの吸い殻(これを「もく」と呼んでいた)を拾い集め、それを愛煙家に売って生計を維持するのである。といっても若い人たちにはわからないかもしれないので、もう少し説明しよう。
 かつての紙巻たばこは今のようにフィルターがついていないので、吸い口の何㌢かは熱くて吸えず、それを吸殻として道端などに捨てる(当時はポイ捨てが当たり前、禁じる法律などもちろんなかった)。とくに占領軍のアメリカ兵のなかにはぜいたくにも半分も吸わないで捨てるものもいた。それを拾うのである。そしてそれを巻いている紙を破いてたばこの葉を取り出し、それを一本分の量にして改めて紙で巻き直し、一本のたばこにする。そのときに巻く紙は英語の辞書の紙がもっともよかったらしい。こうやって再生したたばこを愛煙家に売る、これがもく拾いである。こんな紙で巻き、しかも人が吸った後の残り粕でつくったたばこまで買って吸いたいなどというのだから、たばこ飲みとはどうしようもないものである。
 幸いなことに私の父はたばこは吸わなかったのでそんな苦労はしなかった。酒も飲まなかった。若い頃の父はまさに模範青年だった。しかし酒については戦後農協役員や農業委員等をやっているうちに付き合いで飲まざるを得なくなり、何回も吐きながらだったが、40歳近くになってようやく覚え、その後は大酒飲みになってしまった。でもたばこだけは死ぬまでやらなかった。
 しかし、不肖の息子の私は、高校時代不良っぽく威張る同級生に負けたくなくて、いっしょにこっそりと酒とたばこを飲んだ。大学に入ってからは自分も大人だと生意気がりたくて友だちと屋台などの安酒屋に行って合成酒や焼酎を飲み、気持ち悪さをがまんしながらたばこを覚えた。そのうちたばこはやめられなくなった。たばこがなくなるとがまんができなくなり、灰皿のなかの吸い殻を探し、火鉢のなかの灰を火箸でかきまわしてなかに吸い殻が残っていないか探し、見つけるとそれを爪楊枝でさして吸うか、キセルに差し込んで吸ったものだつた。まさにもく拾いだった。
 ただ一度だけ本当にやめようかと思ったことがある。30歳代なかばに手術をしたときである。こんな苦しい思いをするくらいならたばこをやめようと思った。たばこがこの病気の誘因の一つだったからである。しかし退院するとすぐに吸いたくなった。たばこを吸わないで机に座り、原稿を書く自分の姿などは想像できない、たばこをやめて原稿が書けなくなったら困るとか何とか理屈をつけて、またもとのヘビースモーカーに戻った。
 1980年代になってからではなかろうか、たばこを吸うことについて厳しい社会になってきた。たとえば列車には禁煙席、禁煙車両ができ、飛行機はやがて全面禁煙となった。私の職場でも、研究室によっては室内禁煙とし、廊下や外で吸う人が出てきた。自分の部屋は清浄にするが、廊下などの外は汚してもいいというのはどうかとは思うが。こうしたなかで喫煙者は少しずつ減ってきた。
 しかし私はやめなかった。禁煙を勧められると、こう答えた。
 「中山間地帯の農業振興のために弱い身体にむち打ってたばこを吸い、米の消費拡大のためにやむを得ず酒を飲んでいるのだ」
 でも、家内にはこんな冗談は言っても通じない。家内は近くで吸われるとすぐにむせるほどのたばこ嫌いで、もしも私が肺ガンになったら恨んで死んでやるといつも言われていたが、そのときは私もいっしょに死んであげるからと答えるだけで、完全な中毒症状になっていた私はやめられなかった。というよりは意志が弱いだけなのだが。
 その私もとうとうたばこをやめた。

 今から10年ほど前、網走に行った次の年の春休み、仙台に帰って5歳と3歳の孫と近くの遊園地で遊んでいたときのことである。上の孫にしばらくぶりでおんぶしてやろうかと言ったら喜んで背中に乗っかってきた。おんぶして立ち上がり、二、三歩歩いたころ急に気持ちが悪くなってきた。目の前が突然真っ暗になって、何が何だかわからなくなった。気がついたら地面に倒れている。となりには孫が転んでいて、大きな声で泣いている。それでどうしたのか孫に聞いてみた。すると「ぼくが わるかったんだよう」と泣く。少しずつ意識がはっきりしてきた。そして自分が気を失って転び、孫を背中から落としてしまったのだということが、何となくわかってきた。孫は自分がおんぶしたから私が転んでしまったと思い、ぼくが悪いと泣いていたのである。慌てて孫の身体をよく見たら頭から血が出ている。すぐに近くの医者に連れて行った。そしたらちょっと傷がついただけでたいしたことはないというので安心したが、医者はなぜ私が倒れたのか心配だ、大きな病院で調べてもらえと勧められた。
 網走に帰ったとき脳外科に行って精密検査をしてもらった。すると脳は何ともないという。失神の原因はいろいろ考えられるというだけではっきりしれない。自分で考えてみた、たばこの吸い過ぎによる酸素欠乏が原因ではなかったかと。このまま吸い続けたら、また失神などして孫にけがなどさせたら大変だと思い、それから禁煙を考えるようになった。しかし決心はつかなかった。
 それから2年後の02年2月のある夜、前の夜飲んだ結果の二日酔いがまだ治らず、気分はきわめて悪い。年をとるにしたがい二日酔いから回復するのは遅くなってはいたが、それにしてもひどい。酒を飲むとどうしてもたばこを吸いすぎる、これもその原因である。たばこか酒のどちらかをやめないとこうした苦しさから逃れられない。それならどちらをやめるか。酒は付き合いもあるし、どうしてもやめられない。それならたばこにしよう。こう決心した。しかし50年近く吸ってきたたばこをやめるのは簡単ではない。決心が鈍るかもしれない。そこで考えた。
 まず、いつでも再開できるように、自分の意志の弱さをみんなの前でさらけださなくともすむように、だれにもたばこをやめたと言わないでいよう。
 もう一つ、吸いたくなったら心のなかで孫二人の名前を呼ぶことにしよう。孫にもう一度けがなどさせていられない。孫のためなら、たばこはもちろん、どんなことでも我慢できるはずだ。
 こうして3日過ぎた。この調子で行くとやめられそうである。それで家内に聞いてみた。何か私の変化に気がつかないかと。家内は不思議そうな顔をする、床屋に行って来たようでもないし、服が変わっているわけでもないしと。家内は私の禁煙にまったく気が付かなかった。いっしょに暮らしていて何事かと言いたかったが、家内にとっては私の存在はたばこと不可分だったので、私がいればたばこは当然吸っているものと思いこんでいたようなのである。
 やがて禁煙を知ったみんなが私の前でたばこを吸うのを遠慮するようになった。しかし、他人がたばこを吸っていたからと言ってとくに吸いたくなることはなかった。逆に私はお願いをした、ぜひとも私の前で吸ってくれ、煙を吸わせてくれ、その匂いで満足できるからと。
 それでもときどき吸っている夢を見る。そして、ああやってしまったと後悔している。しかし不思議なことにそのたばこに味がない。何とも歯ごたえがないというのか、吸いごたえがないというのか、ともかく吸ったような気がしない。それで夢を見たからといって吸いたいなどとも思わない。
 こうして自然のうちにやめてしまった。とくに苦労もしなかった。意志が強いわけでもなかった。それから10年近くなるが、おかげさまで禁煙社会でも不自由なく過ごせるようになり、家のなかや衣服がたばこのやにで汚れたり、臭ったりしなくなった。吸い過ぎで体調がおかしくなるということもなくなった。
 ただ問題は、少々太ってズボンが全部締まらなくなり、縫い直しを頼まなければならなくなったことである。
 さらに大きな問題は、葉たばこの需要を減らし、中山間地帯の農家に本当に申し訳ないことをしていることである。といっても、私が飲んでいたたばこに国産の葉が入っていたかどうかわからない。みんなが驚くような安いたばこ(新生→ゴールデンバット→エコー)を吸っていたから、もしかすると外国産の質の悪い葉たばこを原料にしていたものかもしれない。それならやめても農家に悪くないのではないかとも考える。しかし、意志の弱い私でさえやめたのだから、喫煙人口の減少は避けられないであろう。実際にすさまじく減少している。だから国産葉たばこの需要は、外国産の輸入増によってばかりでなく、まちがいなく減っているはずである。その結果として葉たばこ作の減反が進められている。いうまでもなくこれは中山間地帯の農家にとって大きな打撃である。これは時代の流れからして、健康問題や環境問題等からしてやむを得ないことだなどと言っているわけにはいかない。何とかして葉たばこにかわる高所得作物を導入しなければならない。
 しかし、そんな作物はなかった。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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