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つくるもののない苦しみ



               農業をとりまく状況の激変―90年前後―(9)

                  ☆つくるもののない苦しみ

 70年代、ホップは中山間地帯の希望の星だった。しかしもはやその栽培面積を増やすわけにはいかなくなった。ホップの需要が減ったからではない。ビールの需要は大きく伸びており、それに対応してホップの需要も増えている。ここに葉たばことの違いがある。しかし、その需要は外国産ホップでまかなうことができる。というより国産の半値以下の輸入ホップに切り替えた方がいい。それでビール会社は契約栽培面積を増やそうとしなくなったのである。それどころか、とくに90年前後からの輸入の急増によって、作付面積は大幅に縮小させられた。
 桑園造成までして再び発展させようとした養蚕も同じで希望の星ではなくなった。これも需要が減ったわけではない。日本は世界の四分の一を消費する世界第一の生糸・絹消費国なのである。そうなれば日本の桑園をもっと増やし、養蚕を発展させていかなければならないはずである。養蚕の技術革新は進んでいるし、桑園にできる土地はまだあるし、それはできるはずである。しかし、中国等からの生糸や絹製品の輸入はそれを許さなかった。桑園を増やすどころか、作付をやめるしかなかった。
 葉たばこ、ホップ、桑がだめなら、同じく70年代に力を注いだ大家畜生産の拡大、導入を進め、飼料作物に土地を向ければよいかもしれない。
 しかし、あれほど反対していた牛肉の輸入自由化が91年から始まり、肉牛はもちろん乳牛も増やすわけにはいかなくなった。なぜ乳牛までと言われるかもしれないが、輸入牛肉と直接競合するホルスタインの牡犢(ぼとく)(註)や廃牛の価格低落が酪農経営の所得を大きく減らしたのである。これでは飼料作物の拡大など考えられない。かつてのようなたばこやホップに代わる収入を得るなどと言うことはとてもじゃないができないし、桑を伐採して飼料作物を栽培しても引き合うわけはないからである。ましてや新規に畜産を始めるなどということはできない。機械化施設化が進む中で膨大な資金が必要となっており、かつてのように1~2頭とか5~10頭とかから始めて増やしていくなどという時代ではなくなっている。既存の畜産農家でさえ現状を維持するのがせいいっぱい、なかには借金地獄に陥ってにっちもさっちもいかなくなってやめるものが多くでてきている状況なのである。

 それでも果樹や野菜があるではないか。
 しかし果実については91年からのオレンジの自由化があり、需要も飽和状態になっている。野菜はとくに中国からの輸入が90年代に入って激増し、これもどうしようもなくなってきた。
 もちろん野菜の輸入はずっと前から始まっていた。そして輸入されていないのは軟弱野菜、ダイコン、シイタケだけだとまで言われるようになっていた。
 80年代末頃ではなかったろうか、居酒屋に入ると冬でも枝豆が出てくるようになった。どこの産かと聞くと台湾からの輸入だという。大手の水産会社が日本の種をもっていって台湾で改良し、それを農家に栽培させて日本に冷凍輸入しているとのことである。冷蔵コスト、運賃を入れても国内産より安いという。
 それよりさらに安く大量に生産できるのは中国だ。しかも中国は外国の資本・技術輸入と輸出を積極的に奨励し始めている。そこで輸入商社等の大企業は日本の最新技術を中国にもっていき、そこの賃金の安さや土地面積の多さを利用して日本に低価格で逆輸入してくるようになったのである。
 私がこうした開発輸入をまともに見たのは農大に行ってから、それもサハリンでだった。網走にあるオホーツクキャンパスがサハリンと近いということもあってサハリンとの研究協力で調査に何回か行ったが、ジャガイモと牧草地しかないこのサハリンで何十㌶ものニンジン栽培を始めた経営があった。聞いてみたら、日本のある商社、名前は秘密だと教えなかったが、そこが種子と技術を供給してつくらせ、その商社が買い取って日本に輸出するのだという。サハリンではこうした商社進出がまだ始まったばかりだったが、日本の高い技術、北海道と似ているサハリンの自然条件、そして低賃金労働力でもって本格的に栽培され、日本に輸入されてきては北海道の大産地でさえ負けてしまうだろうと考えさせられたものだった。
 もちろん、途上国への開発援助、技術指導を否定するわけではない。ましてや中国や東南アジア諸国の経済的技術的立ち後れは日本の侵略にも大きな責任があるからそれは当然の義務である。しかしそれが本当に途上国の人たちの利益になっているのだろうか。もしもその開発援助、技術指導で途上国の人たちの食べるものの増産がなされるのであれば問題はない。しかしそうではない。日本の、というより日本の資本の必要とするものを生産するためのものでしかない。それでも、途上国の人たちが十分に食べていて輸出する余力があるならまだいい。しかし現実には輸出余力などない。たとえば中国は大豆等の輸入を急増させている。戦前の中国は大豆の輸出国であったのに、いまは世界一の大豆輸入国となっているのである。にもかかわらず、土地は日本の資本の利益のために用いられる。しかも自分は十分に食べないで日本に輸出している。つまり食料が不足しているのに輸出しているのである。これは戦前の飢餓輸出の再現ともいえる(もちろんかつてとは大きく異なるが)。まさに開発輸入は途上国農業のバランスのとれた発展を阻害しており、しかも日本の農業を苦しめているのである。
 こうした問題点をもつ中国からの開発輸入は、やがて冷凍、塩蔵等も含めるとほとんどの野菜に及ぶようになった。キャベツ、白菜、ニンジン、カブ、ネギ、ゴボウ、サトイモ、ショウガ等々、数えればきりがない。そして外食産業、中食産業で用いる野菜の大半は輸入野菜となり、スーパーにも大量に出回るようになり、消費者はそれを当たり前のように買うようになった。それは当然のことながら国内の野菜価格を引き下げる。それでせっかく努力してつくった産地も大打撃を受けている。こんな状況のなかで野菜の拡大を考えることなどできなくなってきた。たとえば青森県南部で力を入れてきたニンニクは輸入による価格低落に悩まされ、何とか高級品生産で生き延びるより他なく、その作付面積を拡大するなど、ましてや他の地域で新たに導入するなど考えられなくなったのである。
 さらにシイタケまで中国から大量に輸入されるようになってきた。ワラビ、ゼンマイなどの山菜の輸入はあったが、ついにシイタケも開発輸入されるようになったのである。これは中山間地帯の農家にとくに打撃を与えた。かつてこの地帯に適するものとして導入した菌茸類は菌床栽培の導入で平場でも容易に栽培できるようになり、さらに施設型になったことから資本力がないとできないようになって山間部での栽培の拡大は難しくなっていたのだが、原木シイタケの需要は根強く、何とかこれだけは生き延びるのではないかと期待されていた。しかしこれも価格低落に悩まされることになったのである。
 こうしてもはやつくるものはなくなってきた。何とかがんばってつくっても価格は低迷している。輸入はさらに増えるだけ、農業の展望はない。若者は当然農業をやろうとはしなくなる。さらに農村に残ることも難しくなっている。農村部の誘致企業は壊滅状態だからだ。農村に多かった縫製、弱電等の下請け工場の海外移転はすでに80年代から始まっていたが、90年代に入ると海外移転はさらに加速化し、あらゆる分野での工場の閉鎖・移転統合が相次ぎ、農外の就業機会が大きく減少したのである。

 山村ではなおのこと若者は残ろうとしない。そもそも山間部は生産・生活あらゆる面で条件が悪いからである。過疎化は深刻化するばかりである。
 もちろん政府はこれまでもさまざまな過疎対策を展開してきた。とくに車社会に対応できるように道路を整備し、集会所や学校等の建物を整備する等、利便性を高めて生活しやすくするための施策を展開した。
 しかし、若者は残らなかった。不便なところだから過疎化が進んだわけではないからである。山のまた山の不便なところ、かつては人も住まなかったところでさえ、多くの人が集まり、町をつくることがあることを考えてもわかろう。鉱山のある町などはその典型だ。要するに仕事があれば人は集まり、人は残るのである。もちろん、宮城の細倉鉱山、秋田の小坂鉱山のように、鉱山も海外からの輸入で70年以降廃鉱となり、何千人もの人が職を失って流出し、一挙に過疎化してしまったが。
 だから過疎対策はそもそも就業対策であるべきなのである。とくに山村の場合、その基幹産業である農業、林業の振興を図っていくことが必要となる。
 そもそも山村は農業と林業双方の就業機会と収入があって成り立ってきたのであり、前にも述べたように林業あっての農業、農業あっての林業だった。ところが山間部の条件の悪い農地での農業は輸入や減反で平坦部以上の大きな打撃を受け、もう一つの主産業の林業も外材輸入や薪炭生産の衰退でどうしようもなくなってきた。
 工場を誘致してそれに代わる就業機会を確保しようとしても、なかなか工場はこない。効率性を命とする資本主義的企業は遠隔地のしかも平地の少ない山村などのあちこちにばらばらに工場をつくるなどということは考えない。それどころかかつてあった工場も潰れている。たとえば福島県の丘陵地帯には養蚕を基礎にした製糸・紡績の工場が大小さまざま数多くあって就業機会を提供していたが、それも輸入でなくなってしまった。それでも縫製や弱電の零細下請け工場がつくられたころもあった。子どもの減少で廃校になった小学校が工場に変わったところもあった。しかしやがてそれは途上国等からの輸入で撤退してしまった。それなら就業機会の相対的に多い都市に通勤兼業すればいい。しかし遠隔地であるためにそれもできない。

 何とか地域で仕事をつくり、地域で生きていきたい、こうした努力も展開された。炭焼きの復活がそのいい事例だ。
 80年代半ばころから炭が燃料としてばかりでなく水質浄化や土壌改良の材料などとしてさまざまな側面から見直されてきたのをチャンスに、炭焼きの技術を残そう、若者に伝えていこう、そして炭焼きとともに消えつつある山の文化を新たな形で復活し、それを地域の活性化の一つの手段にしようと取り組んだところがあった。かつての木炭王国の岩手の山間部でもそうした動きが出てきた。
 しかしなかなかうまくいかなかった。炭の需要が増えたとたん、商社が外国から輸入するようになったからである。そして炭の6割も輸入されるようになり、中国からの輸入がその半分、残りがマレーシア、インドネシア、タイだという。いうまでもなく、日本と違って生育の遅い中国の木々を切れば砂漠化や洪水問題が引き起こされ、また熱帯諸国の海岸のマングローブ林を切って炭にすれば汽水域の生態系が攪乱される等の環境問題が引き起こされる。国内で十分に自給できるのに、なぜこんな問題を引き起こしつつ輸入するのだろうか。そしてそれは、わが国の林業の再生による就業機会の拡大、森林の荒廃の抑止、地域再活性化を困難にさせる。それはまた農業の発展を困難にする。

 これではいかに努力してもどうしようもない。つくるものがないのだ。当然山村では食っていけない。人々は外に出て行くより他ない。とくに都市での就業機会のある若者は出てしまう。かくして地域に残るのは都市に出て行っても働き口のない高齢者だけとなる。そして過疎化はさらに深刻な事態となり、高齢部落となって農地を維持する担い手はいなくなり、やがては幽霊部落となる。こうしたところがついに東北でも各地に見られるようになってきた。
 山村ばかりではなかった。平坦部でも担い手不足が深刻化してきた。

(註)
  ぼとく。牡の子牛のこと。牛乳が絞れない牡犢は当然のことながら牝の子牛と違ってその価格は低いのだが、牛肉自由化以前は食肉用の肥育素牛としてけっこうな価格で販売され、酪農家の重要な収入源となっていた。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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