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資本蓄積・「家格」引き上げのための農地取得



               農業をとりまく状況の激変―90年前後―(11)

              ☆資本蓄積・「家格」引き上げのための農地取得

 農地の売り手はいても買い手はいないという状況が東北各地で見られるようになってきたころの90年、宮城県北部の平坦稲作地帯のある集落で農地移動の調査を行った。集落の農家は33戸だったが、このうち水田を購入した農家は80年からの10年間で2戸しかなかった。当然この2戸は専業農家もしくは第一種兼業農家で、規模拡大のために購入しているものと思った。ところがまったく違った。1戸は弱電企業の社長、もう1戸は土建業の社長だった。ともに10年前までは経営面横が50㌃弱しかないいわゆる第二種兼業農家だった。それがこの10年の間に前者は1㌶強、後者は4㌶近くの水田を集積していた。
 ちょっと驚いた。しかしよく考えて見たらこれは決して特殊事例ではなかった。いま述べたような土建業者や弱電企業主に加えて、農機具商、肥料商、仏壇製造業等の農村在住の業者が購入している、彼らしか買う資力がないからだという話は、東北の各地でしばしば聞かされていたことだった。つまり、農業中心でやっていこうとする農家が農地を買うことはできず、農村在住の農外自営業主が買うようになったのである。
 それではなぜ彼らは農地を購入するのか。
 彼らは零細企業ではあるが、好景気のときなどはかなりの利益を手に入れる。本来からいえば、こうした利益はそれを生み出した事業の拡大に当てられるべきものである。しかし、規模拡大は自由にできない。弱電や土建などの業者の場合は、下請け企業であるから、親企業の発注に事業規模が規定され、いくら利益が出ても、それを使って規模を自由に拡大するわけにはいかない。
 また、農機具や肥料等の生産資材販売業者の場合には、現在の農業をめぐる状況のもとで農家の投資意欲は減退しており、減反等で資材需要は落ち込む傾向にすらあり、また農協との競争もあり、事業拡大に利益のすべてを向けるわけにはいかなくっている。
 そこで考えられるのは、いわゆる財テクに利益をまわすことである。しかし、バブル経済などにのって投資できるほどの額の利益もないし、才覚もない。また不安でもある。
 そうなれば、定期預金に預けて利息を得るしかない。それはもっとも安全である。しかし、それなら農地を買って借地料を得ても同じである。たとえば当時の宮城県北の借地料は一般に10㌃当たり4俵であり、ササニシキ1俵2万円として8万円になる。これなら200万円で水田を購入しても年4%の利率となり、定期預金並みとなる(90年ころの話だが)。
 しかも土地をもっていれば、それを担保物件として役にたてることもできる。すなわち、親企業の注文に応じるために、利益が出ていなくとも、資金がなくとも、否応なしに工場を拡大しなければならない場合、不況で親企業の注文が途絶えた場合などの資金ぐりに役立てることができる。
 このように、農村部の企業が自立した企業となっておらず、自由に拡大再生産できないこと、利益の投下先に限界のあることが、資本蓄積の一形態としての農地購入に走らせたのである。そしてそれはそれなりの経済的合理性がある。したがって彼らの農地取得は経済的行為ということができる。

 しかし、そうとばかりはいえない面もある。農地所有が村における社会的地位、いわゆる「家格」を高めるので取得するという面もある。
 かつてはこうした理由で農地を購入する農家がかなりあった。例えばわずかな土地をもらって分家した次三男が、少しでも金がたまると農地を購入し、村でのステータスを高め、村の中上層に仲間入りをしようとしたのである。私どもの調査した2戸の農外事業主もかつては零細農家であり、何とかそこからはい上がって対等になろうとしており、それで面積を増やしたのである。もちろん、土地所有はかつてのようなステータスシンボルとしての意味を失いつつある。しかし、村人の心理の根底にはそれがまだある。これでようやく一人前になったと彼らも言う。このように、経済的行為としてばかりでなく、社会的心理的行為としても農地が購入されるという面もあったのである。

 山形大学にいた畜産研究者KT君が鶴岡市近くの農村集落に新しく家をかまえた。当然住民会費(町内会費)を払わなければならないが、聞いてみると会費はABCの三段階に分かれている。Aは2000円、B1500円、Cは1000円となっているが、KT君の家はCクラスなので1000円払ってほしいという。安いのはありがたいのだが、どうしてそうなっているのかと聞くと、それは「家格」によるものだという。だから大体Aクラスは旧地主や本家筋、大規模農家(この三つは相関関係にある)、Cクラスは分家や旧小作・零細農、Bはその中間の旧自小作中農層ということになっている。その昔は農地所有面積に収入が比例していたので、その多いものが集落の維持費を多く払うことで少ないものを援助するという相互扶助の精神があったのだろう。それが住民会費の額に今も引き継がれているのである。
 もちろん、今は農地面積による所得格差などはなくなっている。零細兼業農家の方が大規模専業農家よりも高い所得を得ている場合もある。したがって住民会費などはもう平等になっていいはずだ。しかし、いまだにこうした「土地所有」「血筋」の威光が残っているのである(註1)。この点からいうと、KT君は所得や社会的地位はどうあれ集落でいえば無所有の流れ者、まさに貧民、だからCクラス、たしかに大学の先生なんてその程度のものかもしれない。
 それはそれとして、こうした家格=土地所有による集落内での地位の差はこの地域だけではない。いまだに各地に残っている(註2)。これがKT君の話だけなら笑い話で終わる。しかし、昔からこの地域に住んでいる人からすれば笑って済まされる問題ではない。やはり少なく出しているものには引け目がある。日常は特別意識してはいないだろうが、何かのときには発言を遠慮したりすることにもなろう。何とか平等になりたい。せめて人並みに農地を所有して集落内での地位、身分を高めたい。それで何はさておいても土地を買おうということになるのだろう。こうしたことが今述べた農外事業主=以前の零細農家の土地買いの背景の一つになっているのではなかろうか。

 ところで、この住民会の会費はそもそもはお寺の檀家の寄付の基準を参考にして決めたものだという。つまりお寺はかなり以前から農家を家格により七段階に分けて寄付の額を決めていた。それを三段階に整理して住民会費を決めたものだというのである。要するにこれは、お寺の維持や集落の管理運営に必要な経費は原則として収入に応じて負担するという暗黙の了解、不文律のようなものがあったことを示しているのではなかろうか。つまり村落には相互扶助、格差是正のための累進課税があったのである。
 戦後の日本も格差是正のためにそういう累進課税などかなり徹底した政策をとった。しかし最近は、金持ち減税、法人優遇税制、利子の源泉分離課税等で金持ちを優遇し、他方で消費税等で貧乏人に多くの負担を強いて、格差を拡大している。
 古来のわがくにのむらびとの知恵、そして戦後の民主化、これはどこに行ってしまうのだろうか。

 話をもとの宮城のある集落に戻そう。農地を購入した二戸の農外事業主はその農地を直接経営せず、当地で「作り分け」と呼ばれるヤミ小作で他の農家に貸し付けていた。家族は農外事業で手がいっぱいで農業に従事する余裕がないからである。一方、農地を購入することはできないが、借りてなら規模拡大してもいいという農家もある。そこでこうした農家に貸すということになるのである。もちろん他の地域には直営している農外事業主もいたが、多くは農地を貸していた。
 しかし、さきに述べたような農業後継者不足、営農意欲の喪失のもとで、農地を貸そうと思っても借り手がいくなりつつある。そのときにどうするのか。残念ながらその調査のときそれを聞かなかった。
 後でそれを考えてみた。そして次のような結論になった。
 おそらく彼らは農業を直接営むようになるのではなかろうか。これまでの購入農地を基礎に、担い手のいなくなった農家の農地を借り集め、農業生産法人化するなどして大規模稲作経営を営むようになるのではなかろうか。
 もちろん、農業経営に専念するようになるわけではない。これまで営んできた土建業や農機具販売業、弱電業等と並ぶ一部門として、事業の多角化の一つとして農業を経営することになろう。当然赤字にならないようにはするが、たとえ赤字が出たとしても本業からそれを補填することも考えられる。ともかくいざというときの担保物件としてあるいは売却物件として耕地のまま確保しておきたいからである。また、農地法などの規制がなくなったら大企業のように土地転がしで利益をあげることも考えられる。
 また、農村部に存在することからその従業員の多くは農業経験者なので、その一部を一時期農業に従事させることができる。本業の暇な時期、不況で仕事のない時などの就業機会とすることも考えられる。実際にそうしている経営もあった。将来さらに大規模化すれば、農業専従者を雇用することにもなるかもしれない。
 そしてその生産物は、米流通の自由化の進展に対応して独自の販売ルートを開拓し、たとえば自分の本業のお得意さんに独自のブランドで販売し、利益をあげていこうとする可能性もある。あるいは、販路の確保や資金問題等から、大手の米集荷業者や販売業者の系列下に入ることも考えられる。
 なお、こうした米流通業は、競争激化に対応するために、大商社や農業関連企業との資本提携等でその系列下に入らざるを得なくなりつつある。したがって、流通業者の系列下に入った農外事業主の稲作経営は、最終的には米の生産・流通・加工への進出を虎視眈眈と狙っている独占的大資本の系列下に入ることになろう。そして将来的には、その販売が大資本の手ににぎられ、また資材や技術も大資本から供給されるようになって実質的な経営権を失い、いわゆるインテグレーションのもとに支配されることになるのではなかろうか。
 そして、財界の要求している農地法改廃をてこにして、親企業の指令で農地を買い集め、あるいは借り集め、大資本の下請け企業としてさらに大規模な水田経営を営むようになる可能性もある。かくして日本の水田農業は流通業界・建設業界などから乗っ取られ、資本の直接的支配下に入ることになる。
 東北の農地はそういう道をこれからたどっていくのか、それとも耕作が放棄される道をたどるのか、いまその岐路に立たされている。

 こんな不安を感じていたころ、注目されはじめたのが女性だった。
 これまで農業従事者の中核をなしていた女性は何とかして農業振興、地域振興を図ろうと努力してきた。もちろんそうした努力はこれまで述べたような状況のなかでなかなか報われなかったが、成果をあげた地域もでてきた。直売所や農産加工の立ち上げ、都市との交流などで地域を活性化したところなどはその典型で、その中核には女性がいた。
 こうしたことから農業の担い手としての女性の重視がこれまで以上にさけばれるようになってきたのである。そこで次回からこの女性の問題について見てみることにする。

(註)
1.住民会の現在の会長は分家なのでそもそもはCクラスだったという。しかし彼は市役所の旧上級職員、その奥さんは元教師、そんなことから会長を引き受けさせられた。しかし会長がCではおかしい。それでAに昇格させられ、会費は値上げされたのだそうである。このように少しずつ変わってきている。それでも、集落のなかにできた新興住宅地に移住してきた20戸については全員Cクラスだということなので、やはり農地を中心に考えるという農村の伝統はまだ生き延びているといえよう。
2.家格については下記の記事で述べているので参照してもらいたいが、ここで述べているようなことはまだいいとして、家格の亡霊で地域の発展が左右されるようなことがあってはならないであろう。
 11年8月24日掲載・本稿第二部「☆むらの否定の否定の必要性」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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