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「ポストの数ほど保育所を」



               輝いてやがて消えゆく農村女性(1)

                ☆「ポストの数ほど保育所を」

 「結婚退職」、これがかつては普通だった。女性はみんな結婚すると勤めをやめた。会社によっては結婚退職を内規で定めていたところもあった。もちろんこれは労基法違反なのでそんなことを決めていないところの方が多かったが、会社側は当然やめるものとしてやめさせた。女性もそれにほとんど抵抗せずに退職した。かつては家事・育児が大変だったからだ。だから結婚までの期間勤めずに花嫁(家事)修業をして家にいるという女性もあった。もちろんそれには女性の就業機会が少なかったこともあるのだが。
 1960年代後半になってからではなかろうか、女性の就業機会が増え、結婚と同時に退職することも少なくなってきた。家庭電化などで家事が比較的楽になったことも結婚後の就業を可能にした一因となっている。
 それでも、ほとんどの女性は子どもができると同時に勤めをやめた。育児があるからだ。
 私の家内もそうだった。子どもが一人のときは、隣の家の奥さんが日中子どもの面倒を見てくれ、それ以外の時間は家内と私二人で協力して家事育児をやったので、何とか共稼ぎができた。しかし子どもが二人目となるとそうは行かない。二人も、しかも一人は乳児、隣りの奥さんに預かってもらうわけにはいかない。さらに家内には深夜勤、準夜勤がある。私か家内かどちらかがやめて育児と家事をしなければならない。私は半分冗談に家内にこう言った、私が勤めをやめよう(当時は家内の方が給料が高かった)、家内が夕方帰ってきたら「お帰りなさいませ、お風呂をさきにしますか、それともご飯にしますか」と三つ指をついて迎えようと。まさかそうするわけにもいかない。とうとう家内がやめることになった。それを聞きつけた家内の職場の後輩数人がやめないでくれと家に押し掛けてきた。それに対して私はこう答えた、「保育所をつくってくれ、それまで私が何とかがんばってみるから、だけど一年が限度だ」と。しかし一年以内に保育所をつくるなどということは簡単にできるわけはない。結局家内は勤めをやめた。1965(昭和40)年のことだった。家内には本当に申し訳ないことをした。今でも胸が痛む。職場の中に閉じこめられているよりは社会が広く見られてよかったからいいんだと家内は言うのだが。
 当時は保育所が本当に少なかった。寡婦とかの特別の事情がなければ入れられなかった。だからほとんどの女性が職場を去らなければならなかった。
 こうしたなかで、保育所をもっとつくろうという運動が全国的に展開されるようになった。そのときのスローガンが「ポストの数ほど保育所を」だった。
 家内もその運動に協力した。私も組合で大学に保育所をつくる運動をした。家内は自分の思いがあったろうし、私は私なりでそれは家内に対する罪滅ぼしでもあった。
 やがて全国的なこうした運動が稔り、また女性の社会進出が進むなかで、公設の保育所がたくさんできた。ポストの数ほどではなかったけれども。さらに、学童保育などの施設も小学校単位にでき、やがて乳児保育もなされるようになってきた。それらは女性の社会進出を容易にした。

 いま保育所の話を出したので、幼稚園についても述べてみたい。
 かつては幼稚園も少なかった。私の子どものころは旧山形市内に一ヶ所だけ、それも師範学校(現在の教育学部)附属の幼稚園、それが町の中心部にあるだけだった。当然、私たちなどいけるところではなかった。町場のお金持ちの子どものいくところだった。私たちは自発的にあるいは誘い合って近所の子どもたちといっしょに群がって道路に出て遊ぶだけだった。幼稚園のように先生などはもちろんいなかった。それでも楽しく遊べた。そんなものだと思って私たちは育った。
 1960年代後半ころからだと思う、あちこちに幼稚園ができ、また子どもをそこに通わせるだけの経済的ゆとりもでき、ほとんどの子どもが幼稚園に通うようになった。さらに三年保育の幼稚園までできた。
 小学校に入る前は幼稚園に行く、あるいは保育所に行く、これが当たり前になってきた。農村部もそうなった。農村の各所に幼稚園ができ、保育所もできた。本当にいい社会になったものだ。

 前に詳しく書いたが、かつての農家の女性はすべて農業に従事した(註1)。それが当たり前だった。当時の手労働段階の農業は家族総ぐるみの労働を要求したからである。それに加えて家事・育児がある。それは女性が担った。だから女性は、とくに嫁は、大変だった。
 問題となるのは嫁が乳児などの育児を日中やるわけにはいかないことである。田畑に行かなければならないからだ。それで、姑(しゆうとめ)(しゅうとめ)がいれば姑に日中家にいてもらって育児をしてもらい、また家事や屋敷畑の作業などを担当してもらった。
 しかし、姑がいないとそういうわけにはいかない。子どもを田畑に連れて行くより他なかった。あぜ道や日陰にむしろをしいて、あるいは「えずこ」(註2)に入れて寝かせて農作業をした。兄や姉がいればそれにめんどうを見させた。
 子どもが大きくなると、田畑には連れて行かず、家において出かけた。近所にそうした子どもたちがたくさんいてみんな群れて遊んでおり、年上の子が下の子の面倒を見ながら遊んでくれたからである。そうした子どもたちに何かあると、野良にいけなくて家にいる年寄りが助けてくれた。
 とは言っても基本的には子どもだけ、いうまでもないが、危険だった。田畑に連れて行っても、すぐ目の前で見ているわけではないから、さまざまな事故が起きた。とくに農繁期がそうだった。家ぐるみ、村ぐるみで田畑に出る、子どものことなどかまっている人も暇もなかった。
 こうしたなかで、農繁期だけ子どもの面倒を見てやろうとお寺の住職が境内を開放して臨時託児所を開いてくれたり、地域の嫁・姑が共同して順番にかわるがわる面倒を見る臨時託児所をつくったりしたが、根本的な解決にはならなかった。
 やがて、幼稚園が農村部につくられるようになってきた。農家も子どもを通園させることのできる経済的ゆとりが生まれていた。ここに通園させると少なくとも午前中は安心して田畑で働けるようになった。
 一方、農作業は機械化省力化され、家族全員農業に従事しなければならない状況でなくなっていたので、家でゆっくり育児に専念することもできるようになった。子どもが小さいうちは家事育児に専念するという嫁さんが見られるようになり、うれしくなったものだった。
 しかし、農外に働きにいこうとしたり、農業でもっと働きたいと思うと、やはり姑が子どもの面倒を見てくれなければ、難しかった。
 ところが、公設の保育所が農村部でも開設されるようになった。農村と都市の格差はますます縮小してきた。それで安心して農業で働けるようになった。そればかりではなかった。農外の職場に農家の嫁が進出することを可能にし、また結婚もしくは出産前に勤めていた職場をやめなくともよくなった。農家の女性の職業選択の自由がこれで保障されることとなった。これは農業青年の結婚対象の幅を広げる上でも大きな前進だった(註3)。
 なお、この農村女性の農外就業を可能にしたもう一つの要因として車の普及をあげなければならない。

 自動車の運転免許を持つ、これは男だけだった。女性が免許を持つなどというのはみんな考えもしなかった。たまに女性が運転しているのを見かけると、珍しくてみんな振り返って見たものだった。
 60年代後半ではなかったろうか、「一姫二虎三ダンプ」という言葉が流行った。虎=酔っぱらい運転の怖いのは当然だが、それ以上に女性の運転が恐い、怖く見えるダンプカーよりも危険、女の運転する車には注意しようというのである。これには笑ったが、たしかに女性の運転は危ない。まわりに対する注意が足りなく、自分のことしか考えていない。家内などは、危険な運転をしている車を見て「あ、やっぱり女が運転してる」などと自分が女でありながらつぶやく。ましてや当時は女性であることで甘えるということもあった。もちろん、酔っぱらい運転から比べたらその危険などはたいしたことはないのだが、こんな言葉が流行るほど70年代には女性の運転が多くなった。
 やがて男女を問わず免許を持つのが当たり前の世の中になってきた。免許がなければ就職もできなくなった。そして世の中は車社会となった。トラックやダンプの運転をする女性さえ現れるようになった。一番「恐い」姫と三番目に「怖い」ダンプがいっしょになったらどうなるのだろう、「恐怖」の運転ということになるのだろうか。
 そんなことはさておいて、この車社会が農家に嫁いだ女性の農外就業を可能にした。都会と違って公共交通機関はきわめて不便、これに頼ってはとてもじゃないがよそに勤めることなどできない。つまり自動車は農村女性の職業選択の自由を保障したのである。そしてそれは農業青年の結婚を容易にするものでもあった。

 新憲法で男女同権となって男女平等が叫ばれるようになり、さらに1975年からの10年間男女共同参画の運動が展開された。しかし、女性の地位向上、差別の撤廃はなかなか進まなかった。それでも今も述べたように徐々に変わってきた。

 ちょっとここで脱線させてもらう。さきほど「ポストの数ほど保育所を」について述べたが、この意味が今の若い人たちにわかるかどうか、網走在住の女性研究者WMさんに聞いてみた。そしたら次のような答えが返ってきた。
 「ポストは案外数が少ないもので、せめてそれくらいの数は必要ということでしょうか」
 これはショックだった。郵便ポストについての理解が私たちの時代とまったく違う。昔のポストは街角街角に立っており、赤くて大きくて非常に目立ったので、「ポストの数ほど」というのは「ポストの数くらいたくさん」という意味だった。
 しかし時代は変わっていた。今の通信の主流は電話・メール、昔ほど郵便を利用しなくなったのと郵政民営化で、ポストの数はどんどん減らされている。農村部などでは探すのが大変だ。だからWMさんのように理解するのは今の若い人には当たり前なのだが、ポストがそんな風になったのは何か淋しい。
 さらに、郵政民営化で郵便ポストの数が減るのと同時に、公設保育所の数も減らされ、民営化されつつある。こうしたなかで待機児童が増え、過密保育も問題になっているという。時代が逆行している。
 これについてはまた後に述べることにして、話をもとの時代に戻そう。

(註)
1.10年12月21日掲載・本稿第一部「☆労働力としての嫁」参照
2.10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」(1段落目)参照
3.11年9月16日掲載・本稿第二部「☆女性の意志を大事にしよう」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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