Entries

農家の嫁(5)


       ☆女性参政権を行使できなかった母

 ちょっとだけ敗戦直後のことを先取りして言わせてもらうが、一九四六(昭和二十一)年四月十日、新憲法を定める戦後初の国会議員選挙が行われた。この選挙で、政治的に無権利におかれていた女性が初めて選挙権、被選挙権を行使した。まさに画期的な選挙であった。初めて選挙というものを知った子どもの私も非常に強い関心をもって見ていた。
 ちょうどその二日前の四月八日、私の小学五年の始業式があった。小学校の校舎が米軍から接収された(これについては後に詳しく述べる)ために間借りすることになった商業学校で、新しい担任の先生と同級生と新しい生活が始まることになった。いままでよりもかなり遠くなった新しい通学路を楽しみながら家に帰った。
 家に着いたら母の苦しんでいる声が聞こえてきた。母の具合が悪くなったからと田んぼに行っている父を呼んでこいと祖母に言われ、あわてて自転車で迎えに行った。くろ(畦)塗りをしていた父はすぐに帰った。母は苦しい息の中でなぜ田んぼに出かけていったのかと父を怒った。それは甘えの言葉でもあった。こんな言葉を母から聞いたことはなかった。父は悪かった、悪かったと謝っていた。こんな父も初めて見た。
 父が産婆に医者を呼ぼうと何度も言った。なかなかうんと言わなかった産婆もとうとう納得した。やがて産婦人科の医者が来てくれた。それでもだめだった。その日の夕方、母の苦しむ声が聞こえなくなった。同時に父の声が聞こえてきた、「おれをおいていくのか」。苦しんで苦しんで母は死んでいった。
 難産による心臓麻痺だった。今なら死なないですんだろう。しかし当時は産婦人科にかかるなどということはなく、すべて産婆まかせの自家出産であった。それが手遅れを引き起こした。さらに当時の医学水準と薬不足のもとでは、後でかけつけてきた医者の手にも負えなかった。こうして十歳の私を先頭とする兄弟五人を残して死んだ。
 小説では母を亡くした子どもの話などを読んではいたが、それがまさか自分になるとは思いも寄らなかった。何と表現していいのかわからない。胸が潰れるというのか張り裂けるというのか、目の前が真っ白になるというのか真っ暗になると言うのか、息が詰まるというのかあがるというのか、ともかく苦しかった。家の外にいた妹たちに母の死を知らせるために門を出たとき、目の前の景色が非常に狭く感じた。視野狭窄になっていたのかもしれない。
 火葬場の近くにも家の畑があり、そこに行くと人力葬儀車ががらがらと音をたてて砂利道を通るのがよく見えたが、母はあの車にだけは乗りたくないといつも言っていたと父はいう。それで近所の人四人にかつがれて火葬場に向かった。
 数え三十三歳、女の厄年だったが、いま考えてみれば若かった。働きに働いて、牛のように働いて死んでしまった。戦後の農業労働、家事労働が楽になった時代を体験することなしに、観光地に旅行してゆっくり楽しむこともなしに、女性の地位が向上したことを味わうことなしに、女性参政権を一度も行使することなしに、死んでしまった。

 数日後、学校から帰ってきて「お母ちゃんは?」と台所にいる祖母に聞こうとして、はっと口をつぐんだ。そうなのだ、もう母はいないのだ。いつもそうやって聞いて「畑に行っている」と答えが返ってくると安心して遊びにいっていた習性がついつい出てしまったのである。もうその答えが返ってこないし、聞くこともできない。それがわかったとき、胸がしめつけられるような淋しさを覚えた。
 子どもが小さい頃、家内に頼んだことがある。子どもたちが学校から帰ってくるときには必ず家にいるようにしてくれと。母親がいないと、少なくとも所在がはっきりしないと、子どもは寂しく、不安で落ち着かない気持ちになるものであり、そんな気持ちを味わわせたくなかったからだ。

 一番下の弟は二歳になったばかりだった。母が死んだということがわからない。いつも夕方になると「おかちゃんば(お母ちゃんを)はだげさ(畑に)むがえんぐ(迎えに行く)」と言う。母はいつものように畑に行っており、だから家にいないのだと思っているのだ。だから畑に迎えに行こうというのである。おんぶをする。月がうっすらとかかっている夕暮れの道を畑の方に歩いていく。しかし、行っても母はいない。どこにおれは行けばいいのだ。背中の弟にどう言えばいいのだろう。おれだって母を迎えに行きたいのだ。だけど帰ってこないのだ。お前よりおれはもっと苦しいのだ。こんなことを考えつつ、お月様のことなどいろいろなことを弟に話しかける。こうしてごまかしながら家に戻る。迎えに行っても帰ってこない母を不思議がりながら、弟は私の背中で後ろを振り返り、振り返り、家に戻った。

 このときの選挙で選ばれた国会は新憲法を制定した。これで女性の地位は高まった。しかし、法的制度的には変わっても実体はなかなか変わらなかった。
 むらの女はまだまだつらい時を送らなければならなかった。
 しかし、むらの男もつらかったのである。
スポンサーサイト

Appendix

訪問者

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR