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農家の男たちと口減らし(1)

  

          ☆男の涙

 男は泣くものではない、子どもの時代、家族からはもちろん学校でもきつく言われていた。しかし、大人の男が泣くのを子どものころの私は二回見た。というより泣き声を聞いたと言った方が正確かもしれない。人の死などの異常な状態でないときだっただけに、それが鮮明に記憶に残っている。

 母が死んで二、三ヶ月たったある夜、義理の伯父(父の姉の主人)が家に来て祖父と酒を飲んでいた。子どもたちはご飯を食べ終わり、寝床に入った。夜中、何か異常な気配がして私は目を覚ました。隣の座敷から父の悲痛な泣き声が聞こえるのである。驚いて何ごとかと聞き耳を立ててみると、伯父と祖父母が父に再婚を迫っている。母の妹、つまり私の叔母をもらえというのである。その話は聞いてはいた。母方の実家から後添いをもらうのが当然だなどと親戚や知り合いが家に来て話しているのをうすうす聞いていた。しかし、実感とはならなかった。それがどうも本当になるらしい。しかし父はそれを拒否している。
 これに対して伯父が迫る。二歳から十歳までの五人の子どもを抱えてどうするのかと。たしかにそうである。祖母一人で、家事全般、それに育児など、今のように電化、機械化が進んでいるならまだしも、とてもではないが、やれるわけはない。さらに母の労働は農業にとっては不可欠である。それは父もわかってはいる。しかし死んだ母に対する想い、二度目の母を迎える子どもの不憫さ、義妹に対する申し訳なさ等々、父は悩む。それで泣きながら拒否する。
 父の泣き声を聞きながら、ふとんをかぶって声を聞かれないようにしながら、私も泣きに泣いた。いつの間に寝たのか覚えてはいない。翌朝はいつもと何の変わりもない朝だった。
 結論がどうなったかわからない。聞くわけにもいかなかった。

 今から十数年前、しばらくぶりで会った山形県酒田市の知り合いのKさんからこんな話を聞いた。終戦の次の年の夏、突然父が一人で酒田駅に現れた。今と違い、ましてや戦後の混乱期、列車の本数が少なく、時間もものすごくかかったころだから駅員をしていたKさんは驚いたらしい。父は言う、海を見に来たので行き方を教えてくれと。勤務中だから案内するわけにいかないので家に寄れといっても一人で海に行きたいという。それで道路を教えてあげた。何時間か過ぎて戻ってきた。そして、気持ちの整理がついたからとお礼をいい、その日の夕方の列車でまた山形に帰った。こう言うのである。
 そんなことはまったく知らなかった。家の誰にも酒田に行くとも行ったとも言わなかった。もしかするとそのときに気持ちを決めたのかもしれない。しかし父にそれを確かめるわけにもいかなかった。もうぼけ始めていたからである。
 その後もいろいろあったようである。しかし、母の死後一年経って父は再婚し、私たちは叔母を母として迎えることになった。家の農業と生活をまもるためには私的な感情などは入れるわけにはいかなかったのである(叔母ももちろんそうだった、まさに犠牲になって私たち五人の子どもの母となった)。
 Kさんが私の母の死を知ったのはその後だった。そのとき何で父が一人で酒田に来たのかを察知した。それでその後、仕事中で案内も話を聞いてやることもできなかったことをずうっと悔やんでいたという。

 その次の年、一九四八(昭和二十三)年のことではなかったかと思う。母方の親戚の家に父といっしょに泊まりに行った。夕食後私は遊び疲れて眠りに入ったが、ふと目を覚ましたら隣のいろりのある部屋から甲高い泣き声が聞こえてくる。誰の声かと思ったらS小父だった。S小父の両親が何か大きな声で怒っており、私の父も何か説得するような口調で話している。驚いて聞き耳をたてたが、何かよくわからない。ただ聞こえたのは「家をどうするのか」、「親をどうするのか」という言葉だった。目を覚ましているのを気づかれないようにしばらく身を堅くして聞いていたが、そのうち寝てしまった。
 その内容が推測できるようになったのは何十年か経ってからである。それもS小父や私の父から直接聞いたわけではない。状況からしてなるほどそうだったのかと推測できたのである。

 S小父は農家の長男だったが、高等師範学校を出て教員になった。農業は両親と妹たちで担われた。教員になりたてのころ、召集令状が来て仙台の師団に入営し、やがてニューギニアに送られた。しかし生還した。激戦地だったのになぜかと後でS小父に聞いたら、たまたまある島の守備につかされたが、米軍はその小さな島を無視してまったく攻撃しなかった、それで生き延びられたとのことだった。
 私の母が死んだ年の夏、復員してきた。それを迎えにその親戚の家から山寺の駅まで歩いて行った。車内で見つけた叔父はやせ細っていた。いつも降りる次の楯山駅まで私もいっしょに乗り、そこから家まで歩いて帰った。
 迎えに行くときS小父の母親からきつく言われた、私の母の死のことは絶対に言うな、驚かせるなと。やはり汽車のなかで聞かれた、「みんな元気か」、私は答えた、変わりはない。
 次の日、S小父から言われた、「お母ちゃん、死んだんだってな」。もう聞いたのかと思い、「うん」と返事をした。「そうか、大変だったな」、それしか言わなかった。半月ぐらいして家に来たS小父は、何も知らなくて申し訳なかった、何でこんなになったのかと姉と慕っていた私の母の位牌の前で大声で泣いた。私もしばらくぶりで大きな声をあげて泣いた。だからS小父の泣くのは見ていた。それは何の不思議もない。しかしこうした不幸以外のことで泣くなどということがあるのがわからなかった。

 S小父はやがて復職した。そのうち恋人ができたらしい。ところが両親は猛反対した。理由はよくわからない。恋人をとるか、親をとるか、連日迫られた。私の父が来たのもそれとの関連らしい。それでそのうちの一夜にたまたま私が遭遇し、S小父の泣く声を聞くことになったようだ。
 結局S小父はあきらめさせられた。長男という立場からして、家を、親を捨てて好きな人といっしょに生きて行くわけにはいかなかったのであろう。もしも親の面倒を見なければならないという長男の役割を振り切って家を出てなどいったら、当時であれば、教員としての適格性まで教育界や父母の間で問題とされ、先生としてやっていけなかったろうからである。
 その後しばらく経ってS小父は別の人と結婚をした。そしてその後本当に幸せな生活を送った。だから結論としてはその方がよかったのだが、やはりその時は辛かっただろうと思う。

 この二つの話は何もめずらしいことではない。当時はどこにでもころがっている話だった。家をまもるために心を犠牲にするのは当たり前のことだった。次に記す例は、戦時中女性がどのように生きたかを記録しておこうと友人たちといっしょに農漁村を取材して歩いた家内から聞いた話を、私なりにまとめたものである。

 宮城県北のある農家の話である。太平洋戦争で三人兄弟全員が戦死した。残された長男の嫁のA子さんは、男手のなくなった農業と家をまもるために、幼い子どもと年老いた両親をかかえながら働きに働いた。そこに突然、死んだと思っていた三男のBさんが帰ってきた。みんな驚きかつ喜んだ。安心したA子さんは実家に帰ろうとした。BさんはBさんでかねて言い交わしていた女性と結婚して自立しようとした。しかし周囲はそれを許さなかった。血のつながった幼な児とA子さんを実家に戻すわけにはいかないし、男手のBさんがいないと農業の継続は難しいからである。それでBさんとA子さんを結婚させようとした。二人はむりやり納得させられた。いよいよ結婚式の日になった。しかし時間がきてもBさんは二階から降りて来ない。迎えにいくと濁酒を飲んでべろべろに酔っ払って泣いていた。諦めきれなかったのだ。これでは式は中止かとみんなが心配していると、少し経ってから彼はしゃんとして二階から降りてきた。そしてA子さんの前に正座して言った。
 「これまで長いことご苦労をおかけしました。これからはしっかりと家をまもっていきます。よろしくお願いします」
 それを聞いたA子さん、双方の両親、親類縁者、知人、みんな声をあげて泣いた。

 「家を継ぐ」というのはそういうものだった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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