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新農基法と農業の世紀末的様相



               世紀末の東北農業をめぐる動き(9)

               ☆新農基法と農業の世紀末的様相

 20世紀末、食と農に関するさまざまな不安が国民のなかに広がってきた。こんなに農業・農村が衰退していいのだろうか、これ以上輸入を進めて自給率を下げて21世紀を生きていくことができるのか、飢餓寸前にある途上国の人たちに供給すべき食糧をカネにあかせて買い占めて飽食の時代を謳歌していいのか、輸入農産物に依存して食の安全、健康が、さらには環境がまもれるのだろうかと。そして、生産者はもちろんのこと消費者の間にも何とかしなければという声が広がり、食糧、環境、資源問題を解決するために農業を衰退から発展に転換させ、食糧自給率を向上させていこうという声が高まってきた。また農林行政の担当者もあまりの農業衰退に危機感をもたざるを得なくなってきた。
 しかし、もう一方で財界や大手メディアは農産物の輸入を完全に自由化して農産物価格をさらに低め、それに対応できる企業的精神をもつ資本が農業の生産、流通、加工に自由に進出できるように規制をもっと緩和せよとさらに強く要求していた。
 こうした財界の要求と国民の声との妥協として生まれたのが新農基法であった。だから一方で食糧自給率の向上をいい、他方ではそれと矛盾する次のような問題点をもつものとなった。
 まず、農産物の輸入を前提としていることである。自給率向上をいってはいるが、WTO協定をまもることを前提とし、協定を変えようと言う姿勢が条文に見られないのである。そのころWTO協定の再交渉が行われていたが、本来からいえばわが国は、21世紀に予測される食糧問題、資源・環境問題の解決に資するような新たな貿易ルールの策定をその場で要求すべきであり、また無制限の農産物輸入自由化の要求は拒否すべきである。ところが新農基法にはそうした姿勢がない。そして輸入と備蓄を適切に組み合わせて食料の安定供給を図るとしている。もちろん国内の生産の増大を図ることを基本とするとは言っている。しかし無制限の輸入攻勢のもとで国内生産の増大、自給率向上などできるだろうか。
 しかも農産物価格は市場原理にゆだねることを前提としている。市場評価を適切に反映した価格形成ということで価格政策を後退させようとする。
 もちろん、価格政策がなくとも所得保障等の経営安定対策でもって農業経営が維持、発展できるのであればそれでもかまわない。新農基法も経営安定対策をとるとはいっている。しかしいまだに十分な対策はとられていない。とくに、単なる経営対策で、価格等による生産刺激なしで、不足している農産物の増産が、自給率の向上ができるのかも問題となる。
 これではたして新農基法の言う消費者重視の食料政策といえるのだろうか。そしてその柱としている食の安全性と健康な食生活の確保などができるだろうか。
 さらに大きな問題は、これまで日本農政の柱としてきた家族経営の育成という政策を放棄したことである。農政史上初めての農民層分解政策をとった農基法農政のもとでさえ、自立経営という家族経営を育成するとしていた。ところが今回はそれが消えている。それどころか株式会社による農業経営も認めるとした。もちろん新農基法はそれを条文でもって直接的に認めているわけではない。効率的・安定的経営が農業生産の相当部分を担う農業構造を確立するとし、その育成すべき重要な経営形態の一つとして農業生産法人をあげているだけである。しかし、その法人化の推進の名の下に、限定条件付きではあるが株式会社の農業参入を認めた。これは、最終的には大資本の、多国籍企業の農業進出、農地所有に道を開こうとするものだった。01年に農地法等の法律を改正して株式会社も農業生産法人として認めることにし、株式会社が農業を経営できるようにしたなどはその手始めだった。

 90年代の半ばに山形県庄内のある地域での講演会で私は次のように言ったことがある。
 「深刻な担い手不足のなかでこのままいけば耕作放棄が進むことになるだろう。こうした耕作放棄地はゴミ捨て場にちょうどいい。高速道路はもうすぐ貫通するし、基盤整備で農道も整備されているので、東京や仙台から夜中に来てこっそり捨てることができる。人も通らないので発見もされにくい。そのうちそこにカラスやハエがたかるようになる。やがて庄内は『カラスとハエの舞い飛ぶ庄内』として有名になるだろう。
 私が大商事会社の社長なら、担い手のいなくなったこうした庄内の土地を借り集め、買い集め、そして直営する。
 4兆円産業と言われる米の生産から流通までもうけの対象にしたいからだ。前からやりたかったのだが、これまではそれができなかった。しかし食管法がなくなったので流通への関与はできるようになった。すでに消費者への末端流通は系列下のスーパー等を通じておさえている。卸も系列下に入れつつある。残りは集荷だが、これにもそのうち乗りこんでくるだろう。中国地方のある県では農機具メーカーが系列下の農機具店に米を買い集めさせているそうだが、各地にある系列下の企業に買い集めさせてもいい。農協を経営破綻させて自分の系列下に入れて集めさせることを考えてもいい(そのために農協攻撃をさらに強める)。こうして、産地から消費地までの流通を把握する。 
 あとは生産だけだ。担い手がいない農地を借りたり買ったりして、有限会社や株式会社などをつくって経営させる。そうはいっても農業は技術面でも経営面でも難しいのでやれないのではないかといわれるかもしれない。しかし経営は優秀な農業改良普及員を雇ってやらせればいい。あと10年か20年たてば農業が衰退するので普及員の仕事がなくなってくる、やりがいのある仕事をやらせられなくなる、それならそういうところに喜んで勤めることになるだろう。オペレーターや肥培管理は農協の営農指導員を雇ってやらせればいい。いまでさえ宝石や呉服を売らされてやりがいのない仕事をさせられ、中途退職者が大量にでている状況なのだから、若干高い給料を出せば喜んで雇われるだろう。もっと簡単なのは経営の苦しい農業生産法人などを吸収合併もしくは下請け会社にして農作業をさせればいい。こうして千㌶、2千㌶と経営する。そして生産から流通まで一貫して把握し、庄内の米とアメリカの米等とうまくまぜ合わせて大商社のブランドで売って利益を得る。こういうようになるだろう。
 ただし、商社が進出するのは、何百㌶、何千㌶と連担して経営でき、高能率生産ができる優良な水田をもつ平坦地、利潤の生まれる可能性のある地域だけである。山間傾斜地や零細区画のわずかの耕地が分散している地域の土地などは、観光やリゾート、工場や宅地に利用できるところ以外、商社は相手にしない。
 かくして庄内は、平坦部がアメリカの巨大穀物商社の下請け会社『〇〇商事』の支配下におかれ、山間部の耕地は荒れ果て、ゴミ捨て場になる。ただし、米がもうからなくなれば、平坦部も荒れ果てることになる。庄内は大都市近郊でもなし、住宅団地にするわけにもいかず、工場団地にするわけにもいかないからだ。せめて広大なゴルフ場がつくられるだけだろう」。

 かつてこんなことが言われた。
 農村には人が多すぎる、しかも生産力は低い、その結果経営面積は狭くなる、それが農村に貧困をもたらしていると。
 それを解決するためとして、農村の労働力を都市・商工業に流出させる(労働力流動化)、農業の機械化省力化を進める(農業生産力の高度化)、そして農地を一部の農家に集積つまり規模拡大させる(農地流動化)、こういういわゆる農業基本法農政が1960年から始まった。
 それから2000年までの40年間、農村から人はどんどん出て行った。機械化省力化は進んだ。農地流動化も進み始めた。その結果規模拡大が進み、稲作経営を例にとれば5㌶とか10㌶とかのかつては考えられなかった経営が見られるようになった。この点だけからすると農村はまさに農基法農政の狙い通りとなった。しかし、それで農村が豊かになったとはいえなかった。

 もちろんそうしたなかでもがんばったところは多々ある。
 宮城県米山町(現・登米市)などはその一例だ。ここは、1970年代に集落単位に生産組織を育成して機械の過剰投資の解決と転作田の集団的利用に取り組み、また野菜や畜産の導入等で経営の複合化を図り、担い手の育成確保を進めたことで全国的に有名になったところである。
 この米山でも高齢化が進んできた。生産組織に作業委託して日常管理に従事してきた中高年層のリタイアの時期が近づいてきたのである。こうした農家は自分の耕地をこれからどうしようと考えているのだろうか。もしも誰かに預かってもらうとしたら組織に参加している担い手層ということになるが、彼らはどう考えているのか。組織の担い手の世代交代も進んでいないし、これからどうしたらいいのか。
 こうした問題にぶつかった町役場は、1995年から5年くらいの期間をかけて具体的な方策をみつけることにした。そしてそれをまず集落座談会で検討してもらった。ほとんどの集落で問題になったことは担い手をどうするのかだった。しかし、この座談会には農家の3割程度しか集まらない。農業に熱心だと言われてきたこの米山でさえこんな状況になってきていたのである。これでは全農家の意向に基づいて今後の方向を考えるなどということはできない。そこで座談会で出た意見をもとに全農家に対するアンケート調査を役場職員が面談方式で実施することにした。
 1996年に実施したこの調査で、今後規模縮小あるいは離農するという戸数が52%をしめるようになっていることがわかった。かつては考えられなかった数字だ。この農地をどうするかが大きな課題となる。
 一方、農業志向農家から一致して出たのは分散耕地問題だった。ある集落の共同経営の例でいうと、もしも耕地を団地化すれば、現在保有している労働力と機械で1.5倍の規模に拡大でき、リタイア農家の農地をまだまだ預かることができるが、現状ではこれ以上預かるのは無理という状況になっているという。この矛盾を解決しない限り、規模縮小・離農者の農地を預かるものが現れず、農地は荒れてしまうことになる。
 そこで必要となるのが分散耕地の団地化である。しかし、これから預けたいとする農家の土地をその近くの農業志向農家に預けるというだけでは根本的な解決にはならない。農業志向農家の農地を含む全農地の利用方式を抜本的に変革し、つまり利用と所有を分離し、農場制農業のようにしないかぎり問題は解決しない。
 そこで考えたのが、町の農業公社に農地の利用権を一括して白紙委任してもらい、それを農業者ごとに、とくに担い手のほとんどが所属する23の生産組織を中心に再配分し、作業の効率化を図って担い手の規模拡大や経営の複合化を推進し、若者が喜んで就農できるようにするということだった。
 そして3年間にわたって関係機関や農家と話し合ってきた。こうしたなかで徐々に農地の所有権と利用権の分離についての理解が進み、総論的には賛成というところまできた。そしてまずある地区(地権者111戸、面積80㌶)で白紙委任のための話し合いに入り、その事例を他地区に広げていき、町の3000㌶すべてについて白紙委任がもらえるまで努力しようということになった。もちろんこれは容易ではないだろう。しかし、こうした米山のような取り組み、前に述べた「新しい人と土地、機械・施設の結合」(註)のための取り組みがいま必要になっているのではないだろうか。そして資本の進出や耕作放棄を阻止していく必要があろう。
 そう言いながらも疑問になったものだった、はたしていつまでこんなことを言えるのだろうかと。
 米山などは土地を預かってくれる人がまだいる。それは田んぼだからであり、しかも基盤整備がなされている平坦部だからだ。もしも米価が下がり、生産費を償わないようになれば(食管の廃止と米の部分自由化でそうなる可能性は十分にあるのだが)、担い手はまったくいなくなり、生産組織は崩壊し、いくら今述べたように公的機関が入って農地流動化を合理的に推進しようとしてもそれは不可能となるだろう。そして耕作放棄が進むことになろう。ましてや山間部などはそうなるだろう。
 桑園の荒廃はすでにそれを予測させるものだった。

 90年代の初めだったと思う、山形県庄内の水田10㌶以上経営の農業専従青年数人と雑談したときのことである。彼らは口々にこういった。
 「農業を職業として選択したのはまちがっていたのではないか」
 「職安にいこうかどうか迷っている」
 「子どもに農業をやらないかといえなくなった」。
 十何年も続く米価の低迷でにっちもさっちもいかなくなっており、将来米価が上昇するという展望もないからである。庄内の平場でさえそうなのだから、そして米でさえそうなのだから、他の地域は、他の作物は推して知るべしである。とりわけ中山間地帯ではもうどうしようもなくなっていた。
 こうした状況はそれ以後も一切解決されず、それどころか農産物の輸入が増加するなどでますます悪化するだけだった。そして若者はさらに激しく流出し、過疎化が進行するだけだった。
 農業の世紀末的様相はとどまるところを知らなかった。

(註) 12年2月6日掲載・本稿第三部「☆新たな経営継承への意識変革の必要性」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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