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小かごに摘んだはまぼろしか


               世紀末の東北農業をめぐる動き(10)

             ☆小かごに摘んだはまぼろしか―耕作放棄の始まり―

 90年ころ宮城県南の丸森町の山間部を歩いたとき、枝が伸び放題に伸びている桑の畑をあちこちで見かけた。桑畑というより桑林といってよい。養蚕をやめた農家が桑畑を放置しているのである。何とももったいないと言ったら、案内してくれた県庁の職員の方が春になるとわらびが生えてくるのでそれで利用したらどうかなどと笑っていたが、何年かするうち伸びた桑と雑草でわらびすら生えなくなってくるので、結局はどうしようもなくなるという。
 こうした桑園の耕作放棄が養蚕の盛んだった福島の丘陵地帯でも見られるようになっていた。もったいない、何とかこの桑を利用できないか。福島県のある町では桑の実でジャムをつくろうとしていた。つまり桑を蚕ではなく人間の食糧として利用しようというのである。そのときふと思い出した。私の子どものころ、くわご(桑の実を私たちはこう呼んでいた)をたくさんとってきたとき、それをすりつぶしてジャムをつくったらおいしいのではないかとすり鉢ですって見たことがあった。結果はあまりおいしいものではなかった。砂糖も入れないのだから甘みは少ないし、どうしても実の柄が入ってしまうので食べにくかったからである。しかし、やり方によってはうまくいくかもしれない。そう思って期待したのだが、その後話題になっていないところを見ると、あまりうまくいかなかったのかもしれない。
 こんな状況を見ながら網走に転勤したのだが、翌年(00年)の夏休み、福島県安達郡(現・二本松市)のある農協支所を訪ねたときのことである。役場の人がこう言った。20年前はこの管内の農家約500戸のほとんどが養蚕をいとなんでいた、しかしいまは1戸もいなくなった、養蚕は全滅だと。驚いた。養蚕で名を馳せたこの村がどうしてこんなことになってしまったのだろうか。しかもこうした状況はこの地区ばかりではない、阿武隈丘陵を始めとする養蚕地帯のほとんどがそうなっているという。
 その理由として、若者が養蚕を嫌うから、毛虫に近い蚕に触るのをいやがるからだと説明する人もいた。その結果養蚕は年寄り仕事になり、その高齢化が進んで養蚕農家数、収繭量とも減少し、耕作放棄までなってしまったのだというのである。そうした側面がまったくないわけではないだろう。しかし、若者の全部が全部嫌っているなどということはあり得ない。実際に積極的に養蚕に取り組み、機械化・省力化を進め、規模拡大を進めている若者もいた。したがって、畜産のように、戸数は減ったが一戸平均飼育数と生産総量は拡大するというようになってもしかるべきだった。しかも繭の国内需要はある。わが国は世界の四分の一の絹を消費する絹消費国なのだ。
 ところがそうはいかなかった。養蚕をやりたいと考えていた若者もやろうとしなくなり、それどころかやっていた若者たちもやめるようになってきた。当然である。80年代からの一層の円高ドル安の進展と本格的な輪入展開で中国など海外から安い生糸や絹製品が入ってきたので、繭の価格が年々低下し、養蚕では他産業並みの労働報酬が得られなくなったからである。もちろんそれに対応すべくこれまで養蚕、製糸、紡績すべての分野で技術革新を進めてきた。しかし輸出国の低賃金にはかなわなかった。それでも、労働市場から排除されている高齢者や帰人の労賃水準程度なら得られるので、そうした層により何とか維持されてきた。しかし、高齢化の進展のなかで条件の悪いところから桑園の耕作放棄が進むようになってきた。
 90年代に入ると、価格低迷はさらに激しくなり、さらに95年からはWTO合意で繭と生糸の輸入制限が撤廃、関税化され、国産生糸価格は輸入品に価格の主導権を奪われ、かつて阿武隈丘陵に数多くあった製糸工場はほとんど壊滅し、繭価格は低落の一途をたどるだけだった。こんな先行き真っ暗な養蚕をやろうなどとする若者が出てこないのは当たり前だ。それどころか高齢者もやめるようになってきた。働けなくなってきたからだけでなく、収支引き合わなくなってきたからである。
 それが2000年にみた福島の養蚕の壊滅状況だったのである。

 02年ではなかったろうか、ある学生が耕作放棄を卒論のテーマにしたいと統計を調べ始めた。あるとき驚いて飛んできた。2000年センサスを見たら福島県の耕作放棄地面積が全国一だった、なぜなのかと。そこで言った、耕地面積がどれだけあるかを考えてみろ、耕地面積に対する放棄地の比率ではもっと下位になるはずだと。たしかにそれで見ると福島は6位だった。それにしても彼には意外だったようである。耕作放棄は中四国や中山間地帯の多い県で進み、東北はまだまだだと思っていたようなのだ。それも当然だろう。実際に福島以外はそんなに多くはない。それなのになぜ福島が突出するのか。やがて彼は気が付いた。福島には全国でもトップクラスの桑園があり、それは阿武隈丘陵等の中山間地帯に多く、その耕作放棄が多いからなのだと。そしてそれは後継者不足問題もあるが、それ以上に大きいのは外国からの絹の低価格輸入によるものだと。
 とはいっても、桑園は果樹園とか畑地とかに切り替えればいいはずである。しかしそれは容易ではない。既存の果樹産地、野菜産地でさえ輸入と産地間競争で苦しんでおり、今さら新植しても太刀打ちできない。山間の小区画不整形の傾斜地ではなおのことである。すでに農業に意欲をもつ若者もいなくなり担い手不足も進んでいる。かくしてかつてのように果樹に切り替えられることもなしに耕作放棄されることになったのである。

 もったいない、何とか桑園を残すことができないだろうか。養蚕でなくともよいからともかく桑を活用することができないだろうか。まさに有機栽培の模範といえる桑の葉の食用化で収入を得て桑を残そう、こんな取り組みもなされた。たとえばある地域では桑の葉でせんべいをつくろうとする取り組みがあった。それを聞いたとき思い出したことがあった。
 戦争まっただ中の1943年、食糧不足を補うためにと桑の葉でつくったせんべいがつくられた。私の生家の近くの麩屋さんも小麦不足で遊んでいる機械と人手を使ってそれをつくって売り出した。南部せんべいと同じ形に焼いてあったが、焼いたせいか焦げたように濃い茶色、まずくて食えたものではなかった。砂糖など調味料を入れるなどしたらあるいは何とか食えたかもしれないが、当時砂糖などあるわけはない。そもそも蚕の食べるものを人間が食べる、何となくいやだということもあったのだろう。ほとんど売れなかったようである。だからわずかの期間で姿を消してしまった。
 もちろん今ならきちんとした味付けで製造するだろうからおいしいかもしれない。ただ売れているのかどうかわからない。
 また最近では桑の葉が血圧や滋養強壮によいということで健康食品として販売されるようになっているとのことである。
 しかしいずれにせよこれだけでは膨大な桑園すべてを残すことなどできない。
 もう一方で、養蚕だけは残したい、外国に太刀打ちできるようにしたいとして、桑に代わる餌の開発、つまり低コスト化、省力化のための人工飼料の開発導入の努力もなされているようだが、これには賛成できない。せっかくの桑園がなくなってしまうからだ。

 学生に言ったことがある、「繭」という字を書いてみろと。マユは知ってはいた。しかし書けたものは少なかった。「養蚕」の読み方もしらないものもいた。蚕はもちろん桑をみたこともないというのがほとんどだった。まさに今桑と蚕は死語になりつつある。
   「山の畑で 桑の実を
    小かごに摘んだは まぼろしか」
 何とも悲しいことだが、この『赤とんぼ』の歌のように、桑の実摘みなどはまさに「まぼろし」になってしまった。子どもの頃見ていた山の畑、桑畑も「まぼろし」でしか見ることはできなくなってきた。
 桑の実を食べるどころか、桑がどんなものかもわからない人口がわが国のほとんどを占めることになってしまうのだろうか。経済大国と言われる日本が、千年以上続いてきた、そして日本資本主義を支えてきた伝統的な養蚕、産業としても科学技術面でも世界に誇る多くの蓄積があり、日本文化の主要な一つであった養蚕、製糸、紡績がなくなっていいのだろうか。絹の需要がまったくなくなったのであればこれもやむを得ないかもしれない。しかし日本は世界一の絹の消費国なのだ。なぜその国が外国から輸入して養蚕を潰さなければならないのだろうか。
 普通畑は2年も過ぎればここが畑だったなどとまったくわからなくなる。背の高い雑草、灌木で覆われた荒れ野原としか見えない。桑畑は放棄されても数年はわかる。しかし後何年かすれば桑の木は枯死し、雑木林に変わるだろう。桑畑の後の独特の生態系をもった雑木林として注目されるなどということになるのだろうか。

 「米と繭」、日本農業の二本柱だったこのうちの一つの繭は完全に壊滅し、米も減反政策以来衰退の傾向をたどっている。やがて米も繭のように輸入におきかえられ、何十年か後に小学校の教科書で
 「その昔日本で稲というものがつくられていました」
などと子どもたちに教えるようになるのだろうか。
 東北農業は一体どうなるのだろうか。
 こうした世紀末的な閉塞的な様相を東北農業が示しつつあった1999年3月、私は東北大学を定年になった。その最終講義『東北農業とともに歩んで』の最後のところで次のようなことを述べた。

 「これまで述べたように、東北の農業・農村は大きく変わってきた。
 かつてのような貧困、苦役的労働はなくなった。家と村の雰囲気も大きく変わった。これは私の望むところだった。
 しかし、私の願いであった農業だけで他産業並みの一人当たり所得を得ることはいまだに容易ではない。そして若者は農業、農村から流出し、条件不利地域では過疎化が進み、平坦稲作地帯でも耕作放棄が進んでいる。さらには資本が進出するまでになっている。かつては考えられなかった、悲しいとしか言いようのない事態が進行している。
 私の望みはかなったけれども、逆に私の望みが否定されるという結果になっている。こうした事態をどう解決し、農業を発展させていくのか。まだまだ考えなければならないことがある、こんなあせりを感じている今日この頃である」

 こんな思いで退職したのであるが、その直後の99年4月、第二の職場として東京農大生物産業学部に赴任することになり、キャンパスのある網走に引っ越した。いかに交通条件がよくなったといってもやはり網走は遠い。それで直接東北の農業、農家に触れることは本当に少なくなってしまった。そして東北農業から離れ、北海道しかも道東の農業というまったく質の異なる農業と接することとなった。

 いうまでもなく、北海道民は東北からはもちろん全国各地から集まった人々により最初は構成されたのだが、明治の入植以来150年もたつなかで北海道独特の言葉が形成され、道産子(どさんこ)と言われる道民の独特の気質も形成されてきた。それに気がつくなかで、知らず知らずのうちにそれと東北人を比較するようになっていた。もちろん東北と言っても広い。さらに県によって、同じ県でも地域によって人間の気質も違う。東北各地を何回も歩く中でそれを痛感していた。そしてそれをいつか自分なりで整理してみたいと考えていた。ちょうどいい機会である、それを少しやってみよう、そんなことで思いついたときにさまざまメモをしておいた。そしてそれをこれまでもときどき述べてきたが、次の章でそれに付け加えて述べてみようと思う。
 もちろんこれは学問的な考察ではなく、私の独断と偏見にもとづく観察でしかない。しかし、農業、農村調査等で感じたことなので、東北農業のこれまでとこれからを考える上での一つの資料になるかもしれないし、またそのなかには過疎化や都市化等等で消え去った人間の地域性もあるかもしれないのでそれを書き残しておくのも意味があるかもしれない。そんな思いで述べてみることにした。
 その後に、第四部で、7年経って北海道から仙台に戻ったとき、この間の東北農業の変化をどう見たか、そして今何を考えているかを述べてみることにしたい。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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