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地域対立―会津・薩長・伊達―


               東北人の気質と地域性(1)

              ☆地域対立―会津・薩長・伊達―

 初対面の人と会ったとき、あるいは話題がないとき、よくするのは時候の話である。今日は暑いとか異常気象ではないかとかでそれなりの時間がとれる。次に出すのが出身地や現住地の話題である。たとえば、どこの生まれですか、ああ、そこなら行ったことがある、あそこの景色はきれいだ、あの食べ物はおいしい、それでもあれは食べられなかった、これにはまいってしまった等々、誉め言葉から悪口まで、おたがいに言い合う。日本の多様な地勢と気象から地域の差異がかなりあるので、話題にすることは豊富である。これで相当時間がとれる。こうやって気分がほぐれたら、仕事の付きあいの場合は本題に入り、とくにそうしたことがなければ趣味とか仕事は何しているかとのさまざまな話題に飛躍していく。
 ところがそんなことができない国がある。民族や宗教が地域のなかであるいは地域にまたがって複雑に入り混じっている国がそうである。そもそも複雑なところに、近代になって欧米諸国がここからここまではおれの土地だと勝手に境界をつくって植民地化し、さらには「植民地は分割して統治せよ」と地域間、民族間で差別待遇をして分裂させたために、地域関係、民族関係、宗教関係などがさらに複雑にさせられている国がアジア・アフリカの途上国に多い。ここでこんな出身地のことを話題にしたらかえって険悪な雰囲気になってしまう危険性がある。この点では私どもは幸せな国に生まれたものだと思う。
 もちろん、わが国にも地域対立がないわけではない。薩長に対する会津などはその典型例だ。

 青森県三沢市の調査に行く途中の列車の中で山口県出身のKS君に注意した。これからは自分の出身地のことについてしゃべるなよと。ここには旧会津藩士の子孫がいて彼らは今でも薩長を恨んでおり、山口出身の君だと調査協力が得られなくなる危険性があるからだ、ただし小比類巻、別部、種市とかの変わった苗字の人には出身地を言ってもかまわない、この人たちはそもそも南部土着の人だから不親切にされる恐れはないと。
 彼が不思議そうな顔をするので、さらに説明を続ける。戊申の戦役で多くの会津藩士やその家族が薩長軍に殺傷された。また、藩は23万石から3万石に減封された上に、当時の農業技術水準では不毛の地であった下北半島に移封させられ、藩士は食うや食わずの厳しい生活を強いられた。そのときの薩長に対する恨みがその子孫に受け継がれているのだと。
 すると彼は言う、同じ山口でも自分は長州ではない、防州つまり周防出身なので関係ないと。しかし、明治以前なら別として自分の育った地域より遠い地域の昔の呼び名などは詳しくはわからなくなっているので、山口と言えば長州だと思っている人が多く、やはり怨みの対象となるのだと私は説明する。
 だけど150年も前のことであり、自分がまったく知らないことでもある、それなのになぜ恨まれなければならないのかと彼はまた言う。そこで私は弁解する、いじめたものは忘れてもいじめられたものは忘れられないのと同じなのだと。
 それにしてもこんなバカな話がと実は私も思う。会津若松の市長が山口県の市町村の首長と会っても挨拶しないとかいう新聞記事を見ると笑うより他ない。また封建制のくびきから解放されることを願って薩長軍の道案内をした会津の農民の子孫が、白虎隊の悲劇とか言って戊辰戦争のことを誇らしげに語り、薩長を目の敵にするのもわからない(註)。
 この会津・薩長のような対立関係は、やはり当時戦った秋田と南部にもある。そして薩長側についた秋田藩は東北列藩同盟を裏切った、いや南部こそ賊軍だなどと言い合う人もいる。しかし会津や下北の一部の人のような感情はなく、笑いながらである。
 こうした旧藩にかかわる地域対立はよく聞く話である。幕藩体制のもとで長いこと藩ごとに異国の関係におかれていたことの名残からくるのかもしれないが、こうした地域的対立がなぜいまだに残っているのかが不思議でならない。いつかは冗談話、話題の種子に終わるようにしなければならない。そのためには昔の対立を思い起こさせるような、幕藩体制を賛美するようなことがあってはならない。
 その点で気になるのは宮城県での「伊達」の取り扱いである。

 宮城県は伊達正宗の名前を使いたがる。
 たとえばNHKテレビの夕方のローカルニュース番組の名前は「てれまさむね」である。北海道では「ほくほくテレビ」と称していた。「ほくほく」は北海道、北と言う地域を表すと同時に、おいしい、あたたかい、うれしいとかを連想させる。いい名前をつけたものである。しかし宮城ではなぜ正宗個人の名前を使うのか。
 NHKばかりではない。県や市町村も「伊達な県づくり」とか「伊達なむらづくり」とか言う。
 この伊達は福島県にある地名であって宮城県にはない。したがってここで使っている伊達は旧藩主の苗字である。伊達藩出身者が伊達氏を、正宗を尊敬してその言葉を使うのはかまわない。しかし仙台市民の半分以上は他県出身者である。このなかには伊達氏に滅ぼされたり、争ったりした地域の人たちの子孫がいる。たとえば私の出身地の山形は伊達政宗と争った間柄にある。また、宮城県北には伊達氏に滅ぼされた大崎氏、葛西氏の子孫がいる。県北に大崎という地名があることからわかるように彼らは土着人であり、伊達氏は宮城にとってはそもそもよそものである。その伊達氏に侵略された人たちの子孫はどう考えるだろうか。もしも藩主の苗字が地名といっしょなら、たとえば南部とか津軽のようなものならばまだがまんできるだろうが、なぜ支配者の、征服者の名前を使うのか。
 さらにもう一つ問題となるのは、宮城県=伊達藩ではないことだ。一関や大船渡などの岩手県南もかつての伊達藩である。もしも旧伊達藩に住む人々が使ってもいいとすれば、岩手県人の彼らも伊達を使う権利がある。それを宮城県が自分たちだけが伊達藩であるかのごとくその名を独占してしまうのはいかがなものか。
 そうはいっても、伊達といえば宮城、仙台ということで全国的に有名だからそれを使ってもいいではないかと言われるかもしれない。しかし、いかに藩主が有名であってもその名前を宮城のように使っている都府県は聞いたことがない。

 鹿児島で開かれた学会に行ったときのことである。不要になった書類や衣類を小包で家に送ろうと郵便局に行った。局員さんが、その宛先を見て「おっ、オウシュウ仙台ですね」と言う。一瞬何を言っているのかわからなかった。そうか、「奥州仙台」と言おうとしているのか、考えてみれば鹿児島にもセンダイ(川内)がある、それと区別するためだとわかって、私は笑いながらそうだと答えた。それにしてもなぜ宮城県仙台ではなくて、奥州仙台というのか、さすがは薩摩、明治以前の古い地名を使う習慣がまだ残っているのだろうなどと思ったら、ついつい笑ってしまったのである。
 鹿児島県では何かというと薩摩という言葉を使う。しかし、宮城県での伊達のような形で、たとえば島津な町づくりなどというような形で島津という名前を使うとは聞いたことがない。薩摩の領主はマルに十の字の島津氏だったということが全国的によく知られているにもかかわらずである。
 そういうと、男伊達とか伊達ものとかいう言葉からわかるように伊達は一般的な言葉になっている、だからその言葉を使っても問題ないではないかと言われるかもしれない。しかし林業経済研究者のMIさんはそうした通称「伊達」はそもそも男を意味する、県が「伊達な県づくり」などというのは女性を無視することにつながると皮肉ったものだった。

 そもそもわが国には支配者の名前を地名にするという慣習はない。地名が支配者の苗字になっていることは多々あるが、その逆はほとんどないのである。ところが外国にはそうした例がかなりある。そのために支配者の評価が変わると地名が変わるということになる。
 実は仙台にそうした例があった。仙台駅の近くに「南町通り」という地名がある。ここが戦時中に「多門通り」と改名された。1933(昭和8)年、満州事変から帰ってきた陸軍第二師団が仙台駅からこの南町通りを凱旋行進したことを記念し、また師団長の多門中将を称えるために、南町通りを多門通りと変えたいと沿線住民が希望して改名したのだという。いうまでもなく戦後その名前は使われなくなり、もとの名前の南町通りに戻った。
 このように仙台人はちょっと変わっていて、外国と同じように支配者の名前を地名などさまざまなところに使いたがる(権力に媚びたがる、権威を笠に着たがる?)性向があるらしい。それが伊達という名前を使いたがらせるのだろうか。

 もちろん、かつての藩主の子孫を知事にしたり、市長にしたりするようなところよりは宮城の方がいいとは思う。それにしても、夕方NHKの「てれまさむね」の名前を見るたびに、伊達と対立していた地域の生まれである私などは不愉快な気分を味わう。市内在住の他県出身者の友人何人かに聞いてみると、やはりいやな感じだという。でもまあ、いやな思いをする程度である。そしてそれを問題にすることで特別私と伊達藩出身者との間でけんかが起きるわけではないし、そもそも家内は伊達藩出身である。そしてみんなともかくお互いに地域のことをけなしたり、誉めたりして話題にすることができる。
 やはり私たちは幸せな国に生まれたものだと思う。

(註)
 会津出身で北大の農経研究者のOTさんによると、官軍の略奪暴行に加えての死者への過酷無惨な取扱いが一般庶民まで含めて会津人を長州憎しと凝り固まらせたとのことで、それなりの理由があるらしいのだが、詳しくは省略する。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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