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北の人は無口?―津軽・南部・秋田―



               東北人の気質と地域性(3)

             ☆北の人は無口?―津軽・南部・秋田―

 石川さゆりの『津軽海峡冬景色』、森昌子の『悲しみ本線日本海』等々の歌からすると、日本海側の人間はみんな悲しく暗いと思えてしまう。しかし実際にはそうではない。
 たとえば津軽の人は明るい。「北へ帰る人の群れは 誰も無口で」どころか、よく飲み、よくしゃべり、よく笑う。吉幾三や伊奈かっ平のおしゃべりを思い出してもらえればよい。若干自虐的なところはあるが、ともかく楽しい。そして徹底して接待してくれる。ただ問題は、飲んだときに言葉がわからなくなることだ。こちらの話はわかってもらえるが、津軽の人の言葉がわからなくなる。普通のときは他地域の人にわかってもらうように言葉に気をつけているが、飲むとそれを忘れてしまい、津軽の言葉で親しく話しかけるからである。

 1978年の夏、農地賃貸借の実態調査研究のために津軽のK市のA集落を調査しようということになり、市、農業委員会、県の協力を得て、北海道から九州までの10名の研究者が3泊4日の調査に入ったときのことである。
 調査が終わって夕方旅館に入るとその日の農家調査の結果や印象を報告する会をもつが、その部屋に入るなりみんながいう。
 「いやいや、農家の熱気にあてられてしまった」
 「津軽三味線を聞いているような感じだった」
 そして「津軽の農政対応は大胆かつ巧妙」で、「個々の農家の対応もドラスティック」で驚いたともいう。たしかにそうなのである。ここには米作日本一になった農家があり、刻苦勉励で零細小作農からはいあがった大農家あり、リンゴ園の造成を大きく進めているものあり、集落ぐるみの生産の組織化を進めてもおり、第二次減反にはニンニク+ダイコンで対応し、さらに集落からかなり離れている南八甲田の農地開発事業で造成した農地の配分を希望して何戸か共同で高冷地野菜作りを始めたり等々、みんな元気なのである。
 夜は毎晩のように各種の飲み会である。農家や職員の方と大きな声でしゃべりあう。また調査参加者は初めて目の前で津軽三味線を聞き、感激する。このまま気分良く飲んでいると二日酔いになるかなと心配になると、午前中はアップルロードや岩木山とか自慢のところを案内する、調査は午後にすることにしたというので、安心して飲む。飲むと本音が聞けるし、調査では聞けなかったことが聞けるので調査開始が少し遅くなってもこの方がいい。津軽は暗いなどとはとんでもない話である。
 帰りぎわ、市役所に御礼の挨拶に行った。ところが昨日まであれほど親しく飲んだ農業委員会の職員の方がこちらの目を見ない。何となくふきげんそうな感じもする。何かこちらが悪いことをしたかなと思ったら、後で県の人から聞いてわかった。まだまだ対応が不十分だったのではないかと恐縮しているのだと。それで思い出した。太宰治の書いた『津軽』に、接待するとき津軽の人々はまだ足りないんじゃないか、もっとしなければならないのではないかと気にすると書いてあった。ともかく津軽の人の客のもてなし方は驚くほどである。

 このように津軽の人々はきわめて陽気なのだが、津軽じょっぱりという言葉があるように頑固で気性も激しい。それがとくに現れるのは選挙で、「津軽選挙」として有名である。
 この津軽選挙にまきこまれたら大変だという話は聞いていたが、それに近いことで調査が難渋したことがある。ただし津軽ではなく、十和田湖を隔てて津軽に接している南部の新郷村の話であるが。
 1966年、酪農の調査に行ったときのことである。予備調査で村役場に行っていろいろ概況をおうかがいし、さらに専門農協の酪農協に行って調査地の選定や調査農家への依頼などいろいろお願いしたところ、快く引き受けてくれ、われわれが集落に調査に行くときの車も出してくれる、農家に何日の何時に行くからと連絡しておいてもくれるということになった。翌朝、総合農協にも挨拶に行き、いろいろお話もうかがい、協力もお願いした。このように予備調査はうまく行ったのだが、本調査に行って驚いた。予備調査の時にあんなににこやかに我々を迎えてくれた酪農協の職員が今回は非常に冷たいのである。それでも約束通り車は出し、集落まで連れて行ってくれた。ただし農家には案内してくれない。そこで探しながら農家に行ってみると、みんな留守である。結局午前中は調査にならず、お昼になって農作業から帰ってきた農家の方に、酪農協から連絡があったはずだけれども調査に来たというと、何か調査に来るらしいという話は聞いていたが、今日だとは知らなかったという。連絡がきちんとなされていなかったのである。今さら酪農協に文句を言ってもしようがないので、ともかく集落の代表者の方にお願いして予定していた農家すべてを調査させてもらった。ということで三日間の調査を何とか終わらしたのだが、なぜこんなことになったのか狐につままれた感じであった。
 後で県や農協県連の人に聞いて初めてわかった。我々が調査に行く前に村長選挙があり、村が真っ二つに割れたすさまじい戦いで、まさに津軽選挙だったというのである。酪農協はそのとき当選した村長派であり、総合農協は落選した方を推して戦ったという。そもそも両農協は仲が悪かったのに、選挙がからんだものだから、完全な敵対関係になったらしい。ところが我々は予備調査で酪農協だけでなく総合農協にも行った。それで酪農協は頭にきたらしい。恨み骨髄の敵のところに挨拶に行っていろいろ話を聞くとは何事かと。その結果がこれだったのである。

 ところで、この調査は新郷村の旧戸来(へらい)村の一集落を対象にしたものだが、ここで面白い話を聞いた。村外れにキリストの墓があるというのである。キリストは中東の国で十字架にかけられて死んだのではないかと言うと、あれはキリストの弟で、キリスト本人は日本に逃げてきたのだそうである。
 そして言う。そもそもキリストは若い頃日本のここに来て悟り、母国に帰ってそれを布教したのだ。布教に入る前の30歳頃までキリストが何をしていたのかわからないのはそのせいである。弾圧を受けて日本に秘かに逃げてきてから家庭をもち、子どもも持ったが、そのときの名残りの一つがこの地域に残る盆踊りの歌だ。「ニャニャドヤラ」とかの日本語では意味がまったくわからない歌詞なのだが、これは古代ヘブライ語できちんと意訳できる。戸来(へらい)という言葉もヘブライがなまったものだ。子どもが産まれるとその額に墨で十を書くという風習、旧家の家紋にユダヤの紋章に似ているものがある等々、証拠は多々あると。
 残念ながら時間がなくてその墓には行けなかったが、話を聞いたときは感心してしまった。源義経の話を思い出したからである。義経は平泉で死なないで逃げのびた、実際に東北のあちこちにその逃げたときの話が残っている、そして北海道を経由して蒙古に渡りジンギスカンとなった、ジンギスカンは源義経(げんぎけい)が中国風になまったものだ、彼は日本を恨んでおり、それを晴らすために中国全土を制覇した後に日本を制覇しようとした、その思いが子孫に伝えられて元寇となったのだという話である。よく考えたものだと思う。これとこの戸来の話は同じである。世界をまたにかけた話(ホラ話?)をつくりだす東北人の壮大な想像力、これには感心する。

 もう南部の話に移っているが、南部は青森の太平洋側から岩手県中北部まであってかなり広い。また、三八下北地域には明治初期に移住した会津人、戦後の緊急開拓や機械開墾で入植した山形などの他県人がいる。だから一概にはいえないが、純粋南部人だけについていえば、津軽よりは気性はおだやかであり、津軽ほどは明るくないといえるかもしれない。
 また北上山地の山のなかに入れば入るほど口数が少なくなる。おとなしいといえばそれだけなのかもしれないが、暗い閉鎖的な感じがする。かつて大牟羅良という人が岩手の農民を『もの言わぬ農民』としてその著書で紹介したが、まさにそんな気がする。しかしそれは外部の人間に対して、地主等の権力に対してだけだったのではなかろうか。山のなかで外部の人間とつきあう機会が少なかったこと、また山林地主・名子関係など古いものが残っていたことがそうさせたので、本質はそんなものではないと思う。南部の人たちとまともに付き合ったり、話し合ったりするとそんな感じがする。

 秋田の人は底抜けに明るい。講演をして東北六県のなかで一番反応がいいのは秋田県である。だからこちらもその雰囲気にのせられて楽しくなり、ついついいろいろ話してしまう。のせるといえば、酒の飲ませ方もそうだ。「まんず飲め」と注がれるとついついのせられ、飲み過ぎてしまう。秋田で飲むと翌日はまちがいなく二日酔いで苦しむことになる。
 八郎潟のわきの五城目町のある集落で農地移動に関する全戸調査をやったときのことである。われわれ数人の調査員は集落の公民館に泊めてもらい、食事は集落の奥さん方からつくってもらうことにして調査に入った。集落ぐるみで米の増収運動に取り組んで大きな成果をあげ、県から表彰されたことからわかるように非常にまとまりがよく、集落全員で気持ちよく迎えてくれた。調査が終わった日の夜、集落ぐるみで送別会をしてくれた。それぞれの家からご主人だけでなく奥さんも参加し、奥さん方はきりたんぽを始めおいしいごちそうをつくってくれただけでなく、いっしょに食べ、酒も飲んでくれた。宴たけなわになったころ、男性みんなで『秋田音頭』を歌い始めた。とたんに奥さん方全員立ち上がり、歌に合わせて踊り始めた。ごぞんじのように秋田音頭にはかなりどぎついHな歌詞がある。それでも奥さん方は大笑いしながら踊り続ける。われわれも腹をかかえて笑った。秋田の女性は美人であるばかりでなく、お酒も飲み、ともかく明るい。
 その最後の夜、私たちの食事を最初から最後までつくってくれた奥さん(集落の稲作集団の代表の奥さんでまさに秋田美人だった)がこんなことを教えてくれた。大学から調査にくるから食事をつくってくれと集落の役員が言ったら、奥さん方はほとんど尻込みしたという。役員が困っていたので、彼女が、大学の先生と言ったって人を取って食うわけではないだろう、私がやるともう一人のお年寄りの奥さんを誘って二人で食事をつくることになった。やがてみんなが調査に入るなかで少しずつ気を許すようになったので、最後の夜はみんな送別会に集まったのだと。
 秋田の人は明るいけれども、このように恥ずかしがり屋で人見知りをする。これは東北人全体に共通するが、北に行けば行くほど、山のなかに入れば入るほどそうだと言えそうである。津軽の自虐性はこの恥ずかしがり屋の別の表現なのだろう。
 なお、秋田県北の人たちは、県南の人間は自分たちと少し違う、彼らはおおらかではないという。一方、同じ県南でも大曲周辺の人たちは横手以南の人たちのことを山形内陸に似て計算高いという。こうやって相違をいう人たちも由利地区に関しては異口同音にあそこは秋田と言うよりも庄内だという。一般に秋田ではササニシキはつくれないのにこの由利地区だけは栽培が可能だったことや、稲作技術は庄内から学んでいるということからくるのかもしれないが、別の地域であるように考えているようだ。たしかに違いはあるが、秋田県は全体として明るい感じがする。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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