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内陸人は偏狭?―山形内陸の場合―



               東北人の気質と地域性(4)

            ☆内陸人は偏狭?―山形内陸の場合―

 山形の庄内の農家も明るい。そしておっとりしており、また知的であり、先進的でもある。
 それでも庄内人は、最上川右岸の酒田・飽海と左岸の鶴岡・田川の気質は違う、酒田は港があったために商人的で荒っぽいが、鶴岡は殿様がいたところ、飽海よりはおっとりしているなどという。たしかにそうした面はあるが、山形内陸の三地域の差異から比べるとたいした違いはない。
 庄内と内陸部とは、同じ山形でも、言葉がまるっきり違う。庄内の言葉は優しく、内陸の言葉は荒っぽい。その気質もかなり違う。また同じ内陸でも、山で区切られている置賜、村山、最上と、気質がそれぞれ違う。
 私はよくこう言う。庄内は素直に明るい。村山は一ひねりひねって明るい、つまり人間が少しひねている。置賜は少し暗い、これは関ヶ原の戦いで転封されてきた上杉が減石されたのを補うために民衆をかなり締め付けたからだろう。最上は一ひねりひねって暗い、これは豪雪ややませの影響を受けて生活が苦しかったからだろうと。

 置賜地方の高畠町のお年寄りは、米沢市に行くときに「米沢に下(くだ)る」と言うそうである。どうしてかわからなかった。米沢は川の上流にあるので言うとすれば「上(のぼ)る」だろうと思うからである。また、東京に行く列車を上り列車というように、大きい町に行くことを上りというなら人口が多く置賜地方の中心地である米沢に行くのは「上る」でいいはずである。もちろん上り下りなどと言わずに素直に「米沢に行く」と言えばよい。ところが「下る」という。これは高畠が長いこと天領だったからだという。幕府からすれば外様の上杉は下である。つまり高畠の方が偉い。だから米沢に「下る」のである。米沢は置賜の中心だと認めていないのだ。こんなこともあるからだろう、周辺の市町村の人たちは高畠の人たちを少し威張っているという。また、同じ置賜でもちょっと違っていて、変わったことを平気でやる人も多いなどとも言う。たしかに有機農業をやった先駆的な地域であることなど考えればそう言えるかもしれない。これは、直接藩の支配のもとにがんじがらめに縛られていないので相対的に新しいことが自由にできたということが影響しているのだろうか。
 米沢を置賜地域の中心とみなしていないのは高畠だけだろうと思っていたら、そうではなかった。南陽、長井、川西、みんな自分が中心であると考えている。小国は米沢からかなり離れているので、一種の独立国となっている。だから置賜はなかなかまとまらない。置賜全体ばかりではない。同じ市町村内でもまとまりが悪い。
 1955年の昭和の大合併で赤湯町と宮内(みやうち)町がいっしょになろうとしたとき合併後の市の名前をどうするか大もめにもめたという。結局知事の裁定で「南陽市」となった。たしかにここは山形県では南にあるし、赤湯の駅を過ぎて北に向かうと山の南斜面に陽が当たってそこにあるブドウなどの果樹園がきれいに浮かび上がる。だから南陽でいいのかもしれない。しかし、県外の人たちは南陽市という名前を聞いて東北の町だとイメージするだろうか。四国の市町村の名前だといったらみんな納得するだろう。そんなふうに間違われないようにしようとすれば北陽市の方がまだいい。その方が東北らしい。しかしそれでは何となく陽が弱々しく感じられ、寒々しい(註)。それなら、赤湯市とした方が温泉を宣伝するという意味でもいいし、宮内市という名前にしてもすてきである。それがなぜ南陽なのだろうか。どうして若干妥協してもまとまろうとしないのだろうか。
 このまとまりのなさを痛感したのが家畜市場の統合問題であった。

 86年の初秋、農業情報の調査で寒河江市に行ったとき、突然山形県庁の人たちが宿におしかけてきた。なぜここにいるのがわかったのかと驚いたが、探しに探してきたらしい。そしてともかく話があるので別の宿に来てもらいたいという。全国各地から研究者が集まっているからだめだと断ったのだが、むりやり拉致されてしまった。そこでこんなことを言われた。置賜の家畜市場の統合が各市町村の誘致運動でまとまらず困っている、私にこれからの置賜農業のあり方を検討してもらってそのなかに家畜市場を位置づけ、話がまとまるようにしてもらいたいと。ともかく平身低頭である。そんな役は私にできないと断ったが、あまりにも困り切っているようすとこれまでお世話になったことからくる義理人情、そして酒の力でとうとう引き受けさせられた。
 それから1ヶ月くらいして研究者4人でチームを組み、置賜に調査に行った。驚いた、あの狭いところで5ヶ所の候補地が乱立し、もっとも便利だろうと思われる2ヶ所の候補地の距離はわずか1㌔、行政区域が違うだけ、それでけんかしているのである。それから畜産はもちろん、米、野菜、果樹等々の現状、問題点を本格的に調査したのだが、それでまた驚いた。農協、農家それぞれ本当にいいことをやっているのだが、まったくばらばらなのである。これでは外国との競争にはもちろん産地間競争に勝てるわけはない。
 調査の最終日、私どもの調査結果の中間報告会が、置賜地域の農協組合長、市町村農政担当課長、普及所長、県地方事務所長等々のメンバーを集めて開かれた。調査メンバーそれぞれ自分の分担にしたがって結果を報告し、私は総括的な報告をした。そのなかで最後に次のようなことをいった。
「今回の調査に参加した秋田短大のKA君が私にこんなことを言った、『秋田農業はこれまで山形からいろいろ学んできた、そして山形にはとてもじゃないがかなわないと思ってきた、しかし今回置賜に来て秋田は勝てると自信をもった』と。こんなことを秋田から言われていいのか。こんな狭いところで相争っていていいのか。置賜は一つになって農業を発展させる必要があるのではないのか」
 これがきっかけとなったのかどうかわからないが、「置賜は一つ」のスローガンのもとに地域のすべての農協、市町村、普及所、県地方事務所を構成員とする置賜農業振興協議会が87年に設立され、広域的に協力して「山形おきたまフードピア」を確立していこうということになつた。これはそれなりに成果をあげたと思うのだが、独立独歩的な地域性、気質はその後どうなっているだろうか。
 とは言っても、置賜はまだまとまりがある、山形市を中心とする村山地方はもっとひどく、お互いに足を引っ張り合う、偏狭狷介だ、これは小藩分立だったせいだろう、などと村山人のある県庁職員が言っていたが、そうかもしれないと私も思う。とくに庄内などと比べるとおおらかではない。高い山々に囲まれた偏狭な土地に生まれ、そこに閉じこめられて育つと、人間も偏狭狷介になるのだろうか。

 福島会津から始まって山形置賜・村山、秋田内陸、青森津軽と縦一線に米の多収地帯が続く。これは昼暑く夜は涼しいという盆地性気候が稲作にとっていいからだとされている。そしてさきにも述べたように米作日本一になった農家はとくに秋田の横手周辺に多い。ところが同じ多収地帯の山形・村山からは米作日本一は一人も出ていない。私の父もまったく関心をもっていなかった。まだ私が若い頃だったが、父にたずねたことがある、なぜなのかと。父は答えた、日本一などになって見ろ、お祝いの会とか何だとかで金はどんどん出て行くばかり、時間もとられる、わずかな賞金と名誉を得たとしても貧乏になるだけだ、バカらしくて応募などしていられない、村山の人はみんなそう思っていると。
 これは秋田人と村山人の人間性の違いからくるのだろうか。畑作中心で貨幣経済にまきこまれて苦労してきた村山人と、稲作中心で酒を飲んで騒ぐことができた秋田人の違いからくるのだろうか。
 しかし、山形市を中心とする村山人は、1円、2円はケチケチするが、御礼や祝儀、不祝儀など何かあるとがっぱりと出すので、本当に経済性があるのかどうかわからない。

 果物の女王と言われる洋ナシのラフランスは山形内陸の特産である。
 このラフランスはそもそもかつての主品種バートレットの授粉樹の一つとして入れられたもので以前からあった。味は非常にいい。しかし姿かたちはきわめて悪く、「みっだぐなす」と呼ばれていたという。「みっだぐなす」とは「みっだぐない」(醜い、みっともないの意味で、「見たくない」からきている)の名詞形で、よく悪口などに使う言葉である。こんなみっともない洋ナシは売れるわけはないので、姿かたちのいいバートレットだけを商品として販売してきた。しかし70年代、加工用缶詰の需要が減り、バートレットは売れなくなってきた。生食用で売ると固くておいしくないので評判が悪い。熟するとおいしいがすぐに腐ってしまう。その対策として、ラフランスの生食用としての味の良さを見直して販売しようとの動きが出てきた。県も普及奨励した。こうしたなかで80年代をすぎてまず山形県人が食べるようになった。しかし他県人はまだ知らなかった。
 ちょうどそのころのことである。当時の秋田県立短大にいたKA君が山形県出身の先輩の引越の手伝いに行ったところ、おやつの時間にラフランスを出された。当然彼は初めてだったが、食べてそのおいしさにびっくりし、こう言ったという。
 「見栄えは悪いけど中味がいい、山形県人みたいだ」
 後でそれを聞いたとき思わず笑ってしまった。そして彼に言った。
 「真実に近い冗談を言うな」
 山形内陸は美男・美女の産地でない上に、言葉は濁音が多くてきつく聞こえ、しかもしゃべり方が下手だから誤解されやすい。まさに外面は悪い。しかし、内陸人の自分が言うのも何だが、人間の中味はいい、とまでは言わなくとも、そんなに悪い人間ではないと思う。

(註)
 下記の記事で「裏日本」「山陰」という言葉に問題があると書いたが、それを読んだ『家の光』の元記者YMさんが次のような話を教えてくれた。かつて島根県で、「山陰」はイメージが悪いからと「山陽」に対して「北陽」という名称をつけ、それを広めようとしたことがある、しかし結局は失敗したと。やはり「北陽」ではだめなのかもしれない。いずれにせよ名前よりも中身なのだが。
  11年4月11日掲載・本稿第二部「☆駅裏―さなぎ女学校―」(2段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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