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仙台衆・仙台商人



                東北人の気質と地域性(5)

                 ☆仙台衆・仙台商人

 田中内閣の列島改造論にのって全国的に土地買い占めが進んだ頃、岩手県大船渡市にその実態を調べに行った。県庁で県内の買占めの実態を聞いた後、調査地を案内してくれる県農業会議の職員の方といっしょに盛岡から大船渡までの長距離バスに乗った。遠野でトイレ休憩があり、それから細い山道をバスはあえぎながら登った。峠にさしかかったとき、農業会議の職員の方が私に言った。
 「ここから気をつけてくださいよ」。
 たしかに、断崖を下に見る細い道路をバスが通るのだから、危険である。しかし私が気をつけてもしようがない。運転手さんに気をつけてもらうしかない。そんなことを考えていたら、彼は続けて言った。
 「ここから人間が違いますからね」
 意味がわからなかった。しばらく考えて納得した。この峠を越えると伊達藩なのである。だから人間性が違う、気をつけろというのだ。彼は南部藩の生まれのようだ。南部の人はよく伊達の人間はずる賢い、人が悪いと言う。同じ県民になってから100年以上も過ぎたのに、しかも県全体を見なければならない職についている人が、まだこんなことを言うのだろうか。津軽と南部の仲の悪さは聞いたことがあったが、南部と伊達にもあったのか、幕藩時代はまだ生きていると、驚いたものだった。

 北海道にはこういう言葉がある。
 「仙台衆の歩いた後はぺんぺん草も生えない」
 仙台人は雑草も生えない不毛の地にしてしまうほど何もかも収奪してしまうということらしい。東北大に行くと言ったら親から仙台にだけはいくな、あそこは人間が悪いからと言われたと札幌出身の学生が笑っていたが、ともかく北海道では仙台人の評判が悪い。
 1950年代に農林省農総研北海道支所に勤めた仙台出身のSGさんがこんなことを言っていた。下宿に入ったばかりの頃、そこのおばあちゃんにこう言われた。
 「仙台の人は頭がいいものねえ」
 そう言われて悪い気持ちはしない、頭をかきながら答えていた、
 「いやいやそれほどでも」
 時がたっておばあちゃんと仲良くなった頃のことである。
 「仙台衆は『ずうそせいめい なをなのれ』だものねえ」
 こう言っていつも笑う。よくよく聞いてみると、その昔仙台生まれの巡査は何かあるとすぐ威張って一般庶民を尋問したが、その最初に必ずこう言ったという。
 「住所姓名(ずうそせいめい)、名を名乗れ」
 頭に来た庶民ははそれを真似し、言葉の重複、なまり、威張り方をバカにしたのである。仙台衆は頭がいいというのは一応武士で巡査だから読み書きができるということからのようで、結局はバカにされていたのである。それがわかったときSGさんは、頭がいいと言われて「いやいやそれほどでも」などと答えていたのを思い出し、赤面したという。
 実際に北海道では仙台出身の巡査が多かったらしい。しかも武士出身がほとんどである。一定の読み書きができて巡査になれるのは武士だったからである。そこに昔の巡査は権力をもっている。だから威張り方も激しい。それは当然反発を買う。それが仙台衆すべてへの恨みとなる。
 このように、仙台衆の悪口の根源は開拓初期の入植者の性格にあるらしい。宮城県からの入植者は旧伊達藩士が主だった。賊軍とされたことから武士が新天地を北海道に求めて移住したのである。しかし仙台とはまるっきり違う極寒の地で慣れない農業をするのはきわめて大変で、食っていけなくなった。そこに巡査の募集があった。それで一斉に巡査になった。昔の巡査は何でも禁止、禁止である。だから巡査=仙台衆の歩いた後にはぺんぺん草も生えないということになる。
 つまり仙台人全体が悪いのではなく、たまたまそのなかの武士出身者で巡査になったものが悪かっただけなのである。

 それにしても南部の人は伊達藩の人をきらう。そして伊達はずるいともいう。
 その昔、領土を確定するために、それぞれ別個に決まった地点から双方同時に出発し、ぶつかったところを領地の境界にすることにしたら、南部は徒歩で行ったのに伊達は馬で来た、それで伊達の領土が広くなってしまった、この話がその証拠だというのである。
 この話、かなり前に聞いたものなので、正確なところを聞こうと思い、今は秋田にいる南部人の研究者NK君に確かめてみた。そしたら彼はこの話それ自体を知らないと言う。これは平坦部の北上市周辺の話なので、かなり伊達藩と離れている山のなかの葛巻生まれの人、しかも若いので知らないのかもしれない。でも彼はこの話に納得する。そして次のように付け加える。
「両者がぶつかったところで南部の人はクレームをつけようとしたんでしょうが、『誰も歩いて来いなんて言ってないだろう』と伊達は言い、南部は『じゃあ仕方ないか』と納得したのでしょうね。そもそも伊達はより南部に近いところから出発した可能性があり、しかもそれは約束の時間より早かったのではないでしょうか」
 ここまで言うかとは思うが、南部の人ばかりでなく、同じく隣りの山形、福島の人も伊達を、仙台をよく言わない。
 私も何となくそれがわかる気がすることがある。東北人というと純朴という印象があるが、宮城の人は素直ではない、ちょっとひねてると感じることがあり、まともにつきあっていいのかと思うことがあった。さきに述べたように、何かしらっとしているというか、斜(はす)にかまえているというか、そんな感じを抱かせるのである。自らいうように「おか百姓」(註1)的な性格をもっている。バカみたいに一生懸命にやるという感じがしない。すれてるという感じもする(もちろんそれは相対的なもので、他地方から比べると宮城の人も純朴だとは思うが)。だから仙台人はきらわれる、仙台の会社や店が東北の他県に進出できないのがその証拠だと言う人もいる。すると、そうだよな、「仙台商人」ではどうしようもないよなと納得する仙台の人もいる。
 この仙台商人という言葉を知ったのはかなり後になってからだが、売ってやるのだ、ありがたいと思えという態度で客に接し、きわめて横柄、無愛想、不親切な商人が仙台に多く、それでそういう商人のことを「仙台商人」というのだそうである。
 私も仙台に来たばかりのころそれは感じた。もちろん私の生まれた山形の商人も決して愛想が良いわけではない。ましてや言葉がぶっきらぼうだから怒られているようにも聞こえる。でも、客に対しては一生懸命接する。ところが仙台ではそうではない。店に入ると何しにきたという顔でじろっと上から下まで見る。この品物はあるかと聞くと、その辺にあるはずだというだけ、ないというとそんなものを買いにくるから悪いという感じでにらまれる。この野菜古くてあまりよくないねなどというと、あるだけありがたいと思え、何を文句いうのだという態度であっちを向く。かなり前のことだが、近所に引っ越してきた大阪出身の奥さんがこうした態度に頭に来て、「そんなことでは大阪では売れないよ」と近くの八百屋で文句を言ったと笑って家内に話していたことがあった。もちろん全部が全部そんな商人でないことはいうまでもないが。
 「仙台衆」、「仙台商人」、どうも仙台が上に付くのは悪いものということになっているようだ。仙台藩は大藩、それで態度がでかく見え、悪く思われるのだろうという人もいる。また米地帯で相対的に裕福だった、それで本当の商いを知らないのだとも考えられる。そうなるとこうした態度は武士・商人のことで農家は違うということになる。しかしどうもそうではなさそうだ、農家も仙台衆・仙台商人の感覚に毒されているのではなかろうか、こう感じたことがあった。

 80年代後半、仙台市役所が市独自の農業試験場をつくりたいということで相談にきた。それはきわめて良いことだ、実際に試験場を独自にもっている市や町を調査し、それを参考にしながら建設計画をたてようということになり、自然科学系の教授といっしょにお手伝いすることにした(註2)。その一環として札幌市営の試験場の調査に行った。そこでまず聞いたのは、なぜ市独自でつくろうとしたのかということである。すると、きっかけはホウレンソウだったという。かつては仙台からの移入に依存していた。ところが、薹(とう)がたったようなでかくて固くてまずいホウレンソウがくる。こんな家畜が食べるようなものは食べたくない。おいしいホウレンソウが札幌でとれないものか。寒いからつくれないと思っていたが、寒冷気象でもつくれる品種もあるのではないか。こうした声に応えて市は何百種類もの種子を取り寄せて試験することにした。そしたら札幌に適する品種があった。それを農家に普及して大きな成果をおさめた。これをきっかけにホウレンソウばかりでなく多種多様な作物の試験研究を行う試験場をつくることになった。そして今札幌はホウレンソウの大産地になっており、かつてと逆に仙台に札幌から出荷しているという。
 なぜ仙台の農家は、また出荷業者はそんなホウレンソウを出荷したのだろうか。自分でもまずいと思うものをなぜ人に売るのか。これこそ客の立場を考えない仙台商人ではないか。その結果、札幌という市場を失ってしまった。要するに、販売とは何かを知らないのである。
 もう一つ、こんなこともあった。80年代の初め宮城県北のある村にシメジの施設栽培の共同経営ができた。彼らは市場に出すばかりでなく不祝儀用として独自販売しようと考え、そのための独自の箱もつくった。その宣伝のために普及所にいき、こうしたものをつくりましたのでよろしくと挨拶してその箱をおいていった。普及員はよく考えたとほめ、彼らが帰ってから箱を開けてみた。ところが中には何も入っていない。空箱をもってきただけだったのである。どうして中身をいれないのだろうか。それこそ宣伝してもらわなければならないはずなのに。こんなケチ精神ではどうしようもない。米単作農家にはめずらしい販売センスと思って感心したのだが、その話を聞いてがっかりした。本当の商売を、宣伝のしかたを知らないのである。結局その経営は何年かして潰れてしまった。
 もうこんな状況から抜け出しているだろう、そう考えていた90年代末のことである。石巻の近くの田んぼに大きなハウス団地ができた。稲作地帯としては思い切ったことをやったものだと感心したし、生産者の技術的能力も高かった。その団地に、イチゴを売ってくれ、トマトを売ってくれと消費者が直接くる。断っているが、困ったものだと指導している農協職員はいう。それがよくわからない。売ったらどうなのだろうか。せっかく買いにきてくれたのだから御礼をいうのが本来で、それをじゃまにするというのはおかしい。しかも運賃も市場手数料などもいらず売れるのだから儲かるし、客の口コミでその団地の評判も高くなるはずだ。そういうと、ハウスのなかに入られて内部の施設がいじられたら困るから、ハウス増設の工事が始まるので危ないから断っているのだという。それなら入られないように、危険のないように工夫すればいい。あちこちで消費者との交流、直売を騒いでいるときに何を考えているのだろうか。まだ仙台商人的感覚から抜けきれないでいるのだろうか。
 もちろん、高度経済成長以降仙台に他県人や他県の企業が入り込むなかで「仙台商人」などはほとんどいなくなった。また農協や農家の販売感覚も市場競争にもまれるなかで成長してきている。しかし、一層の成長を願うということから悪口を言わせてもらった。また家内が宮城県出身だし、私も50年以上も仙台市民として過ごしたので言う権利もあるはずである。

 宮城県南出身の家内を冷やかす。
 県南の人間は県北に比べると人間が悪く、つきあいにくいと。講演していて反応がよく、一生懸命考えようとするのは県北だし、県南よりはみんなずっと親切である(もちろん人によるのだが、このことは家内には言わない)。農業改良普及員は県南とくに亘理の普及所に転勤するのをいやがったという。農家は表面はいい顔をするが内心何を考えているかわからない、言うことは聞いてくれず(農家の方が技術的に優れている場合があるからしかたがないこともあるのだが)、ともかく泣かされるそうだ(それは最初だけでそのうちまったくそんなことはなくなるとのことだが、これも家内には言わない)。
 そういうと家内はいつも不満そうな顔をした。しかしあるときからそれが少し変わった。
 今から25年ほど前だろうか、看護師の資格をもつ家内がある医療機関に頼まれ、県内の各市町村で行う健康診断の手伝いに行ったときのことである。何人かの医師や看護師とともに車に乗って市町村の診察場所に行くと、県北の場合は役場の人が丁重に迎えてくれ、茶菓は出してくれるし、診断を受ける農家の人が野菜をもってきてくれることさえあるという。終わった後はきちんとお礼を言い、お見送りをしてくれる。ところが、県南の市町村はそんなことはまったくない。きわめて事務的である。ある町の場合などは、診断が終わったとたんに役場の人は受付の場所からさっさと帰ってしまい、お見送りどころか、彼らが本来すべき机やいすなどの片づけもしなかった。
 家内は苦笑いする、やはり県南の方が人が悪いのかもしれないと。
 それで私は追い打ちをかける。そうだろう、人間は南に行けば行くほど悪くなるのだと。もちろん冗談だが。そう思わせておいた方がいい、家内とけんかになったときの武器になるからだ。

(註)
1.11年9月7日掲載・本稿第二部「☆困難だった米単作からの脱却」(2段落)参照
2.この計画は89年に実現し、仙台市農業園芸センターという名称で市の東部に設立された。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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