Entries

農家の男たちと口減らし(2)


        ☆いえの相続―宿命と特権―

 「いえ」は「長男」が相続するもの、かつてはこれが当たり前だったし、私もそう思って育った。そしてそれは昔からの伝統だろうと考えていた。しかし、明治以前の東北は長男相続ではなくて「長子」相続だったということを、宮城県出身のSS教授から大学院のころに教わった。その後で、鹿児島は「末子」相続であったことも知った。
 なぜ東北では長子相続だったのか。鹿児島はなぜ末子なのか。どうしてこのような差異が生まれたのか。その原因として考えられるのは気象条件と土地条件である。
 東北の場合、積雪寒冷地であるため春から秋に農作業が集中する。しかも田植えや稲刈り等の農作業の適期はきわめて短期間に制限される。それを家族労働で終わらそうとすれば、朝から晩まで休みなしに働かなければならない。とくに農繁期などはすさまじい苦役的な長時間労働が集中する。四十歳も過ぎれば腰が曲がってしまうほどである。そこで男であれ女であれともかく先に生まれた子ども=「長子」(註)に早く家を継がせ、嫁か婿をとらせて労働力を確保しなければならない。また早く次世代の労働力を産ませて確保しなければならない。そしてそれは経済的に可能である。家庭内にそれだけの労働力をかかえ、弟妹をかかえても、つまり家族数が多くとも何とか生活していける。水田地帯であるために、畑作地帯よりは相対的に生産力が高く、何とか大家族を養っていけるからだ。そして弟妹は大きくなって働けるようになった順に外に出してやればいい。
 一方、鹿児島の場合、農作業の適期はもちろんあるが東北ほど厳しくない。気候が温暖だからである。作業の一日二日の遅れは気象が回復してくれる。しかも冬も生産ができる。年間を通して、労働時間は平均化されている。したがって、世帯主夫婦は比較的長く働くことができ、早く労働力が欲しいという状況にない。また親がまだまだ働けるのに子どもが農業に従事すると困ることもある。土地面積を労働力に応じて増減するわけにはいかないので、労働力が過剰になってしまうからである。しかもシラス台地で水田はあまりつくれず、畑作生産力は稲作よりも低いので、多くの家族をかかえておくことはできない。そこで、子どもが働けるようになったら順次外に出す。そして末子が働けるようになったころ、ちょうど親も働けなくなるので、隠居して末子に経営権を委譲する。こうして末子相続となったのではないだろうか。
 こう私は考えているのだが、この考えにはさまざまな弱点がある。たとえば、鹿児島とほぼ同じ条件の他の暖地、たとえば宮崎や大分ではなぜ末子相続でなかったのか、なぜ鹿児島だけが末子相続なのかと聞かれたら答えられない。
 ただ、ここで言いたいのは、農業の内的事情ではなく武士のならいと明治民法が長男相続にしたのではないかということである。地域の生産条件により農業といえの継承のしかたが違ってしかるべきなのに、それを一律化してしまったところに問題があるのである。しかもそれが、法的には戦後変えられたとはいえ、実質的には一九六〇年代まで百年以上も続いた。ここにも、農業継承問題の近年の深刻化の一要因があるのではないだろうか。

 戦前、普通の農家の長男は小学校を卒業するとすぐに農業に従事させられた。ともかく早く働かせなければならなかったし、進学させる経済的ゆとりもなかったからである。進学できるのは自作地主以上の子弟であった。ただし小さな自作地主の長男などは旧制中学や高校には行かしてもらえず、農学校にしか行けなかった。ともかく農家を継がせて早く働いてもらいたかったのである。
 なお、若干の労力的余裕のある農家のなかにはただ同然で行ける師範学校に子どもをやり、先生にさせるという道を選ばせるものもあった。農業で所得を高めようとしても限界があり、農外に有利な就職口もないので、安定高賃金の教師にさせた方がいいと、借金するなど無理をしてでも行かせたのである。息子は教師の賃金で生活し、親夫婦は農業をやり、やがて農業ができなくなったらその土地を貸して高い小作料をもらえばいい。そうすれば生活は安定する。ただし農業の継承はできなくなる。それでも農地の継承はできる。
 母の実家がそうだった。土地面積はそれほど多くないのに、多くないからこそなのだが、借金をしつつ長女、長男を師範に行かせ、次女である私の母や三女はそのかわりの農業労働力として嫁に行くまで働かされた。なお次男は中学に行けないものとあきらめ、後に述べるように満州に行くことになる。

 私の生まれた町の農家の長男は旧制中学はもちろん、農学校にも行かしてもらえなかった。
 農家の長男であった一九一三(大正二)年生まれの私の父も高等小学校を出ると待ってましたとばかりに就農させられた。成績の良し悪しなどは関係なかった。
 二十歳前後の父がガリ版刷りの同人雑誌に次のような詩をのせている。
  「かつての日
   同じ遊びにたはむれ、
   同じ学窓に学んだ二人だった

   遠い夢を語り合って
   何日(いつ)までもと誓い合った友

   だが
   所詮 夢は夢でしかない現実
   友は今華やかな現実に生きる
   サラリーマン
   私は血みどろ汗みどろになって働いても
   連日其の日の生活におびやかされつづける
   一介の農夫

   何時か白々しくなってしまった二人

   労働は神聖なのだと慰めて見ても
   それははかない負け惜しみ

   さっそうと行き過ぎる友
   私はそっぽを向いて
   黙って鋤鍬を打ちふるのだ」
 拙い詩かもしれないが、当時の都市近郊農家の青年たちの気持ちがよく出ているのではないかと思う。そして多くの農家の若者はそれを宿命としてあきらめていたのではなかろうか。

 このように、農家の長男(男子がいない場合は長女)は、家の継続と家業としての農業の継承を当然のこととしてかつては受け止めてきた。親はもちろん家族員のすべてがそういうものだと考え、代々その慣習を引き継いできた。もちろんなかには農業をやりたくないと思う長男もいた。しかし長男には職業選択の自由はなかった。ましてや結婚の自由などあるわけはない。親のいうまま農業を継ぐのは長男の「宿命」であった。
 しかもかつては農外の就業機会が少ないので都市に出ていくわけにもいかなかった。それどころかいえを継いだ方がかえってよかった。生活が最低限保障されるからである。したがっていえと農業を継ぐのは長男の「特権」としても受けとめられてきた。
 次三男からみればこれはうらやましかった。次三男はいつまでも家で働いているわけにはいかず、とにかくどこかに出て行かなければならないからである。とくに長男が嫁をとったりすれば、あるいは兄弟が多ければ、労働力が余る。働く場を家の外に探さなければならない。

 地域を見回すと、農業の年雇いの働き口がある。経営面積の大きな農家は家族労力だけで足りず、一人とか二人年雇いを入れるものがあったからである。
 一戸平均経営面積の大きい山形県庄内地方などでは、自作農ばかりでなく、小作農も年雇いを入れていた。三~五㌶の経営面積をもつ小作農家もあったからである。大山町(現・鶴岡市)にはこうした小作大農が多かった。土壌条件が悪くて収量が低いので、多くの面積を耕作しないと食っていけなかったからである。地主も小作料の安定徴収のために多くの土地を貸した。しかし、いくら大農でも、収量が低いので小作料を払ったら残るものはなく、自作農にはいあがることは難しい。ところが労働力だけは優等地と同じだけかかる。当時の手労働段階ではこれだけの大面積を家族労力だけでやるのは難しい。そこで年雇いを入れるのである。こうした小作農はもちろんのこと、自作農にしても都市並みの賃金など年雇いに払えるわけはない。三食寝所つき米一俵が一年間の報酬だった。それでも次三男は食い扶持を減らすためにこの住み込みの年雇いになった。なお、経営面積の小さい農家の長男も若い頃は年雇いになった。庄内ではこうした年雇いを「若勢(わかぜ)」(女性の年雇いは「めらし」)と呼んでいた。
 しかしいつまでも年雇いでいるわけにはいかない。だからといって家に戻って働くわけにもいかない。考えられるのは親にお願いして分家させてもらうことである。しかし分家させてもらったとしても、条件の悪いわずかな面積の土地がもらえるだけである。長男の継ぐ家、つまり本家だって生きていかなければならないし、古くからのむらのつきあいを対等にしていくためには一定の土地をもっていなければならないので、そんなに土地を分け与えるわけにはいかないのである。そうなると当然分家は農業だけでは食べていけない。地主から土地を借りて小作農になるしかない。あるいは農業・農外の日雇いや季節雇いで生計をまかなうしかない。そして何かあれば本家から食糧や金を借りて、助けてもらって生計を維持することになる。そうなると本家のいうことを聞かざるを得ない。たとえば手伝いにこいと言われれば何があっても行かざるを得ない。つまり本家に人身的に従属するしかなかった。こうした本分家関係、その縦の序列関係はすさまじいものであった。生産はもちろん生活のすみずみまで、結婚や就学にいたるまで、あらゆることで分家は本家のいうことを聞かなければならなかった。
 なお、津軽では年雇いを「借り子(かれこ)」と呼んでいたが、長く借り子を勤めたもの、幼いころに貧しい農家から引き取って育てられた子どもが恩を返すために長く借り子をしたものなど、家族同然になった借り子に土地を与えて分家をさせる場合もあった。もちろん血はつながっていないし、名字も違う。しかし、血縁関係にある本分家とその依存従属関係はまったく同じであった
 それでも分家をすればともかく地域に残れる。最低限の食い扶持も確保できる。しかし現実には分家できるだけの土地がそんなにあるわけではない。長男の継ぐ家だって生きていく上でぎりぎりの土地しかもっていない場合がほとんどである。そうなると家に依存するわけにはいかない。
 しかし就業機会はない。「こぬか三合あったら婿には行くな」と言われるくらいつらい婿の口、それでもあれば万々歳であった。
 次三男も、つまりむらの男すべてが、女性とその程度の差はあれ、つらかったのである。

(註)
 長子には長男という意味もあるが、ここでいう長子は文字通り「初めに生まれた子」「最も年長の子」という意味である。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR