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主とする生産と気質



               東北人の気質と地域性(6)

          ☆主とする生産と気質―養蚕・園芸・稲作・漁業―

 列車に乗っていると、あ、あの人は津軽の人だなとわかるときがある。独特の顔をしているからである。秋田の人の顔も大体はわかる。津軽に似ているが、ちょっと違う。しかし、どこが似ていてどこが違うのかと聞かれると、絵心のない私には表現できない。
 よく秋田美人と言われる。それから津軽美人、庄内美人、新潟美人という言葉もある。ところが山形の内陸にはそうした言葉がない。宮城にもない。それどころか仙台は日本の三大不美人地帯の一つだとまで言われる。
 このように地域により顔が違うのだから、気質も違うはずである。交通条件が不便で人の交流も少ない時代、最初に定着した人々が何千年、何百年と過ごしている間に、同じ顔立ち、同じ気質が純粋に遺伝的形質として地域に定着したのであろう。
 しかし、地域による人間の気質の相違は単に血統からだけ来ているのではないと感じさせられることもある。

 20年以上も前の話だが、農村への工場誘致に関する宮城県の会議で、ある地域の商工会の人が誘致企業は地域に技術を教える役割を果たしてもらいたいと発言した。そしたら県南のある市長が、それは無理というものだと笑いながら、次のように言った。
 山形の内陸には下請けになる技術力をもった中小工場がある。その工場に技術を教えるとすぐに覚える。そればかりでなく、さらに新しい技術を付け加える。教えがいがあるし、誘致企業にとってもプラスになる。したがって地域に新技術を積極的に教えようとする。それはまた地域の中小工場の技術をレベルアップさせる。するとまた誘致企業が増える。
 ところが宮城県では言われたことをただやるだけ、ともかく考えないし、働かない、意欲がない。こんな技術力のない、人材のいないところに技術を教えても何にもならない。だから技術を伝えようとはしないのだ。そもそも下請けになるだけの技術力をもった中小企業がない。だから先端技術の工場を誘致しようとしても山形のような特別な有利性はないので来ない。それで宮城では単純な技術の工場しか誘致できないし、そもそも誘致企業も少ないのだ。こういうのである。
 たしかに当時は山形への工場誘致が多かった。もちろん大企業の子会社、下請けであるが、秋田の工場団地にはその山形の下請けの下請けくらいしか誘致できないと県庁の人たちが嘆いていた。交通条件のせいでもあろうが、秋田は宮城以下なのだろう。
 なぜこんな違いが出るのか。これは山形内陸が養蚕・園芸地帯であり、宮城・秋田は水稲単作地帯であるという相違からくるのではなかろうか。

 もう30年も前になろうか、今は大研究者になったKA君がまだ若かった頃初めて山形の村山地方の調査に連れて行った。そしたら彼は言う、「ここは箱庭だ」と。意味がわからなかった。聞いてみてなるほどと思った。狭いところに何でもあるというのである。たしかに、稲はもちろん、リンゴ、サクランボ、モモ、ブドウ、洋ナシ等々さまざまな果樹があり、栽培されている野菜の種類も多く、桑からホップ、タバコの工芸作物、飼料作物もあり、それらの品種もさまざまである。それも整然とではなく雑然と、ちまちまと植えられている。これは村山地方が盆地で、四方の山々から流れくだる中小河川にそって展開する扇状地で農業が営まれていることからくるものであるが、水田が一面広がる秋田で生まれ育ち、同じく水稲単作の宮城で学生生活を送った彼には驚きで、村山はまさに「箱庭」と見えたのであろう。
 このような農業の形態の相違は農家の意識、気性にも相違を与えざるを得ない。

 田んぼには稲を植えるということが決まっている。どういう品種を植えるかを考えるだけでいい。
 ところが畑となるとそうはいかない。多様な作物、多様な品種、多様な方式の栽培が可能であるし、それはまた輪作や労働配分等から必要ともされている。したがって、どういう作物を植えるか、その作物のうちのどの品種を植えるかを考えなければならない。さらにそれをどの時期にどのように栽培するかも考えなければならない。その選択が非常に重要になるし、さまざまな作物についての知識、技術をもつことが必要となる。しかも園芸作物は商品作物であるから、売れるか売れないか、どこに売るか等も考えなければならない。要するに好奇心をもってさまざまな情報を集めておかなければならない。この好奇心が園芸地帯で生き延びていくためには必要不可欠である。

 東京の中央卸売市場で山形(といっても当時まともに出荷していたのは村山地方と置賜地方の一部でしかなかったが)の野菜・果樹の評価を聞いた。評判は非常によい。質は良いし、量もきちんとまとめてくれるし、新しいことにも取り組んでくれるという。しかし市場として困ることがあるとも言う。せっかくある品目のある品種がブランドとして定着したのに、少し時間が経過するとまた別の新しい品目、品種、栽培方法に移ってしまう、山形の人は好奇心が強すぎる、飽きっぽくて困ると。
 そう言われたとき私は思わず笑ってしまった。実は私もかなり飽きっぽいが、これは村山地方人の血がそうさせたのかもしれなかったのだ。
 しかしそう言われるとこうも言いたくなる。このことは、よくいえば、変革を求め、新しいものを求める山形人の先進性であると。もちろんそれも行き過ぎると欠点になる。飽きずにつくり続けることもやっていかなければならない。つまり、よく言われる東北人のねばり強さと、新しいものを求める探究心とを、あわせもつようにすることが本当は必要なのであろう。
 それはそれとして、ともかく新しいものを求める探求心があるということ、これが誘致企業の技術導入問題と関連しているのではなかろうか。

 戦前、村山地方では養蚕が盛んであった。養蚕はきわめて園芸的であると同時に、工業的でもある。そもそも紡績、機織りは農家の副業だったからである。明治以降それは機械化され、工場でなされるようになって農家の手から離されるが、近くにたくさんできた中小の製糸工場はその地域の地主や商人等が金を出してつくったものが多く、そこに働いているものの多くは農家の子女であり、工業には縁が深かった。
 一方、工業の技術は日進月歩である。それについていくために新技術の導入には敏感でなければならないし、さらに自分でも創意工夫をこらしていかなければならない。こうしたなかで培われた工業的な感覚、技術力、創造力が地域にある。
 やがて製糸は独占的な大企業のものとなり、さらには養蚕は衰退する。しかし技術力と園芸力をもつ人材はいる。そこに誘致企業が入ってくる。そうするとこの伝統的な工業的・園芸的センスが目覚め、さらに好奇心、探求心が目覚め、誘致企業のもってくる技術の導入、創意工夫の発揮に積極的に取り組むことになる。
 ここに宮城や秋田、庄内の米どころとの相違があるのではなかろうか。もちろん交通条件の良さや東京への近さ、近年の全国からの人口の集中、東京などから比べての地価や人件費などの安さ等から仙台周辺の工場団地への工場立地が多くなっているのだが。

 稲作は水の関係から近隣での共同協力が必要不可欠である。それもあって集落のまとまりがいい。山形の庄内などはその典型だ。密居集落だからなおのことそうなる。
 これに対し園芸作は経営の自由度がきわめて高い。個々人が自立して経営することができる。だから集落のまとまりが悪い。もちろん稲作はあるし、かつては生活面での地域的共同が必要だったので、集落のまとまりはあるが、米単作地帯から見ると弱い。しかも小さな市場めがけて個々バラバラに販売することから競争が起きる。そこから足引っ張り的な気質が生まれることになる。商品経済、貨幣経済が入ってくると人が悪くなるのだろう。また園芸は日銭稼ぎであり、面積も多くもてないので、先にも述べたが、1円、2円をケチることになる。しかし付きあいを大事にしないと商売はできない。だから何かあると千円、2千円と出すことになる。

 青森県三沢市の農協から依頼されて調査に入ったときのことである(註1)。海岸に近い集落の農家の調査が終わって家の後ろの庭畑を見ていたら不思議なことに気がついた。壁がなく柱だけで支えられた細長い屋根があり、その下に古びた木造の船がおいてある。そこの家ばかりではない。近所を見てみるとほとんどの家にある。聞いてみたら、かつては漁家だったという。なるほどと思って帰ったが、それにしてもおかしい。なぜこんな古びた船(新しいものもあるが)を屋根までかけて保存しているのだろうか。農協の方に聞いてみたら、次のような話をしてくれた。
 この集落の漁場の大半は米軍基地の射爆場の関係で使えなくなった。それで漁民つまり漁業権保有者に補償金が出た。そして今も毎年漁業補償が出ている。もちろんそれだけでは食えない。それで田畑を増やし、農業中心に移行してきた。なかには細々と漁業を続けている人もいるが、実質やめた人も多い。ところが漁業をやめると補償はされなくなる。それでは困る。他方で、漁業をやめたかどうか、つまり漁業権の保有者であるかどうかは、漁船を持っているかどうかで判断される。それで実質漁業をやめてもみんな漁船を大事に保有し、補償金をもらっているのだと。そして農協の方は言う、私も船をもっていると。彼もそもそもは漁民だったのである。
 漁業を止めざるをを得なくさせた米軍が悪いのだから、船は大事に保存してこのまま金をもらい続けろ、いつかは漁場が使えるようになるかもしれないしと言いながらも、彼らのしたたかさに思わず笑ってしまった。
 調査から帰ったある日のこと、研究室に農協から大きな発泡スチロールの箱が届いた。何かと思って開けてみたら、何と北寄(ほっき)貝が大量に入っている。そしてみなさんで食べてくださいとある。高価なものなのでびっくりしたが、遠慮なくみんなでおいしくごちそうになった。それにしても、農協からの贈り物が農産物ではなくて水産物だとはとみんなびっくりしたが、農協の幹部役職員に漁業権をもっている人がかなりいたから、筋道は通る。自分たちの産物を贈ったことに変わりはないのである。
 そのときふと気がついた。農協の幹部役職員は会津出身でも戦後開拓者でもないだろうと。そもそも三八下北に住んでいたのは漁民だけだったらしい。当時の技術水準では北海道並みの寒冷地である下北で農業をするのは難しかったからである。それで漁業を中心に若干の畑と広大な林野の利用でもって生きてきた。だから漁業権をもっているのはまさに先住民なのである。そういえば彼らの苗字も会津などと違い、若干変わっている。漁協はもちろんのことだが、農協の幹部までこの先住民・平民が押さえている。何となくうれしかった。三八下北の首長や議員は会津士族の出身者が多く、彼らがここを牛耳っているという話を聞いていたからである。
 北寄貝の話に戻るが、後で農協の人に聞いたら、三沢は北寄貝の日本の三大産地の一つだという。他の一つは宮城県の閖上(ゆりあげ)で、もう一つは北海道(のどこだったか忘れてしまった)だという。閖上と聞いて私の今住んでいる仙台近郊にそれだけの産地があったのかと驚いたが、網走に行っても驚いた。網走も北寄貝の産地だったのである。北寄貝のしゃぶしゃぶなどは甘くて最高においしい。台風のときは海岸に大量に打ち上げられるという。それを知っている市民は海岸に行って拾う。拾うのは漁業権の侵犯にはならない。かもめも当然食べに来る。人間とかもめのどっちが早く拾うか、けんかしながら採るのだそうである。ともかく私は北寄貝に縁があるらしい。
 それにしても、特別なこともしていないのに、あんな高価な北寄貝を大量に贈ってくれるのには驚いた。これは漁民的な気質から来るのではなかろうか。

 宮城三陸に調査に行ったとき、歌津町(現・南三陸町)の農村複合調査(註2)で知り合いになっていた漁業者の家が通り道だったので、ちょっと挨拶に寄った。茶飲み話が終わって帰ろうとしたら、ちょっと寄り道しろと言う。そして魚市場に連れて行き、魚を一箱、お土産だとよこした。こんな高価なものをこんなにたくさんと遠慮したのだが、私たちの乗ってきた県庁の車に積み込んでしまった。いつもこうなのである。この方ばかりではない。漁家はみんなそうで、ともかく気前がいい。
 それと同じことを網走の農大の学生も言う。
 いうまでもなく網走は国内有数の農業地帯、漁業地帯である。それで、彼らには農家と漁家のアルバイトがある。
 漁家の場合は帆立貝の養殖などで忙しいときに学生アルバイトを雇う。仕事はかなりきつい。ただし日当はいい。それで学生が行くのだが、異口同音に彼らは言う、漁民の方は荒っぽいと。働かないものには大声で怒鳴り、さらには明日から来なくともいいと簡単に首にする。そのかわりに、よく働くものには、日当を倍くれたり、鮭一本とか帆立貝一箱だとかお土産によこす。それを学生が私の家にもときどき持ってきてお裾分けしてくれるのだが、学生の評判はきわめていい。言葉は荒いが気前が良いと。よく漁師気質(かたぎ)と言われるがまったくその通りである。
 農家はそれとちょっと異なる。機械ではできない作業が多々あるダイコンとかニンジンとかの野菜作では多くの人手が必要となる時期がある。しかしそんなに人はいない。ところが網走には学生がいるのでそれを雇うことができる。網走で野菜作ができるのは農大のおかげだと農家の方に感謝されているほどだ。学生は言う、農家の方は優しく、親切だと。仕事が終わってから収穫物をもらってくることもある。しかし漁師のような気前の良さはないという。
 面白いのは、卒業生が網走に来ると必ずお土産をもってバイトをしていた農家を訪ねることだ。お世話になった農家のことが忘れられない、卒業してからも農家とのつきあいがずっと続いているというのである。しかし、バイト先の漁家とのつきあいが卒業後も続いているという話は聞いたことがない。
 このように同じ網走市内でも海に近いか遠いかによって、そして漁家か農家かによって気質がかなり違う。
 同じく自然条件に大きく左右される仕事でありながら、片や当たり外れの大きいしかも危険な一発勝負の漁業、片やじっくりと育てて気長に待たなければならない根気仕事の農業、この仕事の差異が気質の差異をもたらしているのだろう。

 こう考えると、主とする生産の違いによって、さらに同じ生産でもその種類ややり方によって、、またそれを規定する地域の自然的条件によって、地域の人間の考え方や気質が培われるということになるのであろうか。そしてそれが何代も引き継がれ、蓄積されるなかで、その地域の人々の身に付き、血統的な特性となって残っていくことになるのだろう。

(註)
1.三沢市については下記のところでも触れているので参照されたい。
 ・11年5月11日掲載・本稿第二部「☆水田面積の拡大」
 ・11年6月15日掲載・本稿第二部「☆減反目標の達成」(3段落)
 ・11年6月29日掲載・本稿第二部☆東の「後進性』の逆転」(2段落)
 ・11年11月11日掲載・本稿第三部「☆地域住民の暮らしと自然保護運動」(1、2段落)
 ・12年3月2日掲載・本稿第三部「☆地域対立」(2段落)
2.11年9月9日掲載・本稿第二部「☆農林水産・加工の地域内再結合」(1段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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