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地域気質と出身地、現住地



              東北人の気質と地域性(7)

             ☆地域気質と出身地、現住地

 1960年ころは車社会ではないので宮城県内でも汽車・バスを利用して農村調査の目的地に向かった。よく乗ったのが東北線であるが、仙台から北に向かって30分ほどしたところの田んぼのなかに品井沼という駅がある。そこから少し行ったところに鹿島台の駅があるのだが、その途中まで線路の西側に家が一列に並んでいた。東側の丘にも家があった。
 その家々や田んぼを汽車の窓からのぞいていつも不思議に思っていたことがあった。
 ある家の前の田んぼのあぜ道に何本かの木が並木のように植えられている。その木の形もおもしろい。枝葉はかなり上にあるだけで、下にはまったくなく、幹はそんなに太くない。あぜ道になぜそんな木を植えるのか、作業にじゃまではないかと思って見ていたが、秋に通ったら、その木の横に竹が組まれ、そこに刈り取った稲が掛けられている。つまりその生木は稲を乾燥するための「はさ(稲架)」の柱の役割を果たしていたのである。それはわかったが、まわりにそんなことをしている田んぼは見られない。みんな「棒掛け」(「稲ぐい掛け」)である。なぜそこだけが生木を利用した「はさ掛け」なのかがわからなかった。
 もう一つわからなかったのは、庭にリンゴの木を植えている農家が何戸かあることである。当時宮城県にはリンゴはほとんどないのにここだけあり、しかも畑ではなく屋敷内に、それも4~5本程度である。
 やがて、この品井沼は明治期に干拓されたところで、東北・北陸の県から入植者を迎えたということを知るようになった。
 それでわかった。生木を利用してはさ掛けをしている農家は新潟県からの入植者だったのではないか。これは研究を始めてから知ったのだが、蒲原地帯の農家は田の畦に榛(はん)の木を植え、それを使って稲架を組み立てて稲を乾燥していた。秋雨が早い地帯なので早く乾燥させるために棒がけではなくはさ掛けが必要なのだが、湿田地帯であるために田んぼに棒をさすと倒れてしまう。それで、畦に木を植えてそれをはさ棒として利用することになったらしい。田んぼのなかに榛(はん)の木の並木が縦横に並ぶ蒲原平野の景観は、秋の庄内平野一面に立ち並ぶ棒がけの景観とともに見事なものだった。この蒲原の習慣をもってきたのだろう。
 リンゴを植えているのは山形県内陸部出身者だった。内陸部は果樹作がさかんである。入植者の多くも小さい頃から果樹に慣れ親しんでいる。だから果樹をやりたい。しかし畑はない。植えるとすれば屋敷内しかない。そこで実家に帰ったとき、リンゴの苗をもらって4~5本庭に植えたのである。
 しかし宮城県出身者はそのリンゴの苗を隣から分けてもらって植えようとはしない。やる気がないのである。だからリンゴが庭にない農家は園芸的感覚のない宮城県出身者だと私は言う。もちろん新潟・山形・宮城以外の出身者もいるのでそんなことは一概に言えないのだが。
 ともかく、生まれ育ったところで身につけたもの、経験したものはいつまでも残るものだ、それが農業の差異をつくりだしたのだということを感じさせる。
 この品井沼のある鹿島台町(現・大崎市)の町長だったKFさんに、今いった品井沼の農家の県民性の話をしたら、彼はまったくその通りだという。そして次のように付け加えた。今専業農家でいるのはほとんど山形県からの入植者であり、町で振興しようとしている植木生産でがんばっているのも山形の血を引いている人たちだけだと。そして笑う、宮城県民は本当にだめだと(註)。彼は生粋の鹿島台の既成田地帯出身者なのだが。
 このように、同じ地域に住んでいるにもかかわらず、出身地でこれだけ気質が違う。つまり現住地の地域性より出身地の地域性の方が強いのである。このことは、気質というものはそもそも備わっているもので、地域の自然的経済的環境よりも、血統によって、先天的に決まっていることを示す。こんな風にも思えるのだが、そう断定することもできないようである。

 網走に行って北海道民と付き合うようになってから、人間の地域性は血統ではなくやはり自然条件などの地域環境に大きく左右されるのではないか、後天的なものではないかと、また考えるようになってきた。
 私どもを迎えてくれた網走の人たちの多くは明治から戦後にかけてさまざまな府県から移住してきた人たちの子孫である。みんな本当に開放的で、親切に受け入れてくれた。よく北海道の人はおおらかだと言われるが、まさにその通りであった。
 しかし、おおらかさはおおざっぱとつながる、さらに進めば粗雑、無神経となる。網走の人たちと仲良くなってから、飲んだときなどに私はよくそう言って冷やかした。
 その証拠の一つとして交通マナーがある。スーパーの入り口の前は人の出入りにじゃまだから駐車禁止だと書いてあるが、それでもそこは空いているからと平気で駐車する(もちろん都府県にもそうする人がいるが、それほどではない)。空き家の庭とか利用されていない土地はすぐ駐車場にしてしまう。所有者や管理者に断わりもなく夕方から朝まで停めておく。後で誰かが所有者や管理者にきちんと断って正式に借りると、前の占拠者は既得権を侵害されたような不満な顔をする。それはまだ良い方だ。実際に住んでいる人がいるのに、その家の庭に車を入れて方向転換するものすらいる。それどころか他人の家の庭に入って犬を散歩させ、平気で糞をさせる人もいる。冬には利用していないと見られる土地をすべて雪捨て場にする。
 それを見たとき、北海道民は土地所有権の感覚がないんじゃないか、いま現に使っていない土地は所有者なしと考え、利用してもいい土地と考えるのだろうかと思った。そして一度自分が利用するとそれを既得権と考える。
 考えてみたら彼らの先祖はアイヌ民族から土地を奪って自分のものにしてきた開拓民であった。その先祖の血がそうさせるのだろうか。アメリカの西部開拓に見られたような開拓民、侵略者の血がそうさせるのか。先祖が生まれ育った土地はみんな違うはずなのに、全国各地から集まったはずなのに、開拓地に、北海道に住むとみんなそうなってしまうのだろうか。
 とすると、人間の地域性はやはり住んでいる地域、現住地によって、後天的につくられるものだということになる。

 ところで、この道民の土地意識は開拓民の血からだけではなさそうだ。過疎問題、農業問題とも関連しているような感じがする。
 農大オホーツクキャンパスの学生の9割近くが関東、近畿などの都府県出身者なのだが、たまたま私のゼミに北海道出身の学生が入ってきた。生まれたところは稚内からちょっと南に下った幌延町だという。
 私はここを調査したことはないが、この幌延と稚内の間にある豊富町には行ったことがある。1971年の冬、寝台車に乗って豊富駅に朝4時ころ到着したが、あまりの寒さにどこか旅館にでも行って調査開始の時間まで休もうということになった。そう思って駅前をよく見たら豊富温泉というネオンが出ている。そこでみんなでタクシー(会社は人数が多いからと10人乗りくらいの小型バスのタクシーを出してくれた、生まれて初めてそれを見て、みんな驚いたものだった)に乗り、その温泉旅館に行ってお風呂に入った。また驚いた。お湯が石油くさいのである。それでもともかく暖まり、一休みしてから町営の放牧場の調査に入った。こんなことで非常に印象に残っていたのだが、この周辺は気候条件からして酪農しかできないところであり、学生の家も酪農をいとなんでいた。
 そこで聞いてみた、経営面積はいくらかと。そしたらわからないという。自分の家の経営面積もわからないとは何事かとあきれ果てて怒った。そしたら彼はいう、家に帰る度に面積が増えていて、どこからどこまでが自分の家の土地なのか、正確なところがわからないのだと。
 要するに、離農する人の土地の一部が毎年のように自分の家のものとなって、覚えてもまた次に行ったとき変わっているものだから、よくわからないというのである。さらに、土地の借り手や買い手がいなくてそのまま放置されている土地もかなりあるという。もったいないのでそれも自分の家の土地に近いところや条件のいいところは草を刈り取って利用している。誰に断わるわけでもない。当然ただである。これも自分の家の経営面積がいくらかわからなくする原因だという。
 このように北海道では耕作放棄等の未利用地が増え、誰が利用しても文句を言われない状況が出てきている。網走市内でも空き家、空き地が増え、黙って利用しても問題とされない土地が出てきている。これが土地の所有と利用に関する感覚を弱める一因となっているのかもしれない。こうしたことが細かいことにこせこせしないおおらかさと誉められ、その逆におおざっぱだ、粗雑だと悪口を言われるようにさせているのかもしれない。
 価格政策を初めとする農業政策、地域政策の欠如のもとで激しく進展する離農が、過疎化が、こんな意識をもたせているのである。道民のおおらかさにはこんな悲しい辛い背景があるのだ。

(註)山形内陸と宮城の比較は下記の記事でも触でも触れている。
  11年4月1日掲載・本稿第一部「農家生活の向上(5) ☆山形発仙台行の野菜」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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