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時代と地域的な気質



               東北人の気質と地域性(9)

            ☆時代と地域的な気質─道民性を例にして─

 ついでといっては何だが、前々回ちょっと触れた北海道人の気質(註1)いわゆる道民性について、時代の変化とかかわらせながら、もう少し語ってみたい(註2)。北海道には東北出身者が多いし、7年間も道民でいた私には語る権利があるだろう。

 今から10年くらい前に鹿児島で学会があり、その休憩時間に数人の仲間とある公園を散歩した。春のことだから孟宗竹の林のなかを見るとタケノコが顔を出している。おいしそうだ、採って食べたいなどとみんなで話をしていたら、北海道の研究者のKIさんがぽつんとこんなことを言った。
「みんな笑うかもしれないけれど、実は僕タケノコが生えているのを見るのは初めてなんですよ」
 びっくりした。50歳も過ぎている大研究者がタケノコを見たことがないとは。しかしだれも笑わなかった。もしも彼がいつも物知り顔にしゃべる嫌味な男であったならみんなで大笑いしてやったことだろう。しかし彼は非常に謙虚な人でみんなから好かれている。だからみんなは、北海道には孟宗竹がないのだから見たことがないのは当たり前だろうと、とくに冷やかしもしない。私だって18歳になって仙台に来て初めて見たのである。みんなそれぞれタケノコについて知っていることをしゃべったりしながら、その後も楽しく散歩した。
 その夜、ふと1971年に佐賀平野の農家調査をしたときのことを思い出した。水稲の直播栽培をしている農家に調査に行ったとき、同行した北海道の先輩研究者SCさん(いま話したKIさんの上司に後になるのだが)が突然一言も口をきかなくなったのである。腕組みをしてうつむき、黙って私たちの質問と農家の応答を聞いている。次の農家に行っても同じだった。夜になっていったいどうしたのかとたずねた。そしたら彼は言う、「カルチュアショックで言葉が出なかったのだ、もう少し考えたい」と。彼はきわめて優秀な研究者で、若くして名をなしていた人である。国内の各地も少なくとも私よりは歩いている。その彼が何ということを言うのだろう。
 考えてみた。当時の技術水準、生活水準のもとでの北海道と佐賀のあまりの違い、これをどう理解すべきなのか、両者をどう統一して考えるべきなのか、北海道に生まれ育ち、府県で過ごしたことがなく、しかもめったに道外の調査などに行けなかった時代、彼には質問どころか考えなければならないことが多かったのだろう。もちろん東北も佐賀と大きく違う。私もいろいろ驚いたことがあった。しかし北海道との差異とは比べものにならない。しかも私は零細分散耕地制や気象条件等々で相対的に類似している府県に住んでいるという共通意識がある。だから私は彼ほどのショックを受けなかったのかもしれない。
 それにしても知ったかぶりを一切せず、素直に学ぼうとするSCさんの謙虚さにはおどろいた。彼を始め北海道の研究者の方々は基本的にはみんな謙虚である。友人としておつきあいいただいている研究者が北海道に多いのはそこからもくるのかもしれない。
 知らないことは知らないと素直に言う。そうしなければ、そして周りの人に教えをこい、助けを乞わなければ、見栄を張ったりしていれば、北海道の厳しい自然条件のもとでは死んでしまう。こうしたことが北海道民のこの謙虚さをつくりあげているのだろうか。

 ついでに言えば、私が初めてみかん畑を見たのは大学院2年の23歳、東海道線の車窓からだった。みかん農家を初めて調査したのは1968年の32歳のとき愛媛で、みかんを初めて木から直接採って食べたのは40歳代半ばになってから熊本の菊地台地でだった。西のみかん、東の米という高度成長初期の二大成長農産物のうち片方しかまともに知らなかったのだから、日本農業などを語る資格はなかったのかもしれない。それにもかかわらず若い頃図々しくそれを論じてきたのだから、謙虚さが欠如していたと言わざるを得ない。

 78年、いま述べたSCさんのお世話で北海道の稲作地帯の深川市に調査に行ったときのことである。いうまでもなく経営面積は大きく、7~10㌶経営している農家も多い。府県では3~4㌶が大規模経営のころだからその2~3倍の経営面積をもっている。単収はもう府県並みになっている。しかも当時は米価が高い。したがって府県の稲作専業農家よりも所得はきわめて高い。
 農家のお宅におじゃましていろいろ調査させてもらった後、ふと気が付いたことがある。府県の農家よりも住宅が小さいのである。家のなかもそんなに豪勢ではない。あれだけの所得を得ながらである。私だけではなかったらしい。都府県から来た研究者はほとんどみんな同じ印象をもち、驚いていた。なぜだろうか。学者だからついつい原因を考えようとする。いろいろ考えが出されたが、結局次のようになった。
 彼らにとって北海道のこの地は「仮の宿」なのではないだろうか。いつか府県にある故郷に錦をかざって帰りたいという意識をもっているのではなかろうか。そうなればこんな仮の住まいに金をかけるのはもったいない。こんな意識が潜在的にあるのではなかろうか。それが家の建て方の違いになるのではなかろうか。こんな結論になった。もちろんそれだけでないことは後に北海道に住んでわかった。冬の寒さを考えると府県の農家のようにだだっ広く建てるわけにはいかないのである。しかし、やはり故郷は府県にあるという意識が若干は左右していたのではなかろうか。

 網走の近くの斜里町に明治中期の大水害で罹災した岐阜県の方々が移住してきた集落がある。ここに住む90歳をこえたお年寄りが当時を思い出して言っていた、毎日毎日みんなで岐阜の方を見てなつかしさに涙を流しながら故郷に帰りたいと手を合わせたものだったと。
 02年、その集落に岐阜県知事がきた。東京農大と岐阜県の研究機関との間で連携大学院協定を結んだことを記念してオホーツクキャンパスに講義に来てくれた知事をそこに案内したのである。集落ぐるみで知事を歓迎した。90歳を過ぎたそのお年寄りは、これまでの苦労が、故郷への思いが頭をよぎったのだろう、そして岐阜県の人たちが自分たちがここにいることを思い出してくれたとうれしかったのだろう、
 「よく来てくれた、よく来てくれた、これまでの苦労が報われた、もう思い残すことはない」
 泣きながら知事の手を固く固くにぎっていた。みんな思わずもらい泣きをしてしまった。
 この岐阜からの移住者のように何らかの事情で府県では食えなくなり、北海道にきたものがいた。言うまでもないが、寒冷地での開拓や労働者の権利がまもられていない炭坑等での労働と生活はきびしいものがあったろう。そして故郷に帰りたいという気持ちが心の底にあっただろう。
 彼らにとって北海道はまさに「外地」であり、都府県は「内地」だったのである。

 函館から車で何時間もかかる山のなかの農家調査に行った北大のOTさんがそこのおばあさんに挨拶したら聞かれた。
 「どっからきなすった」
 「札幌からです」
 「まあ、わざわざ『奥地』から、ごくろうさんだねえ」
 こう言われたという。まさかこんな山奥の人から札幌を奥地と言われるとは思わなかったと彼は笑う。そうなのである。どんな山奥であろうとも、函館周辺からすると札幌も含む以北・以東は「奥地」なのである。そこで函館出身の研究者OKさんに聞いてみた。札幌が奥地なら網走はどう呼ぶのだと。彼は笑って言う、
 「呼ぶ言葉すらないですねえ」
 同じ道内でも差別意識があるようである。しかし、「内地」人からすれば函館も「外地」であり、奥地なのである。このように「内地」人の中には道民に対する差別意識をもつものもいた。
 さきほど述べたSCさんが東海地方のすてきなお嬢さんと恋仲になり、結婚を申し込んだら「北海道の流れ者などに嫁にやれるか」と親戚縁者から反対されたそうである。実際にそう見る人もいた。食いつめてあるいは悪いことをして都府県から逃げ出した人間、まさに「流れ者」が北海道に集まったのだと。そればかりではない。北海道は網走などのように重罪犯が収監される「監獄」のあるところでもある。さらに北海道はサラリーマンの「左遷」の地だった。
 北海道民自身にもそうした流れ者意識があったのではなかろうか。さらには自分達を見捨てた府県への恨み辛み、あまりの生活・文化の隔絶からくる都府県への劣等感もあったのではなかろうか。そして流れ者同士が身を寄せ合って傷口をなめあっていこうとはしていなかったか。それが府県とは違った意味での閉鎖性を北海道人に持たせてはいなかったろうか。

 前々回の記事で北海道の人はおおらかで開放的だといったが、今から40年くらい前までは閉鎖的だと私は評していた。ただしそれは北海道の研究者を見た感じからである。
 学会で彼らの報告に誰かが質問する。するとこれは気象条件、交通条件等からくるもので、北海道の特殊性だと答える。すると質問者はそれ以上言えなくなる。たとえばその見方、考え方はおかしいのではないかと思っても、北海道は特別な地域で特別な法則性で動いているのだから、府県とは違うのだから、一般化できないのだからと言われると突っ込めなくなるのである。
 このように府県の人にはわからないことだと言われると北海道をよく知らないものは何も言えなくなる。これを敷衍すれば、北海道を知っているもの、ということは当時の交通条件からして北海道在住の研究者ということになるが、この人たちだけでしか論議できないということになる。
 しかしこれでは仲間うちだけでの議論に終わってしまうのではないか。それ以外のものが論議に加わろうとするのを排除し、自己満足しているだけに過ぎないのではないか。特殊性という言葉は深くつっこまれることへの逃げではないか。かわりに彼らは都府県の研究者の報告についてはあまり発言しない。北海道の例を出して突っ込むなどということはしない。こちらは言わないからそちらも言うなという感じである。もちろんこれは私の誤解かもしれないし、偏見でしかないかもしれない。それでも私はそれを「北海道モンロー主義」として北海道の研究者に悪口を言った。
 とは言ったものの、当時はそれもやむを得ない側面もあった。交通事情からしてお互いに行き来して調査し合うことがそれほどできない時代、研究の情報がそれほど多く交換できない時代であったために、自分の地域の特殊的な法則性と共通する法則性を客観化して論議することが容易ではなかったからである。また技術も経営も府県と北海道では異国と思えるほど違っていた。それで北海道の研究者は自分のところは特殊だと考え、また府県の研究者も北海道は特殊だとして日本資本主義の発展の法則性のもとにとらえようとはしないことになったのではなかろうか。
 もちろん今はそんなことはまったく感じさせないことはいうまでもない。

 飛行機に乗れば、東京であれ九州であれ、あっと言う間に着いてしまう。汽車だってかつての蒸気機関車から比べるとあっという間だし、本州とトンネルで結ばれてもいる。フェリー・自動車を使えばどこにでも行ける。ともかく時間距離は短くなった。研究者は全国各地をお互いに往き来して調査研究できるようになった。出版の容易さ、パソコン、テレビ、電話の普及等々で情報の格差も少なくなっている。農業技術や経営も地域的特殊性はあっても本質的なところでは共通していることがはっきりわかるようになっている。テレビドラマなどでみると、左遷の場所は札幌よりも仙台になってきたようである。もう閉鎖的にならなければならない事情はなくなってきた。
 戦後入植者でも3世代、明治の入植者なら5世代目にもなっている。母方の先祖は四国、父方は北陸などとなると、先祖の故郷はどこだなどともいえない。いまの若者にとっては北海道が故郷なのだ。都府県はもはや故郷ではなく、いわゆる内地でもなくなっている。
 道民の意識はともかく変わってきた。もちろん変わらないものもある。さきに述べた開放性、おおらかさ、謙虚さなどがそうだ。それどころかさきに述べた土地意識に見られるように過疎化の進展でさらにそれが増幅されている(註1)。
 県民性なるもの、人間の地域的な気質も時代によって変わるようである。

(註)
1.12年3月16日掲載・本稿第三部「☆地域気質と出身地、現住地」(2段落以降)参照
2.下記の記事も関連しているので参照していただきたい。
  11年10月7日掲載・本稿第三部「☆北海道の食文化」

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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