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自国に誇りをもたない風潮


               地方と中央、日本人と国際化(3)

                ☆自国に誇りをもたない風潮

 学者先生だから何回も外国に行ったろうとよく聞かれた。しかし、私は行かないことにしていた。
 60年安保の後のことである。闘争に参加した学者や労組が多いことに驚いたアメリカはケネディ・ライシャワー路線という融和策を展開した。その一つに学者のアメリカ招待、留学があった。それで多くの人がアメリカに行った。ドル高円安の時代であったから、今の途上国からの日本留学生と同様にアメリカで金を貯めて帰ってきた。こうしたなかでアメリカに行かないと教授に昇進できないという噂さえ流れた。それで自分の研究と直接関わりがなくともアメリカに行く人すら現れた。また、帰ってくるとアメリカ風を吹かして威張る人もいた。そうしたことが身震いするほどいやだつた。それで私はアメリカには行くまいと考えたのである。
 やがて円高ドル安になって、誰でも自由に諸外国に行けるようになった。そして、アメリカではこうだ、ドイツではこうだ、インドではこうだなどと得々と話をするようになった。しかし、わずか1週間くらい行ってそんなことがいえるのか。岩手の山村を2、3日みて日本の村とはこういうものだなどといえるわけはないのと同じである。しかも、先進国にいけばいかに日本は遅れているかを言い、途上国に行くとその国がいかに遅れているかと半ば軽蔑しながら話をする。
 たまたま福島のある村で講演をしたとき、日本の農業をまともに話す学者の話を聞いたのは私が初めてだと農家の方に言われた。これまで来た大学の先生は、あの国はこうだった、この国はこうだったと外国の話しかしなかった、だから学者の話というはそういうものだと思っていたというのである。こうした学者がいることを聞いて腹が立つと同時に情けなくなった。
 こんな学者と称する人たちと同列に扱われたくない。そのためには外国などに行かない方がいい。
 さらに、貿易自由化で外国農産物が日本農業を窮地に陥れている。こんな外国に行ってたまるか。
 そこで私は行かないことにした。そして「尊農攘夷」派を自称した。
 もちろん絶対行かないと言うわけではない。相手国からのご招待で美人の通訳付きなら行く。かつてのわが国の卑屈な留学が許せなかったからで、私が必要とされるなら行くということにした。また、私の研究にとってどうしても必要であり、多くの人が行っていない国なら、そんな条件なしでも行く。たとえばブータンである。照葉樹林地帯の稲作の原点を調査してみたいと思う。
 こう決心していたのだが、それは貫徹されなかった。93年に韓国の姉妹大学に講演に行けと学部から命じられ、断るわけにはいかず、行ってしまったのである。その後も韓国のある研究所からの招待があり、行かざるを得なくなった。ただし美人の通訳付きという条件は満たせなかった。さらに農大に行ってから、同じオホーツクの寒冷地帯の大学や研究所と連携して研究を進める協定を結ぶ道を開けという大学からの命令でサハリンに行かざるをえなくなった。こんなことで韓国とサハリンには行ったのであるが、ともに戦前の日本の植民地であり、外国に行くと言ってもいわゆる欧米には行っていない。

 80年代、仙台の地元紙の投書欄などに次のような意見がよく掲載された。英語の案内板が少ない、外人が何かたずねているのに英語で答えられない人がいる、国際都市たるべき仙台として恥ずかしいと。
 しかし、ニューヨークにいけば日本語の案内板はない。英語しか書いていない。もちろん、日本語で道をたずねても日本語で答えてはくれない。それでもニューヨークは国際都市ではないとは言わない。なぜ日本だけが英語でサービスしなければならず、そうしなければ国際都市と言われないのか。
 さらに考えなければならないことは、たとえ英語でサービスしても、中国や韓国、ロシア語圏やスペイン語圏などの人にはわからないことである。彼らがわからなくとも、英語さえ書いてあれば、英語で話ができさえすれば国際化なのか。これは英語圏以外の人々に対する差別ではないか。
 日本人はアメリカにいけば英語で、中国にいけば中国語で、自分が話せなければ通訳つきで、つまり行った国の言葉で何とか理解してもらい、また理解しようとする。ところが、日本に来た外国人は日本語で話さない。これは問題にしない。アメリカ人は日本人がアメリカにきた時に日本語でサービスしていないが、それにも文句は言わない。おかしくはないか。なぜ日本人だけが英語でサービスしなければならないのか。これは不平等ではないか。
 そういうと、いや、英語は国際語であり、英語を話せる人が国際人なのだと反論をする人がいる。しかし、そもそも英語が国際語であると誰が決め、なぜそのように理解されるようになったのか。百歩下がって、英語を国際語であり、英語を話す人は国際人だと認めることにしよう。とすれば、英語を母国語としている国の人々はもっとも国際的な人ということになる。しかし、それだけで国際人といえるのか。

 二十数年前、文学部に留学していたフランスの女子留学生がこんなことを言っていた。仙台にきたときフランス語を書いたり使ったりしている看板や店名がたくさんあるのを見て驚いた、東京のような国際都市ならわかるがと。それを聞いたときにこっちがびっくりしてしまった。そう言われてみれば日本には農村部まで含めて英語はもちろんあらゆる国の言葉があふれている。まさに日本は国際化している。
 やはり同じ頃私の研究室にいたカナダ人の留学生が帰国してしばらくぶりで日本を訪ねてきたとき、こんな話をしてくれた。 
 前に日本にいたときタクシーに乗ったらどこの国から来たのかと聞かれ、カナダからと答えた。すると運転手さんは、当時問題となっていたケヴェック州の独立運動を話題にし、話がいろいろもりあがった。
 カナダに帰って大学までタクシーに乗ったとき、運転手さんに何を研究しているかと聞かれ、日本のことを研究していると答えた。すると、ああ中国の研究ですかと言う。よくよく聞いてみると、彼は日本を中国の一部と考えていた。
 彼は嘆く。いかに自分の国の人間はよその国のことを知らないのかと。そしていう。日本は国際化が進んでいる、タクシーの運転手さんでさえ世界のことをよく知っている、その日本がなぜいま国際化などと騒ぐのかわからない、欧米諸国こそもっと国際化すべきだと。
 いつだったかの新聞記事で、アメリカの大学の調査で学生がいかに世界の他の国のことを知らないかがわかって問題となったというのを見たが、それでも彼らは英語をしゃべるから国際人なのか。

 発展途上国のなかに、大学や大学院の講義を英語でやっているところがある。台湾もそうらしい。70年代後半に研究室に台湾から留学してきた女子留学生に、「母国語で学問が語れずしてはたして学問の発展があり得るだろうか」と言ったことがあったが、その意味がわかってもらえなかった。しかし、彼女が三年過ぎて帰国するとき、いまになってその意味がよくわかったと言った。母国語で学問するから学問の内容が全国民に普及し、それだけ国民の知的水準、技術水準が発達し、また国内の研究者間の詳細な論議を可能にし、それが基礎になってその国の学問を発展させることになり、それがひいては学問の国際的な発展に寄与するのだと、私の言ったことが理解できたようなのである。
 でも、ルネサンスを例にして語ればもっと簡単に理解してもらえたかもしれないと今は思う。ルネサンス(文芸復興=西欧の近代化)は、ラテン語からの解放、つまり母国語で学問を語り、教育することだったことを。そしてそれで西欧の学問は文化は大きく発展したことを。
 ところが最近、わが国では国際化に対応するのだとして英語で講義しようという大学も出てきている。これはまさに時代逆行でしかない。
 もちろん、英語を知らなくともいいとか、話す必要がないなどというつもりは毛頭ない。知ってていいし、中国語やスペイン語、韓国語を知ってる人もいるべきである。逆に、英語圏の人が、またロシア語圏の人が、それ以外の言語を知るべきである。
 こうして世界各国の人が他国の言語を知り、それを通じて文化を知り、相互に理解しあい、学ぶべきところを学び、ともに豊かに生きていけるようにする。これが国際化なのではないだろうか。
 ところが、国際化を英語化だと思っている人がいる。また、白人社会の文化や慣習を真似することだと思っている人がいる。さらにはアメリカのいうことを聞かなければ国際的に孤立するなどと思っている人がいる。そう思わせるようにしむける論調が多方面から流布されている。こうしたなかで、経済の国際化、農業の国際化などが叫ばれているところに大きな問題がある。
 だから私は英会話の勉強はしなかった。

 研究室での3時のお茶の時間、さきほど言った台湾からの女子留学生が私どもにファンスー(だったと思う)という言葉を知っているかという。わからないと言うと、「黄色」と黒板に書いた。それでもわからないというと彼女が変な顔をする。知っているとばかり思っていたようだ。まだ来たばかりで日本語がよくしゃべれないころなので、会話を成立させるのが大変だったのだが、彼女はわかってもらおうと思ったのかゲイシヤという言葉を使った。それから数回の話しのやりとりがあって、ようやくわかった。要するに売春婦のことだったのである。台湾に行ったほとんどの日本人は黄色が欲しいとホテルで言うのだそうである。
 恥ずかしかった。当時日本人の何人かが買春を目的に韓国や台湾など途上国に行っていることは知ってはいた。そしてそれを得々としゃべる人さえいた。だから日本人みんながそうだと台湾では思われており、当然私たちも知っているだろうと彼女は思ったらしいのである。
 片や白人崇拝、片やアジアの人々に対する侮蔑、明治以来の日本の姿勢が人々の気持ちの中にいまだに根強く残っていたのである。

 最近、仙台空港や仙台駅の案内板に英語とともにハングルや中国語が書かれるようになった。韓国、中国、台湾の人たちがそれだけ仙台を訪問するようになったことを示すものであり、またそれはこうした諸国の経済成長の現れでもあり、非常に喜ばしい。ましてや20~30年前のように、日本人がそうした国に一方通行で出かけ、金持ち面をして買春などしていた時代とは違い、双方通行に近くなってきたのである。しかもこうした国は隣国である。もっともっと交流を深めてもらいたいものだ。また、お互いがお互いの国の言葉を学ぶようになってもらいたいものだ。そしてお互いに尊敬し合い、協力し合える関係をつくっていきたい。そのためには靖国問題などまだまだ日本人がその姿勢を正さなければならないことがあるのだが。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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