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現実からの逃避、そしてあきらめへ



                 わびしい日日是好日(2)

              ☆現実からの逃避、そしてあきらめへ

 若い頃はハッピーエンド、サクセスストーリーの小説や映画、テレビはきらいだった。苦しいことがあっても必ず何とかなる、だから我慢しようよと夢をもたせ、現実を直視しないようにさせるものでしかなく、苦しみをもたらす根源を考えることをやめさせ、不条理に対してもつべき怒りをなだめ、闘う意欲と力を鎮静する役割を果たすものだと考えたからである。
 そして、どんなに辛くとも苦しくとも現実から逃避せず直視しよう、また私の仕事である農村調査はもちろん会話や読書、映画、テレビ等で得られた他人の経験談や考えを通じて現実や歴史を間接的に体験し、辛さや苦しさをもたらした原因をさぐり、それで世の中を変えていく意欲を奮い起こそうと考えてこれまできた。
 しかしもうたくさんだ。毎日毎日いやなニュースばかり続くからだ。もう怒るのにも疲れた。個人的にも数限りなく苦しいことを経験した。もうこんな現実から逃避したい。辛いこと、苦しいこと、悲しいことはもう見たくも聞きたくもない。そうはいっても耳には入ってくるし、目には飛び込んでくる。
 せめて、本やテレビで苦しいことをこれ以上体験しないようにしよう。悪いもの、いやなものはできるだけ見ないようにしよう。苦しいのは現実だけでいい。
 ハッピーエンドの物語に切り替えよう。時代小説ならたとえ苦しくとももう過ぎたことだからそれほど生々しく感じないのでそれも読もう。つまらなくとも必ず犯人がつかまり、各地の名所旧跡などが出てくる二時間サスペンステレビドラマを見よう。ドキュメンタリーでもサクセスストーリーにしよう。そして残り少ない人生をできるかぎり楽しく過ごしたい。
 こんなことを考えるようになった頃、ちょうど『プロジェクトⅩ』という番組が放映されるようになった。このサクセスストーリーはかつての『新日本紀行』とは大きく違っていた。

 1963年、NHKテレビで『新日本紀行』という番組がスタートした。
 これは高度経済成長で失われていく日本の姿を淡々と映していた。むらが消える、石炭が消える、技(わざ)が消える、昔がなくなっている、一体日本はどこへいくのか。そうした漠然とした不安のなかで、昔を、普通の暮らしを、無名の人、無名の地、まさに一般の人の日々の暮らしを、とりわけ社会に取り残されていくあるいは消えていく敗者の姿を、ともかく映像として残しておこう。こんなディレクターやカメラマンの思いが伝わってくる。そして、人間として社会としてこれでいいのか、何か忘れていないかをもの静かに問いかける。そのなかから、あまりの経済成長に対する批判、無言の抵抗がにじみ出てくる。直接大声ではなく映像の中で間接的にわれわれに訴えかけるのである。
 1981年まで続いたこの番組は、放っておけば忘れられたであろうさまざまな事実をともかく記録し、まさに貴重な財産をわれわれに残してくれた。

 2000年に始まったNHKテレビ番組『プロジェクトⅩ―挑戦者たち―』は大きな反響を呼んだ。この番組は、無名のさまざまな人々がいろいろな苦難、失敗をいかに克服して、新しいものを作り出していったか、これを感動的に伝えている。よくこれだけ貴重な事実を発掘し、映像化したものだ。中島みゆきの歌うテーマソング『地上の星』もそれにぴったり合う。ヒットするのも当然だ。私も好きで見ていた。
 もう一つ『私はあきらめない』という番組もあった。これは著名人を対象にし、困難に直面しながらもあきらめずに今の地位をかちとってきた過程をたどる。
 しかしある時ふっと疑問に感じた。こういう番組がいままであっただろうか。なぜいまの時期にやるのか。そしてなぜこれが受けるのか。
 90年代、バブルがはじけ、不況、リストラ等で庶民は大きな打撃を受けた。本来からいうと、そうしたバブルの原因とそのもたらしたものを一般の庶民のなかから描き出し、今後の方向をさぐるという番組があっていいはずだ。
 ところがプロジェクトⅩは、やればやれるのだ、実際に苦難や失敗を乗り越えた例があるではないか、創意工夫、夢をあきらめないねばり強さこそ大事なのだと主張する。これはこれでもっともなところがあるし、映像は感動的ですらある。
 しかし、このサクセスストーリーのかげには他の何百、何千の失敗、敗北があったはずである。ところが成功例、勝者のことのみを伝え、敗者のすさまじい現実は描かない。それで、悪いのは失敗を恐れてやらないからなのだということになる。この論理は、失敗を恐れず小泉前首相の言うように「改革」をすれば何とかなる、いまは苦しくともがまんすれば何とかなる、それを勝ち抜いたものが勝者となり、そうしないものが負け組となるのだ、負け組になるのは「自己責任」だということにつながってくる。つまり現在の社会経済、政治に対する批判は一切ない。
 もちろん、そんな内容のものだけではない。番組のなかにはアメリカの理屈にならない強引な脅迫的なおしつけ、それにしたがう日本政府の従属的な科学技術政策なども映し出していて、愛国心すらかきたてられることもある。しかし、多くは国際競争、グローバリズムはそのまま認め、市場原理にのっとって勝ったものこそ報われる、努力せよ、勝ち組になれ、思いはかなう、日本人には底力があるのだという内容になっている。直接的にそういうことを言っているわけではないが、現在の事態を引き起こした根源を忘れさせる役割は客観的にはたしているのではなかろうか。
 ここに『新日本紀行』とは決定的に違うところがある。

 いつだったか、こんな記事が新聞に出ていた。日本以外の先進国では殺人を犯す10~20歳代の若者の割合が他の年代に比べて多いのに対して日本はもっとも少なく、殺人を犯す若者の率それ自体も先進国のなかでは日本がもっとも低いと。これを可能にしているのは、他国にくらべれば貧富の格差、経済格差が小さく、若者に将来保証があるからだといわれていると。
 ところがいま、アメリカのような競争社会こそ善である、貧富の格差は当然であり、社会福祉の切り捨て等で将来保証がなくなるのも当然であるという論調が振りまかれている。そして徐々にわが国もそうなりつつある。それを反映して若者の犯罪も増えている。
 こうしたときに、市場原理にのっとって勝ったものこそ報われるのだ、努力せよ、勝ち組になれというように受け取れるような番組でいいのだろうか。これで地球環境問題や食糧問題を解決できるのだろうか。

 こんなことで知らず知らずのうちに気持ちが暗くなるからハッピーエンドに逃げたくなるのだが、世の中ともかくいやになることばかりだ。
 いやになることといえば農業に関連する最近のニュースだ。農村の高齢化、過疎化、さらには耕作放棄が進み、都市との格差はますます開き、日本の農業・農村はもうどうしようもない事態におちいっている。環境問題に関するニュースもいやになる。二酸化炭素排出量世界一のアメリカは相も変わらず「経済成長を阻害しかねない」として排出量削減の世界的な取り組みを妨害している。また日本は、2010年まで年間の温室効果ガスの排出量を1990年と比べて6%減らすという目標を京都議定書で掲げたにもかかわらず、かえって増加させている。そして二酸化炭素を減らすには原子力発電だなどという。たしかにそれは二酸化炭素を排出しないかもしれない。しかし放射性廃棄物は排出する。それはたとえ地中深く埋められたとしても何百年何千年後に環境を破壊する危険性がある。まかりまちがえば今すぐにでもチェルノブイリ以上の環境破壊を引き起こすかもしれない(註)。日本の政財界は、こうした原発をさらに増やそうとするばかりでなく環境税に反対するなど、積極的な取り組みをしようとはしない。
 こんなことでいいのだろうか。このままいったら人類は、地球はどうなるのか。考えれば考えるほど強い憤りを感じざるを得ない。
 しかし、最近は憤るのに疲れ、もうあきらめになってきた、これも仕方のないことなのだろうと。
 そもそも地球上に生まれた生物はすべて生成し、発展し、消滅してきた。この消滅のうち、もっとも大きかったのは2億5千万年前の「二畳紀末の大絶滅」で、95%の種が死滅したと言われており、次が恐竜の大絶滅でよく知られている6千5百万年前の白亜紀であるが、これ以外にも地球上では生物の絶滅がたびたび起きており、これは法則的なものである。そう考えれば人類もいずれは消滅する運命にある。
 ただし、恐竜のように地球と隕石の衝突(による気象変化)というような外的な要因によってではなく、人類はそのもつ内在的要因によって消滅することになるのだろう(もちろん恐竜にも日光の減少で少なくなった食料では生きていけない大食漢であったという内的要因はあったらしいが)。
 すなわち、人類は資源なしでは、環境にまもられることなしでは生きていけない。にもかかわらず、資源を費消し、環境を改変することなしでは生きていけない。こういう矛盾のなかで生存している。この矛盾の止揚がうまくできない人類はやがて資源を浪費しつくし、地球環境を悪化させ、他の生物種もまきこみながら消滅する。そして人類の後にまた新しく地球を支配する生物、つまり人類が改変して悪化した地球環境に適応した生物が生き延び、そのなかから地球を支配する生物がふたたび生まれる。ただしそれも生成、発展、消滅の法則性のなかでいつかは滅びていく。
 考えてみれば人類はこうした法則性のなかにいるだけである。ただ、これまでの地球を支配してきた生物のなかでその存在期間が100万年から200万年と短く、繁栄の期間も資本主義成立以降のわずか100年から200年、四大文明からの時期を人類の繁栄期とすれば5、6千年でしかなかったというだけのことなのだろう。
 そもそも地球環境悪化というのもおかしいのかもしれない。それは人類にとっての悪化、現存している動植物にとっての悪化でしかないのであって、地球にとってはいいも悪いもない。そもそも地球は自分が生み出した生物によってその姿を変えてきた。たとえば二酸化炭素が多かった時代、地球は珊瑚や有孔虫等の生物を生みだして酸素を増やし、その環境を大きく変えた。いま人類が二酸化炭素を増やしているのはかつてサンゴ等が作った環境を別の形でもとに戻しつつあるだけであり、地球の循環的発展の法則が貫徹しているだけなのかもしれない。地球はそうなる法則性をもっているだけなのかもしれない。とすると地球にとっては痛くもかゆくもない。人類にとっては痛いが、これも法則的なものであり、宿命である。
 したがって、人類の危機だ、地球の危機だとか言って騒ぎ立てる必要もない。法則に、宿命にまかせればいい。
 そう思ってあきらめよう。私ももうすぐこの世を去る年齢になっているからそれでかまわない。もう学問もやめよう。考えれば苦しいだけだからだ。生きている間だけ何とか環境が維持でき、苦しい思い、痛い思いをしなければいい。こう考えることにした。そうすればいらいらしなくともすむ。

 しかし、やはり新聞は読み、テレビは見る。するとどうしても農業問題、環境問題が目に入る。たとえば二酸化炭素の排出削減は待ったなしの状況になっているとか、地球温暖化の近年の進展度合いからみると人類の破滅的状況は100年先とか200年先のことではないとかのニュースが目に入る。どうも人類の破滅はもっともっと後の、自分がまったく知らない人々の世代のことではないらしい。自分の知っている人々が、たとえば私の孫が生きている時代におそってくる危険性があるようである。
 そういうニュースを見ると考え直さざるを得なくなる。愛する孫に、今近くで見かけるかわいい子どもたちに、そのまた子どもたちに、われわれの時代のつけをまわすわけにはいかないのではなかろうかと。何とか豊かに生きていけるように環境を維持してやりたい。資源や食料を確保してやりたい。
 それはできるはずだ。人間は動物と違うからだ。動物は単に自然法則にしたがうだけだが、人間は「自然の法則を認識し、それらの法則性を正しく適用し得る」特質をもっている。そうなると、たとえ一時的に過ちを犯そうとも、人間は必ず環境と共生できるようにし、農業を発展させて豊かな生存を可能にするはずである。
 もう一度希望をもとう。人間そんなに捨てたものでもないのではないか。

(註)
 この記事の草稿を脱稿したのは07年6月だったのだが、それから4年後の11年3月、実際に、しかも日本、それも東北で、原発による放射能汚染が引き起こされてしまった(このことについてはまた後に述べる)。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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