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「不楽是如何」




                 わびしい日日是好日(5)

                  ☆「不楽是如何」

 夢には色がないという。信じられなかった。私の場合すべての夢が総天然色だったからである。ところが知らないうちに白黒の夢が多くなってきた。戦後すぐの映画に一部分だけカラーというのがあったが、この部分天然色の夢も見るようになった。50歳前後のころからではなかったかと思うのだが、よく覚えていない。ともかくいつの頃からか夢が色あせてきた。
 これは未来に対して色あせた夢しか見られなくなってきたことを示すものなのだろう。年なのだからこれも当然のことである。と考える、そして口でも言う、もう70歳だ、もう年なのだと。
 『船頭さん』というこんな古い童謡がある。
   「むらの渡しの 船頭さんは
    今年六十の おじいさん
    年は取っても お船をこぐときは
    元気いっぱい 櫓がしなる」
 その昔、60はもうおじいさんだったのだ。実際に60歳を過ぎた人たちは本当に年寄りに見えたものだった。それをもう10年も過ぎているのだ。「人生五十年」ということからすれば、20年も越している。まさに今は余分な人生なのである。
 こう口ではいう。しかし頭のどこかはそうは思っていない。自分も年寄りなのに、他人を見て「あの年寄りは」などという。しばらくぶりで同級生と会って、その年寄りぶりには驚くが、自分もそうなのだとは考えない。もう年だといいながら本当に自覚はしていない。わかっているのにわかっていないのである。

 定年になってから、ときどき家内から言われる。「またため息をついた」と。知らず知らずのうちにため息をついているらしい。何でなのかわからない。何か鬱屈したものが胸のうちにあるのだろう。もうそろそろ後がないことが原因なのか。にもかかわらず何かし残したことがあるからなのだろうか。そんなことを考えていたら、ふっと次のような言葉が口をついて出た。
   「為したきことの 多々ありて
    為さざることのみ 多かりき」
 ため息はそのせいなのではないだろうか。「悔いのない人生」、私にはこれは夢のまた夢だったようだ。

 伊達政宗が老年になってつくった次のような五言絶句の漢詩がある。
   「馬上少年過
    世平白髪多
    残躯天所赦
    不楽是如何」
 私は伊達藩出身ではなく、伊達と対立してきた山形の生まれなので、政宗はあまり好きではないが、この詩だけは以前から好きだった。
 これは一般に次のように読まれている。
   「馬上少年を過ぐ
    世平らかにして白髪多し
    残躯天の赦すところ
    楽しまずして如何せん」
 そしてこういう意味にとられている。
 「少年時代を戦場で過ごしてきたが、いま世の中は平和になり、白髪も多くなってきた、この残った身体は天が赦してくれたものである、これで楽しまないでいられようか」
 しかし私は、結句のなかの「不楽是如何」に関してはそうは読まない。「楽しまずして如何せん」ではなく「楽しまざるは是(これ)如何(いか)に」あるいは「楽しからざるは是如何に」と読む。
 そして、「楽しくないのはどうしてなのか」、あるいは「しかし楽しめない、どうしたらいいのか」と解釈すべきだと考える。
 つまり、政宗はこう詠じたのである。
 「戦国の世を生き抜いて長生きをし、六十万石の大名にもなった、これはまさに天の恵みである、したがって本来なら楽しくて当然のことである、しかし何となく楽しくない、どうしてなのだろうか」
 それではどうして楽しくないのだろうか。その理由は書いていないが、彼は次のようなことを考えていたのではなかろうか、
 「天下をとろうと思っていたのにこんな大名程度で終わってしまった、やり残してしまったことが多すぎる、だけど年が年だし、徳川の世にもなっており、もう何もできない、しかも徳川に潰されないように気をつかいながら生きていかなければならない、だから鬱々として心楽しくないのだ」と。
 ただそんなことをはっきり書くわけにはいかない。徳川に対する反旗と見られるからだ。だから「楽しまないでいられようか」ともとれるような結句にしたのかもしれない。
 こんな風にこれまで解釈してきた。

 何年間か忘れていたこの政宗の漢詩が最近になって再び記憶によみがえってきた。そして私の解釈が正しいとますます思うようになってきた。この年になって、一生をかけたのに思ったようにはならなかったという悔やみ、もう何ともならないと思ったときの寂しさ、こんなことがよくわかるからだ。
 本来からいえば、そんなことがいえるわけはない。こんな能力しかないのに大学で研究生活を送ることができ、多くの先輩、後輩、学生、友人に恵まれ、多くの農家の方々から親身にも及ばぬさまざまなお世話をいただき、家族や親戚にも恵まれ、しかも70までも生かさしてもらったのだから、そしておかげさまでいろんなことをさせてもらってきたのだから、つい最近でいえば網走で楽しい暮らしをさせてもらったのだから、文句はないはずである。それはわかっている。わかっていながらやはり何か楽しくないのである。
 学問的にも社会的にも個人の生活でも思ったことの何万分の一もできなかった。だけどもう能力と体力の限界である。疲れてしまった。これ以上自分の無能力さにいやな思いをしたくない。恥はかきたくない。これ以上のことを考えるのは未練というものだ。もうあきらめよう。
 そう思いながらもあきらめきれない気持ち、それがため息となって出るのだろうか。(2007年6月脱稿)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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