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人生の整理


                 わびしい日日是好日(6)

                  ☆人生の整理

 「今何をしておられますか」
 定年後、ときどき訊かれる。それに私はこう答える。
 「ただただ反省の日々を送っております」
 古い調査ノートを整理したり、本や書類など、必要なものと不要なものを整理したりして、まさに自分の人生を整理しているが、そうするとまさに反省することばかりなのである。そして憂鬱になる。
 そこで考える。このまま反省しながら、自責の念にかられながらこれからの老後を送りたくないと。それで、何かいいこともしてきたはずだと自分で自分をほめようとする。しかしそうすると、単なる自己満足ではないかと、また自己嫌悪の念にかられる。
 そこでまた考える。他人からほめてもらおう、うそでもいいからほめてもらおう。そうすれば気分良く生きられるのではないかと。
 そう願っているのだが、他人第一号の家内は私を絶対にほめない。それどころか私の欠陥を並べ上げ、罵詈罵倒する。まあそれも事実だからやむを得ないとは思うのだが、ときどきそれが誹謗中傷になるので、ついついこちらも罵詈罵倒してしまい、けんかになる(その逆だろうと家内はいうが)。これはやはり遠慮がないからであろう。
 そうなると家内以外の誰かに頼んでほめてもらうより他ない。ほめられるのはこそばゆいが、心地よいものだ。「ほめ殺し」されてもかまわない。どうせ老い先短かいのだから。ほめられてほめられて気持ちよく死にたい。そんなことを願っても無理なことはわかっている。そもそもほめられるようなことをしてこなかったのだから。それどころか意識すると否とにかかわらず人を傷つけてきた。しかも、子どもはほめて育てろというのに、学生にはほめもせずに怒ってばかりいた。といいながらも、いいところも私にあったのではないか、やはりほめてもらいたいとまた未練が出てくる。
 しかしいずれにせよそれは無理というものだ。そしたら、有森裕子ではないが、自分で自分をほめてあげよう。誰もほめてくれないのであればそれでがまんしよう。これだけのことをやってきたのだとほめてあげよう。失敗したこととか、し残したこと、いやだったこととかを思い起こすことはやめよう。そして一人悦に入り、満ち足りた気分で人生を閉じられるようにしよう。

 そんなことを考えながら、東北大学の研究室を引き払うとき、網走に引っ越したとき、また仙台に移るときにあわてて入れたままにしてある段ボール箱の中身を整理し始めた。そのなかの二つに、学外からのあるいはこちらからの調査の依頼文書を始めとする公文書などの書類がつっこんであった。これを古紙として処分しようと思って見てみたら、すさまじい数である。このなかに入っていないもの、すでに処分したものを含めればさらに多くなるだろう。よくもまあこれだけ各種の役職を引き受け、会議に出席し、また講演を引き受けたものだ、さらに東北六県はもちろんのこと全国各地の調査に歩いたものだ。まずこれで自分をほめあげよう。
 そう思いながら眺めていると、完全に忘れていてこんなことがあったっけかとまったく思い出せないこと、そう言えばこんなことがあったと思い出せること、いつだったか思い出せなかったがこの年のことだったのだと確認できたこと等々、非常に面白い。
 そう思って整理しているうち、ふと気が付いたことがある。年代により、依頼される講演のテーマや調査の課題がかなり異なっていることである。これを統計的に整理すれば、ある年に行政、農協、農家が何に関心をもち、何を知りたがっていたのか、何を求めていたのかがわかるのではないか。また、依頼されて書いた講演のレジュメを見れば、調査ノートを見れば、こうした課題に自分はどう応えていたのか、その応え方がどのように変わったのかがわかるのではないか。
 こんなことを考えながらいま整理にとりかかっているが、人生もそろそろ整理に近づいている年なのでちょうどいい。しかもいまあまり外に出たくない、人前に顔を出したくない。このことも家に閉じこもって整理するのにつごうがいい。
「文を書く」、「汗をかく」、「恥をかく」、これが年をとらないための秘訣だそうであるが、もうこれ以上恥はかきたくない。これまでかくだけかいてきた。思い出すといやになるほどである。いい汗どころか冷や汗が出てくる。もういやだ。ましてや老醜の身を人前にさらしたくない。こんなことからなるべく外に出ないことにしているのである。

 60歳になるちょっと前のころだったと思うが、列車に乗って本を読んでいた。ふと顔をあげてまわりを見回したら、斜め向かいの席に座っているオバタリアン4人が何やらぺちゃくちゃしゃべっている。その一人の声が耳に入ってきた。
 「この前新聞を見たら『60の老婆 車にはねられる』と出ていたの。それを見たときは、ふーん、お年寄りはしかたがないねと思って見ていたけど、考えてみたら私も60過ぎてるじゃないの」
 そしたらもう一人が言った。
 「私たちも老婆なのよねえ、がっかりしちゃう」
 続けてこんな声が聞こえた。
 「それでも自分はまだ老婆じゃないつもりなのよ、同じ年代の他人が老婆と呼ばれても何も感じないのに」
 「老婆なんていやな言葉ねえ、60ではまだ老婆じゃないよねえ」
 ひとしきり4人の声が騒々しくなった。
 それを聞いていて思わず苦笑いをしてしまった。自分もまったくその通りだからである。
 新聞などで何歳で亡くなったなどと言う記事を見ると、年だからしかたがないななどと思っているが、よくよく考えてみると自分の年とほとんど変わりないことに気が付いたりすることがある。自分ではまだ若いつもりなのである。もちろん自分の年齢はわかるが、それは理性でわかるだけであって、感性としては年寄りだと思っていないのである。しかし自分はもはや老爺なのだ。かつてであればよぼよぼになってるか、死んでいるかの年齢なのだ。
 美女がいた、しかし実はそれは醜い老婆だった、などという昔話がある。老婆は醜いものの象徴として使われてきた。その老婆=老爺に自分もなってしまった。若さがあればたとえ顔が醜くてもまだ救われる。しかし若さがなくなったら醜さしか残らない。そんなふうにはなりたくない。老いて醜くなった姿をさらして他人に不快な気持ちをいだかせ、のろのろ、よたよたの足取りで人に迷惑をかける、こんな年寄りにはなりたくない。きれいに年をとりたい。昔からそれを願ってきた。しかしそれはできなかった。自分の顔を鏡で見たりすると我ながらいやになる。歩き格好もまさに年寄りだ。努力してももはやどうしようもない。
 考えてみたら「いかにきれいに年を取るか」ではなく、「いかにきれいに死ぬか」を考えなければならない年齢になっているのだ。
 せめて自分が他人に不快な念をいだかせないようにするしかない。そのためのもっともいい方法は外に出ないこと、そして人と会わないことである。「文をかく」のも恥をさらすことになるが、まともな論文でなければ恥をかいてもたいしたことはない。そして、恥をかいても許してくれるような人にだけ雑文を書いて読んでもらい、ボケ防止に協力してもらえばいい(註)。
 そんなことでいま「引きこもり症候群」になっている。

 引きこもりのために散歩にも出ないが、庭仕事では外に出る。ある日のこと、庭に植えてあるオダマキの花が終わり、種子ができたことに気がついた。その種子をどこかに植えたらどうかと家内に言おうと思ったが、オダマキの名前が出てこない。
 昔から名前はど忘れするのだが、近年とくにそれが激しくなった。名前が出てこず、「あのあれ、ほらあれ」が始まる。わかっているのに、わからない。家内にもわかってもらえない。家内が度忘れしていることもある。ついついいらいらしてときどきけんかになる。
 けんかにならないように何とかしてその植物名を思い出そうと庭で草を取りながら頭をしぼっていたら、ふっと「しずやしず」という言葉が口をついた。そうだ、わかった。オダマキだ。
 そうなのである。静御前の歌が頭に浮かんだのである。
 「しずやしず しずのおだまき くりかえし」
 まさにこれは連想ゲームだ。人の名前もそうやって思い出すことがよくある。思い出そうと必死に考えるとそれと関連のある何かを思いつき、そこから連想して正解にいたるということがある。もちろんすべてそうやって思い出すわけではない。結局わからず、一時間とか一日とかたったときにふっと思い出したりすることになる。
 悲しくなる。もう年なのだ。もうもとには戻れない。まさに静御前の歌の下の句の通りである。
 「昔を今に なすよしもがな」
 あまりにもぴったりの歌を思い出したことに、思わず一人で苦笑いしてしまった。

 網走から帰ってきてちょうど1年過ぎた07年の3月、JRの仙台駅から空港までの線路、仙台空港アクセス線が開通した。私が網走通い等で空港をしょっちゅう利用しているうちに開通させればよかったものを、何で今頃とちょっと頭に来る。それでもともかくかなり便利になる。そのかわりに空港までのリムジンバスがなくなる。この7年間だけでも家内ともども何回利用したことだろうか。仙台に戻ってきての一年間、駅前のバスプールでリムジンバスを見ると仙台・千歳・女満別の空港がなつかしくなり、家内と二人、何ともいえない思いで見ていたものだが、そのバスもとうとうなくなる。網走はまたまた遠くなった。
 リムジンバスのなくなる前の日、からっ風の吹きすさぶ中、一人で駅にリムジンバスの写真を取りに行ってきた。お別れの記念のためである。バス停に「長い間ご利用ありがとうございました」の看板が立ててあった。いえいえこちらこそと私はバスに言いたかった。さまざまな旅の思い出、網走の思い出を作ってくれて本当にありがとうと。
 その後、市役所に行き、国民健康保険への切り替えの申請をしてきた。公務員、私学ときた「共済」ともお別れだ。そのうち人生ともお別れだ。
 そうは言いながらも、いまいった書類以外にも段ボール箱に入っていて整理しなければならないもの、処分しなければならないものがかなりあるし、言い残していることもまだあるので、この世にまだお別れするのにもう少し時間が欲しい、などとまたも未練が生まれてくる今日このごろである。何ともわびしい日日是好日である。

 こんなことを考えながら山積みされた調査ノートや書類を整理していたとき、私がまともに農村調査をするようになってからこれまでの50年間(生まれてからこの方の70余年ではなおのことなのだが)いかに世の中便利になったものか、世の中いかに変わったかを改めて痛感した。
 その変化をこれから追ってみることにし、その後に、東北農業の21世紀初頭の状況について述べることにする。
 なお、これまで述べてきたことと前後することもあるかもしれないが、ご容赦願いたい。また、なかには東北・農業・農村に直接的なかかわりのないことや単なる私的な思い出、個人的な考えでしかないこともあるかもしれないが、こんなこともあったのか、こんな考えもあるのかということで見ていただければ幸いである。(2007年6月脱稿)

(註)
 そう考えて本稿を書きはじめたのだが、それを変更してブログで公表することにした理由については、下記掲載記事で述べている。
  11年4月7日掲載・本稿第一部「第一部を終えるにさいして」

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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