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農家の男たちと口減らし(4)


          ☆身売り、だめ叔父、貧富格差

 前節で述べたような形で村の外に出られるならまだよかった。北海道の炭鉱などに行ったもののなかにはいわゆるタコ部屋労働、つまり監禁同様に長期間拘束されて非人間的な環境の下で重い肉体労働をさせられたものもあった。女性は料飲店などに身売りに近い条件で雇われ、紡績工場などでは『女工哀史』、『野麦峠』に書いてあるような長時間低賃金労働で女工として働かされた。戦前の日本は「インド以下的低賃金」、つまり植民地よりもひどい低賃金の国と言われ、それが日本の資本主義を成長させてきたのであるが、それはまさに農村が基盤となったのである。

 もっともひどい口減らしは娘の身売りであった。一九三四(昭和九)年の大凶作の年、山形の農民歌人結城哀草果は次のように詠んだ。
   「貧しさは きはまりつひに 年ごろの 
    娘ことごとく 売られし村あり」
 私は直接体験したことはないが、大学の恩師のHS先生からこんな話を聞いたことがある。戦前、中国の東北部にあった満州鉄道の調査部で働いていた先生は勤め初めの頃内地からくる客の接待をよくさせられた。そのときの金の支払い等で満州に売られてきた娼婦とのつきあいができた。彼女らと仲良くなっていろいろ話を聞くと、必ず家に仕送りをするという。売られたにもかかわらず、親を恨むどころか本当によく尽くす。とくに貧しい家の娘ほどそうだと。
 それを聞いたときふと疑問に思った。ふるさとに対する思い、家の苦しさに対する思いが仕送りをさせるのだろうけれども、ふるさとに自分を忘れてもらいたくないという思いからそうするという面もあったのではなかろうかと。

 身売りはもちろんのこと、たこ部屋労働などしたくはないし、させたくもない。しかしいまと違って当時は働き口がない。それでやむを得ず家に残らざるを得ない次三男もいた。うまくどこかの農家の婿にでも納まることができたらいいが、なかなかそんなチャンスはない。分家させることができればいいけれどもそんなに土地があるわけでもない。それで家に残る。当然厄介者扱いされた。私の地域ではそれを「だめ叔父」といった。
 私のもう一人の叔父Tがそうだった。肋膜炎を長いこと病んで家に残っていた。ようやく治って近くに新しくできた軍需工場に働きにいけるようになったが、そこに召集令状がきた。身体が弱いので丙種合格でしかなかったにもかかわらずである。ところが令状を受け取ったT叔父は小躍りして喜んだ。その姿が、そのときの玄関のようすまで含めて、未だに私の脳裏に強く刻まれている。家の厄介者の身分、しかも兵隊にもいけないという肩身の狭い思いから抜け出られるからだろう。そして中国の最前線に勇んで出て行った。
 当時の農家の次三男のなかには喜んで出征していったものがいたのである。
 結局T叔父は戦病死して帰って来なかった。あの身体では戦争に耐えられなかったのだろう。

 都市ではモボ、モガ、カフェ(註1)などとはしゃいでいた。しかし、農村部はそんなものとはまったく縁がなかった。都市と農村の格差はすさまじいものがあった。
 もちろん都市といってもすべての住民が豊かだったわけではない。多くの庶民はその日暮らしの不安定な生活を送っており、地主と小作人の格差と同じく、都市部においても貧富の格差はものすごく激しかった。
 第一次世界大戦の好況で都市に職を得て出て行った農家の子弟もそのほとんどは貧しい生活を送っていた。そして一九二九(昭和四)年の世界大恐慌のときにはまっさきに失業させられた。いまのような労働基準法はないし、失業保険があるわけでもない。食えない。そこで親兄弟を頼って農村に帰っていくことになる。それがまた農村を苦しめた。
 農村は、資本の必要とするときには労働力を供給し、不要になったときはその労働力を引き取るという、まさに都市商工業の労働力需給の均衡を図るための過剰人口のプールだったのである。

 岩手県に『外山節』という民謡がある。そのなかに次のような歌詞がある。
   「外山育ちでも 駒コに劣る
    駒コ千両で 買われゆく」
 まさにその通りだった。東北の農民は牛馬並みに働きながら牛馬以下の価値しかなかったのである。
 とってもいい歌詞だと思う。しかしどうしても腑に落ちないことがあった。古い民謡にはこんな歌詞があるわけない。江戸時代の農民は、貧乏、過重労働、身分差別にとくに疑問を持たなかったはずだからだ。よその国でも見聞きしていればおかしいとか感じるだろうが、そんな情報はない。しかも日本全国みな同じであり、何世代も続いてきたことでもある。だからそれは当たり前のことであり、前世から定まっている宿命だと考えていた。農民はもちろんすべての階層が疑問など持たなかったのである。だから唄で貧富の格差を嘆くわけはない。明治以降資本主義社会になったにもかかわらず、昭和になってさえ、格差に疑問をもたない農家が多かったからだ。
 母方のH叔父も、小さいころは貧乏を何とも思わなかった、特別不満ももたなかった、みんな貧乏だからそれが当たり前だと思っていたという。そして、貧しいのだから、次男だから当然だと思って、特に不満をいだくこともなく十四歳で故郷を離れ、やがて満州に渡った。ところが私は貧乏に強い不満をもった。身分相応などとあきらめられなかった。そのことを私が東北大を定年になったときに出さしてもらった『東北農業とともに歩んで』という冊子に書いた。それを読んだH叔父は、町場に住んでいたものと純農村に住んでいたものとの違いからくるのだろうかという。
 私も小さいころは貧乏を特別に意識しなかった。まわりの人たちも程度の差はあれみんな貧しかったからである。しかし、町の中にはいろんな人がいた。商人や造り酒屋、旧地主、高級サラリーマンなどの金持ち、働かなくとも贅沢できる人たちがいた。大きくなるにしたがって付き合う社会が広がり、そうした人たちを目の前で見るようになった。そして農民は都市住民からどん百姓と軽蔑されている事も知った。私はそうした格差を感じることのできる町場に、それを感じられる年齢まで住んでいたのである。しかも戦後の民主教育を受けている。そこに小さかったころのH叔父との違いがあるのかもしれない。

 学生時代、弁証法の発展段階論を勉強したとき、即自(an sich=アン ジッヒ)、対自(für sich=フィア ジッヒ)という言葉がでてきた。即自とは「発展の要素をすべて潜在的に含みながら、なお未発展の状態にとどまっている段階」のことを言い、対自とは「他者との対立において自己を自覚する段階」、さらに即自かつ対自(an und für sich=アン ウント フィア ジッヒ)は「この対立が統一されて一段高い状態に止揚された段階」のことだと本には書いてある。しかし、私は昔から自分なりの言葉におきかえて、あるいは具体的な例でわかりやすくしないとなかなか理解できない。ましてやそうしなければ学生にも説明できない。学生のゼミで使っていた本の栗原百寿『農業問題入門』にこの言葉がよく出てくるのでどう説明するかいろいろ考えた。
 ある時から次のように説明することにした。世の中に自分一人しかいなければ自分がわからない、たとえば自分がもっているいろいろな特徴などわからない、これが即自(an sich)の段階である。他人がいて、その他人と比較して初めて自分とはどういうものか、背は高いのか低いのか、いい性格なのかいやな性格なのか等々がわかってくる、これが対自(für sich)の段階だ。さらに進んで、他人のいいところも取り入れて自分をよりよくしていこう、弱点もいい側面となる場合もあるのでそれも長所とあわせてより高い段階で生かしていこうとし、みんながよくなっていくのが、即自かつ対自(an und für sich)の段階であると。きわめて不正確だが、学生諸君は大意を理解してくれたと思っている。
 この理論を適用すれば、H叔父、そして私の小さい頃はまさに即自(an sich)の段階にあったことになる。付き合う範囲が狭かったから、そしてみんな貧乏だったから、自分が貧乏だなどとは考えなかった。しかし私はいろいろな階層のいる町に住んでいた。やがて大きくなる中でそれを自覚するようになる。そして、世の中には格差がある、そのなかで自分はいったいどういう地位にいるのか、自分は貧しいのではないかということに気がついてくる。まさに対自(für sich)の段階へと発展する。さらに、民主教育を受けたこともあって、こうした貧困をなくしたい、みんなが平等に豊かに生きていけるような世の中にしたいと考えるようになった。これは即自かつ対自(an und für sich)の段階に進もうとしたことになる。

 江戸時代の農民は自分の貧しい生活を当たり前のことだと思っていた。つまりan sichの段階にあった。そして農民はあきらめていた。
 私の小さいときでさえそうだった。あの人が持っているのに自分にはない、あの家で食べているのにうちでは食べられないなどとよそと比較して不満を言うと、「上を見ればきりがない、下を見てもきりがない」と祖母から怒られた。要するに、身分相応、適当にあきらめろというのである。多くの農家はおそらくこういうことを言ってあきらめてきたのだろう。
 しかし、自由民権運動や大正デモクラシーの影響で、人間はみな平等ではないか、にもかかわらずなぜ貧乏でなければならないのか、何でこんなに格差があるのかと考える農民も生まれていた。つまりfür sichの段階に進みつつあった。
 そうした農民の目覚めの一端が『外山節』の歌詞となっているのではないか。そう思って調べてみると、この唄は岩手県玉山村(現・盛岡市)に明治中期につくられた外山牧場に雇われた牧夫たちが歌った草刈り唄で、昭和初期に採譜されたものだということがわかった。それで納得できた。自らの貧乏を意識し、それを当たり前のことではないと考えるようになっていた時代に生まれた唄だったのである。だから貧富の格差を馬に託したあの歌詞が牧夫みんなの手でつくられたのだった。
 こうした農民の意識の高まりが行動となり、二十世紀に入って小作争議などの農民運動が全国的に展開されるようになってきた。つまりan und für sichの段階に進もうとした。東北でも、一九二〇年代から平坦稲作地帯を中心に小作争議が広汎に展開されるようになり、一九三〇年前後からは山形県村山地方などの養蚕地帯を中心に地主や高利貸に対する闘争が展開された。この運動は、すさまじい弾圧と戦争の激化のなかで一九三〇年代後半に壊滅させられた。
 しかしこの運動の成果は戦後の農地改革となって開花した。この戦後についてはまた後に述べることにして、もう少し戦前のことを見てみよう。

(註)
1.モボ、モガは「モダン・ボーイ」「モダン・ガール」を略したもの、カフェは「女給のいる社交喫茶」で、大正末から昭和初期にかけて流行した。
2.年末年始は休みとし、1月5日から再開する。
3.次回から「むら社会」について述べる。
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コメント

[C4] ご健在ぶりに感激です!

 あけましておめでとうございます。
 酒井先生の、語り口を、またお聞きすることができて感激です。ブログの立ち上げ誠におめでとうございます。

 東北大での退官記念講演で、やっと先生の偉大な業績の一部を垣間見ることできできたような気がいたしましたが、それがこのような形(ブログ)でまた、お目にかかることができて、うれしい限りです。

 私は、昭和30年代の最後の生まれですが、かろうじて、戦中の状況を直接家族という媒体と通じて知ることができた世代だと思います。また、田舎の昭和の農家を肌で感じていると思っております。
 しかし、日常生活では、ましてや子育てにおいては、私が体験したことの微塵も次の世代に伝えてあげることができないと、もどかしさと寂しさを感じているこの頃でした。
 そのような中、酒井先生のブログは誠に頼もしい存在であると感じられます。
 どうか、末永く、存分に書きつづられることを御祈念申し上げます。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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