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むらで言う「隣り」は遠かった


                 調査地への移動手段の変化(1)

                ☆むらで言う「隣り」は遠かった

 これまで述べてきたような準備をして農村調査に行くのだが、かつてはなかなか調査に行けなかった。交通のまだ不便な時代、時間がかかり、金もかかるからである。北海道や西日本などの遠隔地の調査はもちろんのこと、同じ県内でも大変だった。公共交通機関の通るところ以外は歩くしかなかったからだ。しかもその路線、本数は少ない。ともかく公共交通機関で行けるところまで行き、そこからまず宿泊地もしくは役場や集落集会所など調査拠点としたところまで歩く。歩ける距離ならまだいい。そうでないときには役場などにお願いしてトラックを調達してもらい、その荷台にみんなで乗ってでこぼこ道路を走り、ほこりだらけになりながら目的地に向かったものだった。
 大学院に入ったばかりの1958(昭和33)年に参加させてもらった牡鹿半島での漁村調査がそうだった。行きは国鉄石巻線の女川駅から船だったが、帰りはトラック(どこのものでだれが調達してくれたのかなどは記憶にない)だった。調査地点の海岸からくねくねとした細い山道を登り、両側に海の見える山の上の景色のいい道(もちろん未舗装、後に整備されてコバルトラインとなった道路ではないかと思うのだが)に出て長い時間走り、ようやく女川の町に着いた。このトラックの荷台に人間が乗るのには警察の許可が必要だが、許可をとったのかどうかはわからない。
 1962(昭和37)年に学生の農家調査実習で東北大の川渡農場(宮城県大崎市鳴子にある)の近くにある上ノ原開拓地に行ったときはきちんと許可をもらって乗った。大学付属農場のトラックだから当然なのだが、学生二十数人と引率のわれわれ教職員がさわやかな風をうけながら赤とんぼといっしょに荷台に乗ったこと、調査した開拓農家の方がやっと開田して去年初めて米が穫れた、これで経営と生活の基礎ができたと喜んでいたことが忘れられない。
 なお、家内は、中学時代の1950(昭和25)年、学校行事の蔵王登山に行くときに学校から登山口までトラックの荷台に乗せられて行ったという。それを聞いたときはちょっとびっくりしたが、当時は子どもたち、公的行事でもトラックを使っていたのである。

 朝早く家を出て、本数が少なくしかものろのろ運転の列車とバスを乗り継ぎ、さらにその停留所からとことこ調査農家まで歩く。これが当時普通だったのだが、帰りのバスなどに乗り遅れたら大変なことになる。自家用車などない時代だから歩くより他ない。
 1959年、宮城県南郷村(現・美里町)の調査のとき、帰りの最終バスに乗り遅れてしまい、真っ暗な中、雨の中、どろどろの道路(未舗装だから当時はそれが当たり前だった)を一時間以上歩いて、ようやく鹿島台駅前の宿にたどりついた。仙台から1時間もかからないのだから宿などに泊まらず往復して調査できるはずなのだが、列車の本数は少ない、早朝や夜遅くの列車がない等々から当時は近くでも泊まらざるを得なかったのである。
 泥濘(ぬかるみ)の中をそれだけ歩いたものだから、大学に入った時にM叔父に買ってもらったチョコレート色の革靴が壊れてしまった。生まれてはじめて履いた、6年間毎日履き続けた革靴、とっても悲しい思いをして廃棄したものだった。

 調査のときは、調査拠点(調査員の集散場所)を集落の代表者の農家のお宅もしくは集会所におかせてもらう。調査員はそこから調査農家にでかけ、終わったらそこに戻り、また調査に行く。持参した昼ご飯はそこで食べさせてもらったり、いろいろ打ち合わせをしたりもする。帰りはそこから宿泊地まであるいは仙台までみんないっしょに徒歩か公共交通機関で帰る。
 この調査拠点から調査農家までだが、当然歩いた。けっこう遠い。でも当時は町場でも歩くのが普通だったからとくに何も感じなかった。
 ある農家の調査が終わった後、次にお訪ねする農家の名前を言ってどのへんに家があるかを聞くことがある。するとその農家の方は
 「ああ、隣りだ」
と、道を教えてくれる。それにしたがって歩く。ところがなかなか着かない。まちがったのかと心配になるほど遠く、数分かかってようやく到着ということさえある。でも、たしかに隣りは隣りである、そこに行くまで一軒も家がないのだから。しかしその距離はかなりある。
 「すぐそこだ」
 こう教えてくれるときはもっと遠い。とくに散居集落や山村集落ではそれに参った。
 「村でいう『隣り』、『すぐそこ』は遠いと思え」
 そう言って笑ったものだったが、夏の暑いときなど「隣り」に行くのにへとへとになったものだった(註)。
 なお、庄内地方のような密居集落の場合はそんなことはない。隣りの家はすぐ近い。しかし隣りの集落はかなり遠い。集落を超えた調査の場合は、やはり「隣り」は遠いと感じたものだった。

 こんな時代である。もう一度改めて調査に来るなどというのは容易ではなかった。長距離電話で聞き直すなどというのは時間(呼び出し)も金もかかってできないし、そもそも農家に電話がなかったこともある。だから、調査漏れや聞き落としなどあったらもう二度と聞けないと思わなければならない。それで調査が終わったら必ず調査票を見直す。すると、話があちこち飛んでついつい聞くべきことを聞き漏らしたりしていることが見つかる。また、聞いた中にきわめて不正確なものやよくわからなかったことがあったりもする。さらに、時間がなかったりして全部聞けなかったことなどもある。そのときには翌日補足調査でもう一度おじゃましてお聞きすることになる。しかし、そんな時間がとれない場合もある。また後で調査項目以外にこんなことも聞くべきだったと後悔することもある。そこで必要となるのが綿密な調査だ。そして、直接調査に関係のないと思われることもきちんと聞いてメモしておくこと、集められる資料はすべて集めることも必要となる。結局は使わなかったということがあってもいい、できるかぎりのことをするのである。
 何度か私の調査に同行した後輩研究者のKA君が、私の調査を評して「地べたをはいずり回るような周到綿密な調査、それを一切忘れたかのような華麗な理論展開」と、みんなに言ったという、。後段のことは別にして、調査に関してはまさに彼の言うように努力したものだった。

 しかし、時代は大きくしかも急激に変わって行った。そのことを一番最初に感じたのは75年ころだった。
 農家調査から帰り、研究室でみんなそれぞれ調査票の整理をしていたときのことである。大学院生のKH君(後に大阪にある大学の教授になった)が農家に長距離電話をかけていた。調査漏れがあったのでそれを聞いていたのである。私は怒った。
 きちんと調査をするというのは研究者としての基本である、それを聞き漏らしてきたとは何事か。さらにそれを研究室の電話で聞く、つまり公費を使って自分のミスを補うというのはまことにけしからん。さらに忙しい農家の方を電話口に呼び出して聞く、こんな失礼なことがあるか。聞き漏らしたのなら、自費でもう一度農家のところに補足調査に行ってこいと(もちろんそんなことはできるわけはないのだが)。
 そのときに感じた、電話で補足調査ができる時代になってきたのだなと。
 しかも、そのころは調査に行くのも比較的簡単にできるようになりつつあった。昔と違って運賃は相対的に安くなり、時間も早く、近くならば車で簡単に行けるようになりつつあったのである。
 また、先に述べたように調査必携品だったもののなかに持って行かなくともすむようになったものが出てきた。必携品の準備にもそれほど時間がかからなくなった。ともかく便利になった。
 調査それ自体も、調査成果のとりまとめも、たとえばコピー機やパソコンの普及等で、また便利なものが豊かに安く出回るようになるなかで、かつてとは比べものにならないくらいスピードアップした。

 ともかく便利になった。調査ばかりではない、われわれの生活全体がそうなった。それは社会の生産力、その基礎をなす科学技術、とりわけいわゆる情報技術が急速な発展をとげたことによってもたらされたものだった。それは本来われわれの暮らしをさらによくすることにつながるものであり、二一世紀の豊かな展望を切り開くべきものだった。現実には必ずしもそうならなかったのだが。そんなことを交通手段の利便さの進展という面から次回以降見てみよう。

 次回掲載は5月7日(月)とする。

(註) 北海道の農村部での「隣り」はさらに遠い。これについてはまた後で触れたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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