Entries

東北における国鉄路線の新設



                 調査地への移動手段の変化(2)

                ☆東北における国鉄路線の新設

 1950年代以前の長距離移動手段は列車しかなかった。曲がりくねったでこぼこ道路を当時のバスで長距離移動するなどというのは時間的にも経済的にもさらには身体的にも難しく、ましてや飛行機で旅行するなどということは考えられなかった時代だったからである。
 しかし、列車には不便なことがあった。列車は線路と駅がないと利用できないことである。それで線路の通っていない地域の住民にとってその敷設が悲願だった。

 1969年の夏、秋田県西木村(現・仙北市)の山村振興調査に行ったときのことである。田沢湖線の角館駅から西木村まで役場の車で案内していただいたとき、道路に沿って線路敷設の工事のようなものをやっているのを見た。役場の人に聞いてみると、その通り、鷹巣・大館の方とつなぐ線路で今建設途上だと言う。
 それを聞いたら、突然うれしくなった。まだ線路を敷いていない造りかけの路盤や橋梁は私の胸を熱くした。なぜなのだろうか。我ながら不思議だった。
 地域住民の悲願がようやくかなったからなのだろうか。それもあるだろう。
 角館・西木から一山越えた北隣の阿仁合の村や鷹巣、大館に行くのに徒歩しかなかった。しかし鷹巣から阿仁合までは阿仁鉱山があったために線路ができている。それでそれとつなげる線路をつくりたい。すぐ隣り村なのに列車で行くと奥羽本線で秋田・能代を通ってぐるっと大回りし、その上に鷹巣で乗り換えてしかも自分の住む家の方向に向かって逆行せざるを得ないなどということがないようにしたい。その住民の願いが今かなえられつつある。たしかにそれはうれしい。
 でもそれだけでなさそうだ。子どもの頃、こうした不便さをなくすためにもっともっと新しい線路を東北のあちこちにつくりたいと考えていたことが、山形方面からまっすぐ内陸部を通って大館・弘前方面に行けるようにもしたいなどと夢想していたことが、現実のものになりつつある、これが胸を熱くしているのではないだろうか。

 地図好き、列車好きだった中学のころの私は、もっと東北に線路をつくりたいと地図を見ながら夢想していた。
 まずやりたいと思ったのは、途中途切れている線路をつなぐことである。これが東北にはかなりある。山形で言うと、国鉄の左沢線(山形―左沢)と長井線(赤湯―荒砥)がつながっておらず、切れている。そこでそれぞれの終点の左沢駅と荒砥駅をつなぐ線路をつくり、最上川に沿った線路を完成させたい。その他、太平洋岸と日本海岸を結ぶ線路のなかに建設途中で途切れていると思われる線路が各地にある(たとえば現在の田沢湖線、途中で途切れていた)のでそれをつなぎ、さらにもっと増設が必要と思われる地域があるので、それをつくりたい。
 次にやりたいのは、三陸沿岸の太平洋岸を縦断する線路の敷設だ。東京から仙台までは太平洋岸を通る常磐線があるのに、その太平洋岸の北の方に線路がないのはおかしい。岩手県はかなり広いのにこれではきわめて不便である。日本海岸を通る羽越線・五能線があり、内陸を通る東北線や奥羽線があるのに、これでは不平等、片方が欠けているのは路線図としてみてもアンバランスだ。
 さらにもう一つ、奥羽山脈と出羽丘陵の間を通る線路の貫通だ。米沢―山形―大曲の間は奥羽線があるが、その南の米沢―会津の線路がない。また北でいうと大曲―大館・弘前の直通がない。秋田を経由していけばいいかもしれないが、秋田は羽越線・日本海路線の一部であり、かなり遠回りになる。
 この「日本海路線」、常磐・三陸を通る「太平洋路線」、その両路線の間に奥羽山脈と阿武隈・北上丘陵の間を通る「東北本線」、さらにもう一つ奥羽山脈と出羽丘陵の間を通る会津から弘前までの「奥羽内陸線」、この南北に縦断する4本の線路、そしてそれを東西に横断的に結ぶ多くの線路をつくりたい。
 こんなことを適当に地図上に思い描いてみたり、授業時間中ボーッと考え、こっそりノートに線路図を描いてみたりしたものだった。このうちの奥羽内陸線の夢想の一部が現実化しつつあったのである。
 そして、1971年に角館線として角館―松葉間が開業した。まだ松葉―比立内間が未完成で秋田内陸縦貫鉄道全線開通とまではいかなかったが、ともかく一歩近づいた。

 一方、三陸縦貫鉄道については、私などが考えるまでもなく、とっくの昔に計画が立てられていた。戦前の場合は軍事的な必要性もあったかららしい。
 もちろん、地域の人々の悲願だったことは言うまでもない。三陸沿岸はリアス式海岸であるために漁場としても景観としてもきわめてよいが、そのことは逆に交通の不便さをもたらしていた。道路は山また山、大小無数の川、断崖絶壁の複雑に入り組んだ入り江を越えていかなければならず、まともな道路がないところさえあった。大量輸送手段としてのここを貫く線路が欲しい、これは当然の希望だった。
 こうした声に応えて昭和初期から敷設にとりかかり、東北線から線路が来ている八戸、宮古、釜石、大船渡、気仙沼等の各所から少しずつ少しずつ延伸してきた。そして1970年代末には釜石と宮古の近くの一部を除きほぼ完成となってきた。
 ちょうどその頃、たまたま宮城県志津川町(現・南三陸町)で講演を頼まれ、仙台から東北線に乗り、小牛田・前谷地の石巻線を経由して新しい線路に入り、志津川のまだ新しい駅のホームに降り立って新しい敷石、レール、駅舎を見、その何とも表現できない新しい匂いをかいだとき、この線路がもうすぐ青森までつながるのだと考えたときは、感無量だった(註1)。

 さきほど述べた田沢湖線、途中途切れていたと言ったが、これは1966年に全通した。
 また、東北本線のバイパス線として東北線と常磐線の間を通って福島に抜ける線路敷設の計画も進められ、東北本線の槻木駅から宮城県南東部の丸森までの線路が丸森線として68年に開通した(註2)。
 さらに、60年代後半から、東北・奥羽本線と多くのローカル線とを結んで乗り換えなしに東北の各地に行ける準急、急行が仙台から何十本も走るようになった(註3)。
 こうして東北のなかの列車の便はよくなってきたし、さらに線路の新設でその利便性が増すであろうと期待を抱かせたものだった。

 なお、三陸縦貫鉄道は1984年に、秋田内陸縦貫鉄道は89年に、ようやくにして全線開通した。そのころはローカル線の廃線が騒がれる時代になりつつあり、それとも関連して三陸縦貫鉄道の大部分、秋田内陸縦貫鉄道の全線が第三セクターとなってしまったけれども。

(註)
1.この草稿を書いたのは2010年春だったが、それから一年後、この線路が、志津川駅が、そして三陸縦貫鉄道全線が、大震災で壊滅状態になった。考えもしなかった悲しい出来事だった。何とか早く全線復活させてあげたいものである。
2.11年1月18日掲載・本稿第一部「☆線路と歩き」(1、3段落)参照
3.このことについては下記掲載記事に詳しく書いている。
  11年7月25日掲載・本稿第二部「☆輸送時間の短縮と大都市向け野菜の導入」(1段落)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR