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国鉄ローカル線、バス、軽便鉄道の変化




                 調査地への移動手段の変化(3)

              ☆国鉄ローカル線、バス、軽便鉄道の変化

 札幌から網走までJR石北線に乗った家内が網走の友人に『電車』に乗ってきたと言った。そしたら友人が笑いながら「さすが内地の人、私たちは『汽車』と言うものねえ」と言ったという。そうなのである、北海道のJRは電車が走っていない。だから汽車だという。
 そういえば東北に住むわれわれもそうだった。かつては東北の線路も電車が走っていなかった。だから、東京の人たちが当時の国鉄、現在のJRの列車を電車というのを奇妙な感じで聞いたものだった。私たちにとっては汽車だったからだ。
 そのうち蒸気機関車が数両の客車を牽いて走るという姿は見られなくなってきた。本線は電気機関車にひかれた列車が、ローカル線はディーゼルカーが走るようになった。そうなるとそれらを総称して何と呼ぶかが問題となる。私たちは最初やはり汽車と呼んでいた。でも新幹線が走るようになると、どうもそうは呼べない。やがて東北でもみんな電車と呼ぶようになってきた。しかしディーゼルカーは電車ではない。しかもそれが走っている路線はけっこう多い。だから私としては電車と呼びたくない。それではどう総称するか。いろいろ考えた末、私は『列車』と総称することにした。
 しかし、よくよく考えてみると、列車というのもおかしい。ローカル線では1両編成も走っているからである。1両なら、列車つまり列をつくっている車両、連結した車両ではないのである。おかしいと思いながらも、将来ローカル線の走るところの過疎問題が解決し、連結した車両、本来の列車が走るようになることを願いながら、列車という言葉を使っている。

 ところで、ディーゼルカーが導入される前に「ガスカー」なるものが走った時期があった。私の高校時代(1950年代前半)、山形の左沢線でのことである。蒸気もしくは電気以外の動力で走る列車をこのとき初めて見た。後のディーゼルカーとほぼ同じ形をしているのだが、珍しかった。鉄道好きの私のこと、乗って見たかった。しかしお金がない。そこで、同じ鉄道好きの同級生と2人、汽車通(汽車で通学している生徒をこう呼んだ)の同級生2人から定期券を借り、放課後それを使って無料で往復させてもらった(不正乗車なのだが)。蒸気機関車と違ってうるさくないし、出発後すぐにスピードがあがり、停まるときもスムーズなのに感心したものだった。山形は天然ガスが豊富なのでそれを利用できるから山形で走ることになったのだが、数年してガスカーはディーゼルカーにすべて変わってしまった。輸入石油にはかなわなかったのだろう。
 それはそれとして、ディーゼルカーになった列車は蒸気機関車で牽引されていたときよりもずっと速くなった。蒸気機関車と違って運転席が車両の前と後にあり、転車台を使って前後を逆にする必要もないので、時間が節約でき、本数を増やすこともできた。
 この点ではローカル線もよくなった。
 70年ころ、このローカル線でこんな情景が見られたものだった。

 1両編成のディーゼルカーが田んぼのなかをとっとことっとこ走る。小さな無人駅に着く。
 腰を曲げたおばあさんが田んぼの中の小道を走ってくるのが窓から見える。きっとこの列車に乗りたいのだろう。でももう間に合わないかもしれない。そう思って見ていると、運転手さんもそれをジーッと見ている。待ってくれているのだ。
 息をはあはあさせてホームへの坂を上り、列車のドアにたどりつく。席につくのを待ち、汽笛を鳴らして列車は出発する。
 乗客は誰も何も言わない。みんなほっとしたような顔をしている。

 2歳くらいの女の子を連れた母親が困っている。おしっこしたいと子どもが言っているのだが、車内にトイレがないのだ。
 田んぼの中の駅に着く。当然駅にもトイレがない。運転士さんが言う。
「どこでもいいから外でさせてあげなさい。待ってるからゆっくりでいいよ」
 母親は頭を下げ下げ、外に出て向かい側の線路のところでおしっこをさせる。少したって戻ってくる。女の子はきげんがいい。母親は改めて深々と頭を下げる。運転手とまばらに座ってる乗客両方に向かってだ。
 乗客は発車時刻が遅れても何も言わない。列車は動き出す。何とも暖かな気持ちになる。
 ローカル列車はこれがよかった。

 国鉄の各駅から走るバスの路線が増え、本数も増加した。バスは大都市ばかりでなく、村や町を縦横に走るようになった。
 前に突き出していたボンネットがなくなったバスは客席が増え、またスピードが速くなり、揺れも少なくなった。
 なお、トレーラーバスなどというのが戦後の一時期走ったことがある。運転手だけが乗る運転車と乗客が乗る客車(車掌も乗っている)とに分かれ、運転車が客車を牽引して走るのである。今までのバスからするとかなり大型でびっくりしたものだが、なぜこんな形のバスが導入されたのかよくわからない。乗客は普通のバスよりたくさん乗れたが、細い道で四つ角などを曲がるのはかなり大変だった。道路の広いアメリカからの直輸入のバスではなかったかと思うのだが、10年くらい過ぎたら見られなくなった。
 それはそれとして、ともかく以前から見るとバスも便利になった。もちろん広大な農村部のこと、停留所から家もしくは用件のあるところに行くのに遠いということはあったけれども、昔は考えられなかったことだった。本当にいい世の中になったと思ったものだった。

 しかし、もう一方で、農村部の国鉄の駅を起点に走っていた軽便鉄道が廃止されつつあった。
 軽便鉄道などと言っても若い人たちにはわからないかもしれないが、辞書によると「線路の幅が狭く、機関車・車両も小型の小規模の鉄道」とのことである。山形県の場合は高畠鉄道、三山電鉄、尾花沢鉄道、庄内電鉄、宮城県では秋保電鉄、仙北鉄道、栗駒電鉄があり(註1)、他の四県にもたくさんあったが、いずれも大正末から昭和初期に敷設され、当初はさらに延伸を計画していたものだった。
 なお、宮城県には仙台鉄道というのもあったらしいが、私が仙台に来た時にはなくなっていた(註2)。
 それから、戦後山形駅から上山まで当時の国道13号線沿いに鉄道をつくろうと線路やホームまでつくった(私の生家の田畑の若干もその一部となった)が、資金不足で中止になり、もとの田畑に戻ってしまった。できたとしても、いずれはつぶれる運命にあったのでこれでよかったのか、高度成長以降その沿線が住宅地になったのでうまく生き延びたかはわからない。
 こうした軽便鉄道のなかには栗駒電鉄のように細倉鉱山のためにつまり鉱工業用としてそもそもつくられたものもあったが、いずれの軽便鉄道も地域住民の重要な足であった。1960年代にはこのこの栗駒電鉄と国鉄の相互乗り入れなどもなされ(註3)、非常に便利になったものだった。
 しかし、宮城・山形の場合、70年前後に栗駒電鉄を除いてすべて廃線となってしまった。その栗駒電鉄も今はない。他の県でも同じだった。
 なお、東北で今も走っている軽便鉄道は、私の知るかぎりでは津軽鉄道(五能線五所川原駅―津軽中里)、弘南鉄道弘南線(奥羽本線弘前駅―黒石)・大鰐線(奥羽本線大鰐駅―弘前市中央)、十和田観光電鉄(東北本線三沢駅―十和田市)、福島交通飯坂線(東北本線福島駅―飯坂温泉)のみである(註4)。何とかがんばってもらいたいのだが、何しろ人口減少の進む地帯、しかも地方財政悪化、きわめて困難な状況のもとにおかれており、いずれ消え去ることになるのかもしれない。そして草の生い茂った中に残る一部のさびついた線路やホームが鉄道マニアの撮影場所として知られるだけになってしまうのだろう。
 話をまた70年代に戻すが、小さな軽便電車がのんびりと田んぼのなかを走っていた風景、これはもう過去のものとなりつつあった(註5)。そしてそれは、国鉄のローカル線の廃線、これ以上の路線新設の中止を予測させるものだった。同時にそれはいつかはバス路線の廃止につながるのではないかと危惧させるものでもあった。

 さらに問題なのは、いかに交通が便利になったと言っても、関東から西の地方から比べるとまだまだだったということである。
 1968年の晩秋、青森県の十三湖干拓に関する調査に行った。そのときの調査ノートを開いてみたら、仙台発7時40分、弘前着15時30分と書いてあった。この年東北本線が全線電化複線化したにもかかわらず、特急列車を利用しても約8時間かかったのである。それから東北農政局の車に乗って現地の十三湖畔の旅館に着いたときはもう真っ暗だった。
 同じ東北でも仙台からするとともかく青森は遠かった。日本海側も遠かった。調査に行くのも容易ではなかった。九州はもちろんのこと関東・関西等、他の地方からとなるとなおのことだつた。津軽の調査などはましてやそうだった。
 いうまでもなく津軽は有名なリンゴ作地帯であり、70年代には日本一の単収をあげた米どころでもあり、水利の複雑さでも有名である。ところが、農業経済学者は弘前大学の人以外あまり津軽の農業を調査していない。それを実感したのは1978年だった。北海道から九州までの研究者が全国各地の農地流動化の実態を共同で調査しようということになり、東北はどこを調査するかということになった。そこで希望をとったら津軽に行きたいという。なぜかと聞いたら一度も行ったことがないからだとほとんどの人がいう。当時の著名な農経学者のSKさんでさえ1950年に一度調査に行っただけでその後行ったことがないので行ってみたいという。驚いた。考えてみたらなるほどと思った。ともかく津軽は遠かったのである(註6)。
 東北はまさに「道の奥」だった。
 東海道新幹線が1963年に開通し、東京―大阪間が3時間になっているときに、それよりずっと距離の短い仙台―弘前間は8時間、東京―仙台間は4時間半もかかっていたのである。

(註)
1.高畠鉄道・奥羽本線糠ノ目駅(後の高畠駅)から二井宿まで(開業1921-廃線74年)、
  三山電鉄・左沢線羽前高松駅から間沢まで(1926-74年)、
  尾花沢鉄道・奥羽本線大石田駅から尾花沢まで(1926-70年)
  庄内交通湯野浜線(庄内電鉄から戦中に改称)・羽越線鶴岡駅から湯野浜温泉まで(1929-75年)、
  秋保電鉄・東北本線長町駅から秋保温泉まで(1925-61年)、
  仙北鉄道・東北本線瀬峰駅から登米まで(1921-68年)
  栗駒電鉄・東北本線石越駅から細倉鉱山まで(1921一07年)
2.北仙台から陸羽東線中新田駅(現・西古川駅)まで国道4号線より西側を走っていたとのことだが、戦後の相次ぐ台風で被害を受け、1950年廃線となったとのことである。

3.当初は線路の幅が狭かったが、後に国鉄と同じ軌道幅にしたために、乗り入れが可能だった。
4.この草稿を書いていた時には十和田観光電鉄は動いていたのだが、12年3月、とうとう廃止となってしまった。調査のとき、十和田市にある北里大学獣医畜産学部での講義のときなど、何度も乗ったなつかしい電車なのだが。
5.秋保電鉄の廃線の経過については下記掲載記事で述べている。
  11年6月1日掲載・本稿第二部「☆開発の進展」(4段落)
6.この津軽の調査については下記掲載記事で述べたが、その調査のきっかけはここに書いたことからだった。
  12年3月7日掲載・本稿第三部「☆北の人は無口?」(2段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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