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新幹線の時代へ




                 調査地への移動手段の変化(4)

              ☆新幹線の時代へ―容易になった遠隔地の調査―

 1982年、東海道新幹線に遅れること18年、山陽新幹線の博多までの開通に遅れること8年にして、ようやく東北新幹線が上野から盛岡まで走るようになった。また92年には山形新幹線、97年には秋田新幹線が開通し、山形庄内地方の人々は上越新幹線を利用できるようにもなった。西日本・太平洋ベルト地帯に比較して遅れに遅れたが、東北も新幹線時代を迎えるようになった。
 私の住む仙台からいえば、東京へはもちろんのこと、秋田、盛岡、福島への移動時間も大きく短縮され、青森へも盛岡乗り換えはあってもかなり速くなり、農村調査などの私の仕事は非常に楽になった。といっても、新幹線から外れた秋田県北の大館、西の仁賀保、南の湯沢、青森の下北、津軽半島などの地域への移動にはちょっと時間がかかった。もちろん、新幹線以前から比べると格段の速さで行き来ができるようになっており、やはり喜ばしいことであることはいうまでもない。
 しかし、ちょっと淋しい感じをいだいたこともあった。新幹線ができるたびに私たち東北人のなじんできた急行・特急列車がなくなることだ。たとえば4時間ちょっとで仙台から上野まで行けるということで60年代後半から何回となく利用した特急「ひばり」が東北新幹線開通と同時になくなり、集団就職が盛んな頃から走り始めた奥羽本線経由の青森―上野間の急行「津軽」は山形新幹線開業と同時に廃止された。
 なお、「津軽」は、山形新幹線工事中の90年秋から92年初夏まで、福島から仙台までは東北本線、仙台から山形までは仙山線経由で走り、それから従来通りの奥羽本線に戻って秋田・青森へと走った。私の現在の住まいのすぐ近くの仙山線を走る「津軽」の姿を見て感無量だった。
 「津軽」は出稼ぎや集団就職で乗る普通列車に比べると格段に速かった。しかも一等車(グリーン車)がついていた。この一等車に乗って故郷に帰る、これは集団就職で津軽を去った人や出稼ぎ者の夢だった。それで「津軽」は『出世列車』と呼ばれたという。
 はたしてこれまで何人が出世列車としてこれを利用できただろうか。
 この出世列車がなくなる。このことは出世ができなくなる、たとえ出世しても故郷には帰れなくなる、故郷はますますさびれていく、こんなことを示しているのではなかろうか。
 ついついこんなことを考えてしまった。

 1991年、東北・上越新幹線の上野―東京間が開業し、上野での乗り換えなしに直接東京駅に行くことができるようになり、東海道新幹線への乗り換えも簡単になるなど、また便利になった。
 しかしそれは上野駅の人の流れを、そして駅の雰囲気を大きく変えることになった。
 東北本線ができて以来これまで、また奥羽本線、常磐線も、上野駅がその終着駅だったので、東北人は必ず上野で降りて東京駅などの目的地に向かい、帰るときも上野駅にまず来てそれから東北に向かった。上野駅は東京における東北人の発着点、集散地だった。だから上野駅に来ると必ず東北人に会えた。
 石川啄木はそうした気持ちを次のように歌った。
  「ふるさとの 訛なつかし
   停車場の 人ごみの中に
   そを 聽きにゆく」
 この歌は、60年代集団就職列車で上京してきた若者たちを始め、東北から東京に来た人たちの気持ちでもあった。
 さらに、彼らの上野駅に対する思いを直接的に歌いあげたのが『ああ上野駅』(註1)という歌だった。
  「どこかに故郷の 香りを乗せて
   入る列車の なつかしさ
   上野は おいらの 心の駅だ
   くじけちゃならない 人生が
   あの日ここから 始まった」
 この歌詞は農家向けの家庭雑誌『家の光』の懸賞応募一等入選作で、これを歌った井沢八郎は青森出身者だということは後に知ったのだが、1964年に発売されたこの歌は大ヒットし、その後も東北出身者を始めとする多くの人に愛されてきた。
 こうした東北人の思いのこもった上野駅、それが東北新幹線の東京発着で大きく変わってしまった。東北人の多くは東京駅で乗り降りするようになり、東北の人たちであふれていた上野駅ではもうなくなってしまったのである。さらに駅舎の内部は大改築で大きく変わり、まさに都会的に整備され、歩いてもどこがどこだかわからず、あの慣れ親しんだ上野駅が、薄暗く雑然としながら何とも言えない暖かさを感じたあの独特の雰囲気が、どこかに行ってしまった。駅の正面玄関口の外観が以前とあまり変わっていないことにほっとするが、やはり淋しく感じる。

 そういうさまざまな問題はあるが、ともかく新幹線で便利にはなった。2002年には八戸まで新幹線が延び、青森はもっと近くなった。
 そして2011年には青森-東京間は3時間10分で走ることになる(註2)。夢のようだ。いつか青森から鹿児島まで新幹線で縦断してみたいものだ。鉄道好きの私の血が騒ぐ。

 新幹線の話からちょっと外れるが、福島県の会津若松から南の方に向かって田島まで走る会津線という国鉄の線路があった。近くには尾瀬湿原があり、峠を越えれば栃木県である。この会津線は調査や講演で何度も利用したのだが、とくに思い出があるのは田島の駅から1時間弱かけて峠を越えたところにある南郷村(現・南会津町)の調査である。それについては第一部で紹介しているが、南郷トマトの産地ということから調査に行き、そのさいにむらの入会慣行等について話を聞いていろいろ勉強させてもらった(註3)。このときびっくりしたのはトマトを一山超えて栃木県を通って直接東京に出荷していたことだった。峠を越えていけば宇都宮は福島市に行くよりも時間的に近いくらいだという話だった。
 また、県庁の人はこのときに次のような話をしてくれた。この田島から一山越えたところの栃木県側に東武鉄道・野岩鉄道会津鬼怒川線(日光-新藤原間)が走っている、それは東武鬼怒川線と通じていて浅草まで行くことができる、これと会津線をつなげる計画が進んでいるというのである。驚いた。そうなると会津若松から東京まで郡山を迂回せずにまっすぐいくことができる。
 そこから私のかつての夢想がよみがえってきた。会津若松から磐越西線を北に進んだ喜多方駅から奥羽本線の米沢まで線路を敷設したら、前々回の記事(5月7日掲載)で述べた東北縦貫内陸線の完成ではないかと。つまり私の夢想していた奥羽山脈と出羽丘陵の間を通る東京-会津-米沢-山形-大曲-角館-大館そして弘前へと行く「奥羽内陸線」の完成となるのである。
 しかしそれはローカル線の切り捨てが始まっていることからして無理だろうと思っていた。ところが、田島からの線路の延伸は進み、90年に東武鬼怒川線新藤原駅と接続することになった。そしてとうとう東京までつながった。ただし、この会津線は第三セクター会津鉄道となってしまったが。
 それでも、この線路を利用しながら、また古民家の立ち並ぶ大内宿を始めとする沿線にあるさまざまな景勝地を活用しながら、地域おこしに今力を入れている。
 非常に喜ばしいのだが、喜多方-米沢の鉄路新設はおそらく無理だろう。やはり私の夢想は妄想で終わることになるのだろう。
 さて話をもとに戻そう。

 新幹線の延伸に加えて、航空便の増加、秋田・青森空港の整備拡充、庄内、大館、福島空港の新設も進んだ。これは遠隔地への旅行をさらに容易にした。飛行機に乗って旅行する、子どもの頃には考えもしなかったことができるようになったのである。
 私どもの仕事の面からいえば、農村調査はしやすくなり、また東京などでの会議に出席するのも非常に楽になった。西日本での調査、学会出席等も本当に便利になった。
 しかしこの利便性を定年後の私はあまり享受できない。それがちょっと残念である。

(註)
1.歌:井沢八郎 作詞:関口義明 作曲:荒井英一 1964年
2.この文の草稿を書いたのは2010年の春頃なのだが、その約1年後の3月5日から実際に走り始めた。ところが、それからちょうど一週間後の11日、大震災に遭って東北新幹線は大きな被害を受け、不通になってしまった。今は回復して当初の予定通り走っているが、不幸な出だしだった。何とか「災いを転じて福となす」ことができるように全国の皆さんのご支援をいただきたいものである。
3.11年1月5日掲載・本稿第一部「☆近隣の助け合い」(3段落)、
  11年1月7日掲載・本稿第一部「☆むらぐるみでの共同」(4段落)、
  11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(5段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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