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普通になった飛行機での移動

 


                 調査地への移動手段の変化(5)

                 ☆普通になった飛行機での移動

 3~4歳の頃(太平洋戦争開戦直前)の私は、飛行機とは2枚の翼があってプロペラで飛ぶもの、つまり複葉機であり、ビラまきと曲芸をするものだと思っていた。
 もちろん飛行機などめったに飛んで来ない。本当にたまにだが、爆音が聞こえてくる。すると子どもたちはみんな家から飛び出して大声で叫ぶ。聞こえるわけなどないのだが。
「ビラまけー」
 遠く町の中心部の上空で飛行機がビラ(宣伝のチラシ、昔はこう呼んだものだった)をまく。キラキラと光りながらゆっくり落ちていく。当然のことながらこちらには来ない。風に乗ってこないかと待つが、風のない日に飛ぶのだから来るわけはない。がっかりしながら、どんな内容のビラなのか知りたいと思いながら、飛行機が飛び去るのを見たものだった。それでもビラまきが見られればまだいい。何もしないで通り過ぎるとみんながっかりだ。
 一度だけ曲芸飛行があった。やはり町中心部の上空でやったのだが、今のように高い建物などないので、よく見える。宙返りをしたり、機体をぐらぐら揺らしたり、さらには錐もみ状態で墜落し、途中から急上昇してはらはらさせる。みんなで驚いて見たものだった。何のためにどこが主催してどこの飛行機がやったのか、もちろん全然覚えていないが。

 小学校に入る直前の頃、飛行機(もちろん複葉機)で爆弾を落とす絵を近くの友だちと書きあったのを覚えているから、そのころには飛行機は戦争のために使うものと考えるようになっていたのだろう。あるとき、富士山の上に複葉機が爆弾を落とす絵を描いた。富士山はその形からして描きやすかったからである。そしたらM叔父から言われた、日本の飛行機が日本を爆撃するのはおかしいと。なるほどと思い、あわてて富士山を消したことがあった。
 やがて、翼が1枚の単葉機、プロペラが2つある双発機などが戦争に使われ、私たちが赤トンボと呼んだ複葉機は訓練のために使われるようになったこと(註1)を私たち子どもも知るようになった。
 太平洋戦争がはじまり、戦闘機、爆撃機、隼、零戦などの言葉が毎日のようにニュースで流れるようになった。私の生家の近くには大きな飛行機工場ができた(註2)。また神町など近くに飛行場ができたものだから、赤トンボがときどき飛ぶ。ぶ。こうしたなかで飛行機はなじみの深いものとなったが、それはすべて軍用機だった。だからそのころは「ビラまけ」などと叫ぶ子どもたちはもういなかった。
 そのうち、グラマンとかロッキードとかいうアメリカの飛行機の名前がニュースに出てくるようになった。また、4つのプロペラがついているというB29の名前を連日見聞きするようになってきた。そして敗戦の色はますます濃くなり、飛行機で敵に体当たりする特攻機が出撃するようになった。私たち子どもも憎き米英撃滅のためにいかに戦うかを考えるようになっており、私は航空兵になって飛行機に乗り、敵機をやっつけてお国のために尽くそうと考えていた。
 だから飛行機はあこがれだった。その飛行機が、米軍の空襲を避けるために擬装(ぎそう)して、すぐ近くの十文字飛行場のわきの川原においてあるという話が子どもたちの間でひろまった。疎開先の山寺小学校荒谷分教場(註3)でのことである。1945年夏のある日の午後、何人かで行ってみた。あった。木の枝で覆われた赤トンボが十数機、じりじり照りつける太陽で熱くなった川原の砂利の上に並んでいる。静かである。誰もいない。近づいて見た。思っていたよりもずっと小さい。大きくなったら座ってみたいと思っていた操縦席を覗いてみる。これに自分がいつの日か乗るのかと思うと不思議な気がする。翼に触ってみる。柔らかい。何とそれは布に橙(だいだい)色の塗料をべったり塗ってあるだけではないか。飛行機には軽くて丈夫なアルミニウムとかジュラルミンとかいうものが使われるのだと学校や新聞で教わったのだが、もしかしてそれは零戦などにしか使われていないのかもしれない。物資不足だから、初歩の練習機だから布張りでもいいかもしれないが、何とたよりないんだろう。ちょっとだけがっかりした。それでもあこがれの飛行機に初めて触ることができて満足して帰った。
 それから2~3週間してからではなかったろうか、私たちは空襲に遭った。このことについては前に述べたが(註1)、川原で見た赤トンボは全部ものの見事にやられたそうである。
 やがて敗戦、飛行場はすべて米軍に接収、生家の近くの飛行機工場は取り壊され、製作途中の飛行機は全部燃やされた。日本の飛行機はもうなくなった。飛んでいるのはすべて米軍の飛行機だった。
 このアメリカをやっつけるために米軍の飛行機に負けないすごい性能の飛行機を開発してやろう、軍国少年だった私はそんなことばかり一時期考えて設計図らしきものをつくったりしていたものだったが、やがてそんなことはけろっと忘れ、敵国の国技の野球に夢中の日々を送るようになった。

 戦後数年したころ、中学時代ではなかったろうか、畑で仕事を手伝っていたら頭の上を飛行機が通った。それを何の気なしに眺めていたら、突然何かものすごくなつかしいものを見たような気持ちになり、胸がキュンとなった。涙が出そうになった。何でだろう。ちょっと考えてみた。
 そうだった。幼かった頃、少年航空兵になって大空を縦横にかけめぐりたいと考えていたのだった。
 「成層圏」、戦争が激しくなった頃こんな言葉が聞かれるようになった。高度1万㍍以上をそう呼び、そこを飛行機が飛ぶと飛行雲が出るという。見てみたいと思った。初めて見たのは、何と敵機B29のたなびかせる一本の飛行雲だった。青空に浮かぶそれは本当にきれいだった。あのような雲を後ろにたなびかせて高い高い空を飛びたい。
 もう完全に忘れていたこうした子どものころの熱い気持ちが突然脳裏に浮かび、それがなつかしいという感情を刺激したのではなかろうか。
 戦後しばらくの間サイレンの音と飛行機の爆音を聞くと身体が震えた。いやだった。怖かった。空襲を受けた経験からである。しかし、そのうち慣れてあまり感じなくなった。さらに何年かしたら、飛行機をなつかしく感じる。記憶はこうやって薄れ、また変わっていくものなのだろうか。
 それにしても、もうあこがれの飛行機に乗るなどということはできなくなった。何となく淋しい。それが涙を催させたのではなかろうか。それしか考えられない。

 それからちょっと経ってからだったと思う、日航機もく星号が三原山に墜落するという事件(1952年)があった。飛行機が軍用だけでなく、民間人の輸送用として利用されるようになってきていた。
 もちろん、普通の人が飛行機に乗れるような時代ではなかった。1960年ころ女満別空港が開設されて小さなプロペラ機が飛ぶようになったとき、地元の新聞が「本日の乗客」という記事の欄を設けて乗客の名前を必ず報道したという。それを話すと若い人たちはみんな笑う。けれども、当時は飛行機に乗るのがニュースになるような時代、飛行機に乗るのが一般庶民にはまだ夢のまた夢の時代だったのである。しかし乗るのはまだみんな怖かった。もく星号事件などもあるし、事故など起きたら地に足がついていないので必ず死ぬからだ。
 しかし時代は急速に進歩していた。68年4月、福岡で学会のあったとき、東北大農研の女性研究者のORさん(当時はまだ若かった)がある区間を飛行機に乗って帰った。それで、何であんなのに乗るんだろうと私が言ったら、東大の女性研究者のHRさんから笑われた。
「酒井さんは飛行機が怖いの、古いなあ」
 そうなのである。そのころは空港、定期航空路線も整備され、一般庶民も乗る時代になってきていた。
 実際に私もその3年後初めて飛行機に乗った。窓から見る外の景色、そして雲、子どものころからの夢が果たされた。操縦士としてではなく、乗客としてだったが、ともかく実現した。何ともいえなかった。
 さらにその2年後の73年、小学生だった子どもたちも私の両親に連れられて札幌まで飛行機に乗った。残されたのは家内だけだった。いつも不満を言っていたが、それが解消されたのは81年、私と札幌に行ったときだった。そのころは主要路線ではジェット機が普通になっており、本当に成層圏をかつては考えられなかった速度で飛ぶようになっていた。これで家族全員が飛行機に乗ったことになったのだが、帰りは飛行機は利用しなかった。青函連絡船がやがてなくなるので最後にそれに乗ってみることにしたからである。

 1988年に青函トンネルが開通し、北海道と東北が、そしていわゆる内地がつながることになった。これはうれしいこと(註4)なのだが、淋しいのは青函連絡船がなくなることだった。
 私が最初に連絡船に乗ったのは、1940年の夏、数えで5歳のときだった。函館で店を開いている親戚の小父とそこに奉公しているK叔父を訪ねる祖父母に連れて行ってもらったのである。そのときの強烈な印象については前にちょっとだけ触れているが(註5)、それからはまったく連絡船には縁がなかった。商売をしている函館の小父(註6)が仕入れのために年に一回内地にくるときに必ず山形に寄って家に泊まっていったが、私たちが行くなどということはなかった。ともかく北海道は遠かった。時間的にも金銭的にも今の外国旅行以上だったからだ。戦中戦後の混乱があったからなおのことである。
 1954年、私が大学に入った年の秋のある日、仙台の空は晴れ上がり、夕焼けがきれいだった。下宿の庭でそれを見ていたとき、ラジオのニュースが聞こえてきた。昨日の台風で青函連絡船が転覆したというのである。いわゆる洞爺丸事件である。驚いた。あの大きな船が沈むなんて信じられなかった。
 それからまた15年過ぎた69年冬、調査で札幌周辺に行くことになり、30年ぶりで、というより生まれて初めてのような感じで連絡船に乗った。それからほぼ毎年、調査や学会などで北海道に行くようになった。そのころは青森までの特急、函館から札幌までの特急もあり、かなり便利になっていた。
 私たちはいつも仙台から4時間半かけて青森駅に夜到着するようにし、それに接続する青函連絡船に4時間半乗ってその中で横になって休み、早朝函館から列車に乗ると、ちょうど札幌に朝9時ころ着いたものだった。こうするとその日1日仕事ができるからである。
 冬の夜中に青森駅に着くと、石川さゆりの『津軽海峡冬景色』の歌詞とぴったりの情景に出会うことがある。
   「上野発の夜行列車 降りたときから
    青森駅は雪の中
    北へ帰る人の群は 誰も無口で……」
 「誰も無口で」、そうなのである、青森駅に着いてホームに降りたとたん、みんな一斉に桟橋に向かって走っていく。階段を上って一目散に連絡船に向かう。しゃべりながらゆっくり歩いている人はほとんどいない。三等室の横になって眠れる場所を確保するためだ。そして座敷においてある枕と毛布をとってすぐ横になる。列車の椅子に長時間座って来た疲れをいやせるのは、また横になってゆっくり眠れるのは乗船中のこの4時間だけだ。私たちも何となく気忙しくなり、小走りになってしまう。寝る場所を確保すると、みんなすぐに横になって寝る。まさに乗客は「無口」だった。
 デッキに出てみる。夜中だから少ないけれども見送りの人が下にいる。そのうちジャンジャンとドラが鳴る。ボーと汽笛が鳴り、ゆっくりと岸壁から離れる。蛍の光のメロディが流れる。何となく悲しくなってしまう。
 実際に悲しい別れをした人たちがいた。東北に、故郷の南の地に別れを告げて遠い遠い北海道に向かう、ここで涙を流した人がたくさんいたことだろう。
 こうしたさまざまな思いを乗せて青森と函館を結んで往復した連絡船がなくなってしまう、何か淋しかった。だから家内と二人、最後の思い出にと連絡船に乗ることにしたのである。
 やがて北海道と内地はトンネルでつながった。船酔いをすることもなく、船や列車の待ち合わせ時間もなくなり、ゆったりと列車で往き来できるようになった。さらに飛行機でも行けるようになってきた。

(註)
1.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」(5段落)参照
2.11年2月8日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」(1、3段落)参照
3.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」(6段落)参照
4.10年12月27日掲載・本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(2段落)参照
5.11年1月12日掲載・本稿第一部「☆むら社会」(1段落)参照
6.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真」(7段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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