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高速交通体系と地域格差



                 調査地への移動手段の変化(6)

                  ☆高速交通体系と地域格差

 私たち家族でさえ飛行機に乗るようになったのだから、多くの人が普通に飛行機に乗るような時代となってきたことがわかるだろう。それでも70年代まではまだ便数も少なく、飛行機も遅かった。
 私が71年に最初に乗ったのはプロペラ機、仙台-帯広間だった。仙台―丘珠、丘珠―帯広を東亜航空、国内航空の二社(註1)の飛行機を乗り継いで行くので、時間はかなりかかった。
 ただ、いいこともあった。帯広からの帰り丘珠に行く飛行機が雪で遅れたが、私一人のために仙台行きの飛行機が待っていてくれ、丘珠に到着すると乗務員が走って迎えに来て乗せてくれた。このように、他社の飛行機であってもその到着が遅れると乗り継ぎの飛行機は待っていてくれた。
 また、仙台空港では、空港行きのバスの到着が遅れると飛行機の出発を後らせてくれた。逆に、飛行機の到着が遅れるとバスは出発を後らせて待っていてくれた。
 やがて便数が増えるなかでそんな親切をしていることはできなくなった。
 しかし便数増で便利にはなった。また、ジェット機がほとんどになり、かなりスピードアップし、料金もかつてほど高くはなくなった。
 そして飛行機での旅行は当たり前のことになってきた。外国に飛行機で旅行するのも当たり前の世の中になった。私たちも遠隔地での調査や学会には飛行機で行くようになった。かつてこんなことは考えもしなかった。
 さらに考えもしなかったことが私に起こった。99年に網走に転居することになり、仙台はもちろんのこと全国各地に向けて、年に何十回も飛行機に乗ることになったのである。まさに夢のようだった。

 ある時は地図帳にあるような地形を下に見てあそこが北上川、下北半島だ、あれが新幹線の線路、ここがアルプス、富士山、瀬戸内だなどと推測し、ある時は延々ともくもくと広がる白い雲海を下に、上には一点の雲もなく晴れ上がった濃い青色の空を見ながら、さらには自分の乗っている飛行機の影が下の雲に黒く映り、そのまわりに虹色の輪ができるブロッケン現象を眺めながら、成層圏を飛ぶという子どもの頃の夢が、自分が操縦してではないけれども、かなったことを実感したものだった。
 夜、千歳空港から離陸する。空港の整然とつらなる赤い灯、青い灯、離発着する飛行機の点滅する灯、もしも子どものころこの数十年後にタイムスリップしてこの空港に立ったならばこれが地球の光景だと思っただろうか。あまりのきれいさ、人工的な美しさ、まさに夢のようとしか言いようがなかっただろう。

 仙台上空は、北海道と関東、関西を結ぶ飛行機の航路となっている。北海道から関東方面に向かうのはまっすぐ南に向かうが、関西方面に向かうのは山形方面に進路を向け、新潟から日本海に沿って進む(関東西北部から山梨・長野上空を通る場合もあるが)。北海道に向かうのはその逆のコースとなる。だから私の家の上空にこうした飛行機の飛行雲がよく浮かぶ。青空に一筋、二筋、さらには三筋とくっきり浮かび、やがて風に流されながら少しずつ薄れていく、そしてまた新たに現れる。この飛行雲を見ながら、これは女満別行きかな、大阪行きかななどと思いを寄せる。

 私の大好きな飛行機に乗れる、一般庶民も乗れる、乗ろうと思えば何回でも乗れる。そして簡単に遠くまで行ける。北海道、四国、九州、沖縄等、遠隔地の農村調査にも簡単に行けるようになった。やはり百聞は一見にしかず、知見を大きく広げることができるようになった。
 後に私の転勤地となった網走へも、仙台―千歳―女満別でうまく乗り継ぐと乗継時間も入れて3時間で来られる。当初などは仙台―女満別の直行便があり、1時間ちょっとしかかからなかった。仙台から網走まで列車で2日2晩もかかった半世紀前には考えられなかったことだ。こうした飛行機のおかげで私の孫も東京から何回も網走に来られた。こんなうれしいことはない。
 しかし不満もある。女満別―札幌のようなローカル線の料金は高くなり、さらに便数も減らされていることだ。私が網走から離れてからはそれがさらに激しくなっている。それに比べて札幌―羽田はべらぼうに安く、便数も多い。航空会社の競争、乗客数の多さからやむを得ないと言うが、地域格差は広がるばかり、地方に住むものはますます不利になるばかりだ。過疎・過密がさらにひどくなるばかり、それを解決するためという名目で不要と思えるような空港を開設するのはどうかと思うが、何とかしてもらいたいものだ。

 鉄道便も同じような問題をかかえている。
 たしかに新幹線で便利になった。とくに、新幹線ばかりでなくローカル線のすべての路線が集中し、特急、急行は必ず停車し、本数も多い大都市は、本当に便利である。空港もその近くにある。
 その代わりに農村部は不便になった。もちろんその昔だって便利だったわけではない。しかし、公共交通機関に関していえば都市との格差はそれほどなくなりつつあった。また格差をなくすべく世の中あげて努力してきた。ところがせっかく整備してきたローカル線は廃線でなくなり、あるいは国鉄=JRから切り離されて民営化され、何とか残っても本数は少なく、不便になるだけ、それで乗らなくなると赤字だとして廃線となる。前節でも述べたように、明治以降東北の基幹路線だった東北本線でさえ新幹線ができて赤字になるからと盛岡以北は廃止され、民営化されてしまった。今のところ何とか生き延びているが、赤字でいつ潰れるかわからない状況にある。
 農村部の国鉄の駅を起点に、列車の発着時間に合わせて、村々に向けて四方八方に走っていた軽便鉄道は廃止され、今何とか残っている若干の軽便鉄道も廃止は時間の問題だと言われている。

 蒸気機関と石炭は産業革命・資本主義の物的技術的基礎となり、蒸気機関車と鉄路は資本主義化を推進させる重要な手段となった。また繊維産業が初期の資本主義発展の牽引車となった。
 それはわが国においても同じだった。ただ、わが国の場合は農家の営む養蚕が繊維産業に大きな位置を占めていた(註2)。鉄路についてもう少しいえば、それは資本主義を全国に広める役割、全国から都市に富(労働者、資本、原料等々)を集中させ、資本主義を発展させる役割を果たした。
 しかし、その石炭の生産と蒸気機関車は高度経済成長期に姿を消し、繊維産業・養蚕は衰退し、石油と自動車、重化学工業が中心となるようになった。それと並行して国鉄(JR)の線路が地方から少しずつ姿を消すようになり、村から軽便鉄道が消え、さらに町から市電が消えた。このことは明治から始まる古き資本主義の終わりを示すものだった。
 ところで、地方の鉄路がなくなった原因は自動車の普及に起因するとよく言われる。たしかにそれはあるだろう。
 しかし、鉄路は大都市で増えている。首都圏などでは地下鉄やモノレールの敷設、JRや私鉄の線路の延伸や複線化などがすさまじい勢いで進められている。大都市が自動車社会の最先端を行っているにもかかわらずである。このことは、車社会化が農村部の鉄路の減少をもたらす根本原因ではないことを示している。人口の大都市への異常な集中、農村部の異常な人口減、これが原因となっているのである。つまり資本主義の心臓部のある都市部の繁栄、戦前をはるかに超える農村部の衰退、この地域格差が鉄路の格差としてあらわれているのである。
 もちろんこうした地域格差の生成は資本主義の法則なのだが、それが貿易自由化による農林産物の輸入自由化、多国籍企業の支配、格差の存在を当然とする新自由主義的政策の展開等によってさらに強く貫徹されているのであり、高度経済成長期から始まる新しい資本主義のもつ問題点の一つをはっきり示すものでもあった。

 鉄路と同じように農村部のバスの路線、本数はすさまじく減らされた。その削減はワンマンバス化が進められたころから始まった(のではなかったかと思う)。
 かつての路線バスには運転手と車掌の二人が必ず乗務していた。停留所にバスが停まると車掌さんが扉を開けて降りてくる。そして「○○行きです、降りる方がすんでからご乗車願います」と停留所で待っていた客に言いながら降りてくる客から切符を受け取って降ろす。続いて乗車客を乗せ、扉を閉めて「発車オーライ」と運転手に声をかける。それを合図に運転手は発車させる。そのうち車掌が今乗った乗客のところに来て行き先を聞き、そこまでの切符を発売する。それが終わると入り口のところに戻って立ち、バスが左折するところに来ると外を見て安全を確認し、「左オーライ」と運転手に教える。たまたま狭い道で他の車とすれ違うためにバックすることが必要な場合がある。すると車掌がバスから降りて後ろに行き、「バックオーライ、オーライ、ストップ」など誘導する。呼子笛を吹いて誘導する場合もある。停留所が近くなると、「次は△△です」と客に教える。停留所に着くとまた前と同じように扉を開け、外に出て降車客から切符を受け取る。そしてそこで待っていた客を乗せ、出発する。
 なお、戦前戦後はよくバスのエンジンが途中で止まったものだった。すると車掌さんが折り曲げられた(この形をうまく説明できる言葉が思い出せない)太い鉄の棒(クランク棒と言ったような記憶がある)を持ってバスの前に行き、ボンネットの前にある穴にそれを差し込み、思いっきりぐるぐる回す。運転手はそれと合わせてエンジンをかける。何回かやってようやくエンジンが動き出す。車掌は走って戻ってきてバスに乗り、「発車オーライ」と言い、ようやく出発する。こんな仕事もやったものだった。車の性能と燃料事情のよくなった1950年代後半にはこんなクランクでエンジンをかける姿はもう見られなくなったが。
 70年代後半からではなかったろうか、こうした役割を果たしてきた車掌さんがいなくなり、運転手一人が運転するワンマンバスにするという話が出てきた(註3)。車掌の人件費を削減するためだというが、それでは運転手さんが大変ではないか。それで安全が確保されるのだろうか。最初は本当に不安で、バスに乗りたくなかった。バスの機能の改良、道路事情の改善等々でそんな心配をする必要がなくなってきていたのたが。
 このワンマンバス化はバス会社の赤字対策のために進められたものだが、それをやっても当時の諸物価上昇のなかで経営はなかなかうまくいかない。そこで不採算路線、それは結局は農村部の路線ということになるが、そこの本数を減らすことになる。それで不便になるので利用者が減る。そこでまた本数を減らす。するとまた利用客が減る。こうした悪循環のなかで結局は廃線ということになる。
 一方、人口の集中する大都市では、バス路線は増え、本数も増える。かくしてバス路線でも地域格差は広がっていった。

 こうした公共交通機関の不便さは自家用車を持つことで解決するしかない、それでみんな購入した。それがまた公共交通機関の減少に拍車をかける。こうした悪循環のなかで農村部では自動車が、自家用車が不可欠となってきた。都市部でも自家用車がどんどん増えて行った。
 役場も農協も普及所も、民間の会社も、みんなみんな車をたくさん持っている。まさに世の中、車社会になった。
 おかげで調査や講演などで農村に行くのは非常に便利になった。かつては国鉄の駅からバスに乗り、目的地の停留所に着いたら歩いて用務先に赴いたものだったが、役場や農協の方が駅まで車で向かえに来てくれるようになり、調査農家までも車で案内してくれるので、時間も労力も少なくてすむようになった。近隣の調査の場合には研究室の誰かの車で行くこともあった。ほとんどの人が車をもつような時代になったのである。

(註)
1.後に両社が合併して東亜国内航空、やがて日本エアシステム=JASに改名、そのJASはJALと合併して現在に至っている。
2.11年7月15日掲載・本稿第二部「☆桑園の整理と果樹園の造成」(1段落)、 
  11年7月18日掲載・  同 上  「 ☆養蚕の技術革新と大規模桑園の造成」(1、2段落)参照
3.なお、それとほぼ同じ時期からだと思うのだが、国鉄(JR)の1~2両編成の列車もワンマンカーになり、農村部の駅の無人化も進んできた。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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