Entries

戦前戦後の大八車、牛馬車


                 車社会化の進展(1)

               ☆戦前戦後の大八車、牛馬車

 私の幼いころの昭和初期、遠隔地に向けての生産物や生産資材の運搬は、貨物列車、つまり鉄道の貨物便でなされていた(註1)。
 鉄道が利用できない場合は人間が直接、もしくは牛馬を使って、歩いて運んだ。遠隔地に送る荷物を鉄道の駅まで運ぶのも人間、遠隔地から送られてきた荷物を家など配達先まで駅から運ぶのも人間だった。
 つまり鉄道以外の運搬はほとんど人力、畜力でなされていた(註2)。

 まず、人間が手に持ち、肩にかけ、あるいは背中に背負って運んだ。そのさいには風呂敷、紐、わらや竹などでつくられた形状大小さまざまなかご、てんびん等々、人間の手足の延長としてのさまざまな道具が使われた。
 いうまでもなく、いくらこうした道具を使っても人力では運ぶ量に限界がある。
 そこで利用されたのが畜力だった。牛馬の背中に荷物を載せて運ぶのである。こうすれば、人力で運ぶよりもはるかに多い量が、しかも遠隔地まで運べる。
 とはいっても、背中に載せられる量は限られている。さらに問題なのは、牛馬に餌を与えるなどの飼育管理だ。とくに町場ではきわめて難しい。しかも牛馬を手に入れるのに金がかかる。一般庶民がもてるわけはない。
 そうなるとこうした金と手間のかからない人力のさらなる合理的利用を考えないわけにいかない。そこで考え付いたのが「車」の利用だった。だれが開発したのかわからないが、大八車というきわめて便利なものが開発されたのである。

 大八車については昔のことを描いた映画などで見ておられると思うので説明するまでもないと思うが、人力を動力として荷物を運ぶためにつくられた総木製の二輪車で、その荷台に荷物をつけ、その前方についている梶棒を持って人間が引っ張って歩き、運搬するものである。なお、私の生まれたころ(昭和初期)には車軸は鉄製であり、車輪の外縁の表面に細い鉄板の輪をまいていた。鉄が大量生産されるようになり、鍛冶屋さんもたくさんいる時代となっていたこと、当時普通だった未舗装の凸凹道路による車輪の破損、損耗を防ぐためであろう。
 一台で8人分の運搬ができることから代八車・大八車という名前がついたとの説があることからわかるように、これは運搬能力が高かった。大量に運ぶとなると大八車だった。
 ただ、重心の取り方が難しかった。荷物の積み方や梶の持ち上げ方で車を引く人が浮き上がってしまうのである。
 また、未舗装の凸凹道路を引いて歩くのだからかなり大変だった。ちょっとした小石や大きな砂利が車輪の下に挟まるとまっすぐに進めなくなる。また上り坂ではなかなか動かせなくなり、下り坂になるとスピードが出て止まらなくなってしまう。そこで、梶棒のところに長くて太い紐縄をつけ、それを女子どもが引っ張って、あるいは後ろから押しながら(下りの場合には後ろに引っ張りながら)、つまり二人がかりで動かしたりもしていた。
 もちろん人が引くのだから、その速度は徒歩並み、いやそれ以下であり、運べる量にも限界があった。

 そういう難点を解決したのが畜力と大八車を結びつけた牛馬車だった。この姿形については説明の必要がないだろうが、馬もしくは牛が引く木製の二輪車で、大八車より若干大きい。当然である。人間よりは牛馬の方が力があるからだ。また、運ぶ量は大八車の2~3倍にもなるのではなかろうか。上り下りも、牛馬は大変だったかもしれないが、人間は手綱を引くだけ、楽だった。と言っても、やはり牛は牛、人間の言うことをきかない場合もあり、そのときは手綱で尻を叩いたり、手綱を引っ張ったり、けっこう大変だった。

 仙台の旧市内の西端に国宝に指定されている八幡神社がある。どんと祭で有名で毎年1月14日の夜のテレビのニュースなどでその火が全国に放映されるが、私の今住んでいる家はその裏側にある。
 この神社の前を西に向かって国道48号線が走っている。奥羽山脈を越えて天童、山形に向かう道路である。この道路ぞい、八幡神社のとなりに「かなぐつ屋」というそば屋さんがあった。
 何で「かなぐつ」なんだろうと思って近所の人に聞いたら、かなぐつとは「蹄鉄(ていてつ)」のこと(註3)で、この店はそもそも馬の蹄(ひづめ)に蹄鉄をつける仕事をしていた、それでかなぐつ屋と言ったのだという。
 なるほどと思った。ちょうどこの店のある場所は町と村の境目の国道沿いにある。周辺の村々から牛馬や牛馬車に荷物を載せて来る人が、あるいは村々に帰る人が、ここで一休みしながら馬の蹄鉄をなおし、牛馬具の整備をするのに場所として非常にいい。それでここにかなぐつ屋を開いたのだろう。この一休みをするとき、あるいは馬に蹄鉄をつけてもらっている間に、そばなど腹に入るものを食べたい人もいるはずだ。それでそば屋を副業としてやっていたのだろう。
 交通機関が整備され、牛馬車も廃れてきた1960年ころ、本業の蹄鉄装備の仕事はやめた。残ったのはそば屋とかなぐつ屋という名称だけだった。こういうことなのだろう。
 今はそのそば屋もなくなったが、その昔茶屋町という地名がここについていたというから、こうした食べ物屋、鍛冶屋以外にもお茶屋などさまざまな店がたくさんあったようであり、広い馬のつなぎ場所もあってかなり賑わっていたらしい。今はこうした牛馬が行き交っていたころの街道町の雰囲気はなくなっているが。

 私の山形の生家の近くにも八幡神社がある。その裏参道に一軒の鍛冶屋があった。表は日中開けっ放しなので、作業場の中が道路からすべて覗ける。見ると、コークス(註4)が土間の真ん中で赤く燃えている。ときどき鍛冶屋さんが四角い箱の「鞴(ふいご)」の取っ手を手で押したり引いたりしてゴーゴーとそこに風を送る。燃えている火の下からこの鞴の風が来るようになっているのだろう、コークスが真っ赤になって下から青い焔をあげる。そのなかに鉄の塊あるいは棒が突っ込んである。それが真っ赤になったのを確かめて取り出し、「かなしき」の上におく。それを持った一人は座って小さな金づちで、もう一人は立って大きな金づちで、代わる代わるトンテンカーン、トンテンカーンとそれを打つ。少し経って鉄の赤さがなくなるころ、脇においてある水の中にそれを入れる。ジューッと白い煙があがる。それを取り出してまた火の中に入れて焼き、柔らかくする。これを何回か繰り返しているうち、少しずつできあがりの形に近づいてくる。やがて座っている人がトントントンと金づちで形を整え、鋤や鍬、鎌、蹄鉄などができあがる。子どもの頃、この繰り返しをあきずに見ていたものだったが、それはまさしく『村の鍛冶屋』という小学唱歌の歌詞のいう通りだった。
   「しばしも休まず 槌打つ響
    飛び散る火花よ はしる湯玉
    ふいごの風さへ 息をもつがず
    仕事に精出す 村の鍛冶屋」
 ときどき馬がこの鍛冶屋の作業場の中に入っているときがある。鍛冶屋さんは馬の足を持って蹄をナイフのようなもので削る。その後に蹄に合わせてつくられた蹄鉄を焼いて蹄にくっつけ、トントンと釘を打ちつけて止める。馬の爪の焼けるにおいをかぎながら、馬は痛くまた熱くないのだろうか、爪だから大丈夫なのだろうなどと思いながら、また見続ける。ともかく鍛冶屋さんは面白かった。

 この蹄鉄は馬の蹄(ひづめ)の摩滅・損傷を防ぐためのもので、日本では明治以降に用いられるようになったものらしい。それ以前は藁沓(わらぐつ)、藁で編んだ小さなわらじのようなもの(袋のようなものと言った方がいいのかもしれない)を馬のひずめに履かせて保護していたという。私はこの藁沓を履いている馬も見たことがある。鉄の少なくなった戦中戦後だったからなのか、飼い主に蹄鉄をするほどの金がなかったせいなのかわからない。普通は蹄鉄をつけていた。
 お馬さんがパッカパッカ通るなどというが、これは蹄鉄をつけて道路を歩くときの音である。こうした蹄鉄や農具などを打つ鍛冶屋さんは今はまったく見られなくなった。今述べた『村の鍛冶屋』、これはまさに鍛冶屋の情景を目に浮かばせるいい歌なのだが、今の子どもたちは何を歌っているのかきっとわからないだろう。日本中の村や町にいた鍛冶屋さんは今はなくなってしまったからだ。何ともさびしい。それでも蹄鉄の技術に関しては競馬場や軽種馬産地などに残ってはいるのでまだ救われる。
 なお、牛も定期的に伸びた蹄を切り、その形を整える必要がある。しかし蹄鉄を打ったりはしない。放っておく。それでも、馬の履く藁沓と同じ形をした藁で編んだ沓(何と呼んでいたのか覚えていない)を履かせる場合もあった。冬に雪の滑り止めとして牛に履かせていたことがあるのは覚えているが、それ以外どういうときに履かせたのか記憶にない。

 こうした牛馬車、そして大八車が私の幼いころは町、村を問わず見かけられたが、大八車に関しては農家はあまり利用していなかった。
 山形市内では当時私たちが丸通と呼んでいた日本通運の貨物配送車として、また市のごみ収集車として使われている大八車を見かける程度だった。
 粗莚(あらむしろ)で梱包された貨物や柳行李などをたくさん積んで駅から家庭に運ぶ丸通の貨物配送の大八車がゆっくりゆっくり重そうに上り坂を上っていた。それを見ると、子ども心に気の毒になり、後ろから押してやったりしたものだった。なお、当時は今の宅配便のように家まで荷物を届けると運賃が高くなる上に大八車で運ぶので届くのが遅くなった。それで「駅留め」で貨物を発送し、受取人が駅に取りに行くという場合が多かった。
 ごみ収集車については前に野菜生産とのかかわりで述べている(註5)ので、それを見てもらいたい。
 なお、荷馬車による輸送は山形市内ではあまり見かけなかった。これはさきに述べたような町場での牛馬の飼育の困難からくるものだろう。
 これに対して農村部では牛馬車が普及していた。市内で見かけるものもほとんどは農家の牛馬車だった。これは明治以降牛馬耕が普及して農家が牛馬を飼育するようになっており、その牛馬を運搬に利用したことによるものだろう。
 したがって私の生家のある山形内陸、つまり牛耕地帯では牛車(ぎゆうしや)、私たちは「べごぐるま」と呼んだが、これが普通だった(註6)。
 この牛車は馬車とその構造は基本的には同じであるが、若干背が低く、小ぶりである。このように二種類あるのだが、牛車(ぎゆうしや)という言葉は一般には使われない。平安時代の言葉として「牛車(ぎっしや)」があり、また「牛車(うしぐるま)」として載せている辞書もあるが、一般には牛車は荷馬車のなかに一括されている。基本的には同じだからそれでいいのかもしれない。しかし牛車はやはり「馬」車ではない。牛車地帯の私としては不満である。だからここでは「牛馬車(ぎゆうばしや)」という言葉を使うことにした。

 話をもとに戻すが、牛馬車は非常に重宝なものだった。しかし、問題は牛馬車が通るためには道路がそれなりに広く、また曲折が少なくないとだめだということである。できればすれ違いができるくらいの幅がほしい。牛馬車は簡単にバックができないからだ。ところがそんなに広い道路は当時多くなかった。とりわけ農道は未整備だった。明治以降耕地整理が進んだとはいえ、いまだに零細分散区画の田畑が多く、田畑の道といえばあぜ道、つまり人間が歩くのがやっとというような細く曲がりくねった道が普通で、牛馬車が通れなかった。そこでやむを得ず、国道や市町村道など広い道路(といっても今のように広くはないが)に車をおき、田畑から稲などの生産物を背負い、あぜ道を通ったり田畑を横切ったりしてそこまで運んで車に積んだり、道路においた車から堆厩肥などの生産資材を何回かに分けてかついで田畑まで運んだりしたものだった。つまり人力と畜力の組み合わせで運搬するより他なかったのである。
 ところがそれもできない地帯があった。たとえば山間部がそうである。当時の技術水準では急傾斜地の多い山間部に広い道路をつくるなどは容易ではなく、ましてや棚田や段々畑などでは狭くて曲がりくねった道路しかつくれないので、牛馬車はもちろん、大八車を使うことも難しかった。
 だからこうした地帯では最初に述べたような人力による運搬が普通だった。ただし田畑や山林を多く持っている農家は牛馬の背中に荷物を載せて運んでいた。前にも述べたが、岩手の山間部などでは地主からあるいは本家から牛馬を借りて(註7)運搬していた。また牛馬の背に荷物をつけて往来することを商売とする農家もいた。
 しかし、平場では牛馬の背に載せて荷物を運ぶ姿などはあまり見られなかった。生家で牛の背に荷物を載せて運んだという記憶は私にはない。
 牛馬車のもう一つの問題は、女子どもが自由に扱えないことである。手綱をとって歩くことはできるが、車と牛をつなげるのは容易ではない。下手して暴れられたりしたら、女子どもの手には負えない。歩いていても何かあったら困る。私も子どものころはやはり牛が怖かった。もちろん普段はおとなしい。しかし、たとえば牛が畑にある野菜を食べようとして歩き出したとき、子どもの力でそれを制止することができない。だから牛馬車は大人の男の扱うものだった。これが不便だった。
 その点で便利だったのはリヤカーだった。

(註)
1.トラックによる輸送はあるにはあったが、そもそも台数はきわめて少なく、道路も整備されていない時代であり、めったに見かけなかった。
2.戦前から戦後にかけての農家の運搬手段については、下記掲載記事で簡単に述べたが、ここで少し詳しく述べてみる。
  10年12月10日掲載・本稿第一部「☆子牛の売られていく日」(2段落)
3.辞書を引いてみたらかなぐつは漢字で「鉄沓」と書くとのことである
4.若い人たちにはわからないかもしれないので説明するが、穴のぶつぶつ開いた銀色の石のような燃料で、石炭を高温乾留してつくったもの。燃やすと非常に高温となるので工業などさまざまな用途で用いられたが、私の幼いころは鍛冶屋さんでは木炭に代わってこのコークスを用いていた。
5.11年3月11日掲載・本稿第一部「☆「循環型」だった農業」(6段落)参照
6.なぜ牛耕かについては、下記掲載記事で述べている。なお、そこで述べたように仙台は馬耕地帯なので山形と違って馬車が普通だった。
  12年3月26日掲載・本稿第三部「☆地域に誇りをもたない風潮」(3段落)
7.11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(2段落)、
  11年2月24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村」(2段落)参照

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR