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便利だったリヤカー、自転車



                 車社会化の進展(2)

               ☆便利だったリヤカー、自転車

 リヤカー、これは大正期に日本で開発されたものだそうだが、人力による牽引という点では大八車と同じであり、改良大八車ということができよう。大八車よりは小さいというのが難点といえば難点だったが、これは便利だった。
 まず軽かった。木製ではなく、車体は鉄製のパイプ、車輪は空気入りタイヤで構成されているからである。女子どもでも十分に動かせる。
 また、大八車などよりは速い。軽いし、タイヤがついているからだ。もちろん若干ではあるが。ともかく楽である。
 私の生家でも早速買ったようである。野菜などの収穫物や肥料等々の運搬では大活躍だったらしい。なお、私の生まれる前、大正末から昭和一桁年代に祖母が野菜の触れ売りをしていたと前に述べた(註1)が、そのときはリヤカーを使っていたとのことである。
 しかし、稲上げのときなどのように運ぶ量が大量のときは牛車が中心で、リヤカーは補助用となる。つまり、リヤカーと牛馬車は併存して利用された。
 もちろん、リヤカーも人間が引いて歩くわけだから、大八車より速いとはいっても基本的には徒歩と変わりはない。
 しかし、いいことがあった。リヤカーは自転車の後ろにつなげるようになっていることだ。つないで自転車に牽引してもらえば自転車と同じスピードでリヤカーは走り、かなり速くなる。もちろん、重いものを載せたり、上り坂にさしかかったりすると、自転車から降りて引っ張らなければならないなど、人力での限界はあるが、よくもまあこうしたことを考えたもの、さすが日本人と言いたいところである。
 私の物心ついたときに大八車をそれほど見かけなかったのはこうした便利なリヤカーが普及していたせいではなかったろうか。

 畑に自転車+リヤカーで行くときは、かごなどの容器とか鍬鎌とかしか積んでないから、きわめて軽快である。ただ当時は未舗装の凸凹道路だったから、ガタガタと音はうるさく、載せたものが揺れて落ちないように気をつけなければならなかった。帰りには収穫したトマトやナスなどの野菜を山のようにリヤカーに積む。そしてそれを家に持って帰る。かなり重く辛い。上り坂では自転車が動かなくなる。降りて引っ張る。ちょっとした上りでしかないのだが、もう汗だくだ。ようやく上りきって平らな道になるとまた自転車に乗り、足に思いっきり力を入れてペダルを踏む。家に着くとほっと一息、リヤカーから下ろしてそれから小屋で選別、箱詰めなど(註2)、明朝の出荷の準備だ。これが中学から大学にかけての夏休みの私の毎日の仕事だった。
 なお、この自転車だけで運搬することもあった。小さな荷物だったら後ろについている荷台につけて運べるようになっていたからである。いうまでもなく、これは速いし、楽でもある。とはいっても、手に持てるくらいの、せめて背中に背負うくらいの量しか載せられない。ここに限界があるが、ともかく便利だった。

 前にも述べたが、私の生まれたころの1930年代には、農家がこうした自転車、リヤカーを牛馬車と合わせて利用するようになっていた(註3)。
 とはいっても、当時は自転車もリヤカーも高価だった。持っていない農家の方が多かった。戦後自転車でなされた郵便配達でさえ徒歩でやっていた時代だったのである。
 また、牛馬車となると一定の経営面積をもつものしか持てなかった。
 さらに、雪国では大八車や牛馬車、リヤカー、自転車は冬期間使えない。馬(牛)そり、人間の引くそりを利用する以外なかった。だから冬期間の運搬・移動のスピードは自転車導入前と変わりなかった。
 このような問題があり、また人力、畜力という限界はあったが、ともかくこれらは生産・生活両面での利便性を大きく高めたことはいうまでもない。

 ところで、自転車はそもそも人が乗るためにつくられたものである。今述べた運搬は本来からいえば副次的な利用法でしかない。
 人間の移動には徒歩しかなかった時代、自転車は本当に便利なものだった。もちろん鉄道はあった。しかしそれは、決まったレールの上を走るだけなので、どこにでも自由に移動できる手段ではなかった。ましてや線路はそれほど走っていない。これに対して自転車は人が通れる程度の道路さえあれば自由に移動できた。
 昭和が始まったころ、父たち若者数人で自転車で笹谷峠(現在は山形高速道が走っているが、当時は車も通れない道路だった)を越えて松島に旅行したという。当時は仙山線もなく、仙台に行くのは北に奥羽本線で行って新庄で陸羽東線に乗り換え、小牛田で東北本線に乗り換えるか、もしくは奥羽本線を南下して福島で東北本線に乗り換え北に向かうのだからほぼ一日がかり、しかも金はかかる。だから自転車で行ってみようとなった気持ちはよくわかる。しかし道路が悪い上に上りは厳しく、かなり大変だったようである。だから自転車は近距離用の移動手段でしかなかった。こんなことは言うまでもないだろうが。

 これも言うまでもないことだが、リヤカーはそもそも荷物運搬のためにつくられたものである。しかし、人を乗せて運ぶこともあった。病人が出た場合、リヤカーに布団を敷いて病人を乗せ、病院に運ぶなどがその典型例だ。この点では大八車も同じで、このように使われたことがあったらしい。
 私も乗せてもらったことがある。小学校のころ、捻挫して歩けなくなったとき、祖父がリヤカーに私を乗せて骨接ぎに連れて行ってくれたことが二度ばかりあった。
 私が乗せて走ったこともある。高校に入ったばかりのころ、夜中に祖父の姉の死が知らされた。それで自転車につけたリヤカーに祖父を乗せ(祖父は自転車に乗れなかった、というより乗らなかった)、真っ暗な田んぼの中を走って連れて行ったこともある。

 ここまで書いてきてふと思った。なぜわが国では牛馬車が人間の乗物として利用されなかったのだろうかと。もちろん、平安時代には人間を乗せる牛車(ぎつしや)があった。しかしそれは貴族の乗物だったし、しかもその時代以降利用されていない。
 欧米では馬車が普通の乗物だったようだし、西部劇では駅馬車が出てくるのに、わが国で乗物といえば駕籠、馬だった。なぜなのだろうか。
 これは日本の地勢から来ているのではなかろうか。国土の七割を占める急峻な山々、大小無数の河川、これを貫いて牛馬車が通れるような広い道路や橋をつくるのは当時の土木技術では容易ではなかったことがその原因となっているのではなかろうか。また、わが国は海国、また河川の多い国なので、船を利用することができたことも一因となっているのかもしれない。さらに、国土が狭く、移動距離が諸外国と比べて相対的に短いので、徒歩で、どうしても必要なときにだけ駕籠や馬あるいは船を利用して、移動することができたことも原因として考えられる。
 もちろん、明治以降、統一国家としての必要性、軍事的必要性から新しい土木技術を導入して国道等の道路の整備がすすめられた。しかし、それとほぼ並行して鉄道の敷設が進められた。それが人間の乗物としての牛馬車の必要性を弱めたのではなかろうか。
 だから、一般庶民の乗物としては、鉄道以外、自転車が初めてではなかったろうか。もちろん、人力車が明治期に開発されている。これは駕籠の代用で、しかも他人に乗せてもらうものである。これに対して自転車は自分が所有し、自分で動かして乗る乗物である。これも日本の歴史上、初めてではなかったろうか。
 ここまで書いてきてまた別の疑問がわいてきた。
 なぜ自転車+リヤカーが欧米の乗合馬車のように、あるいは人力車を発展させたものとして、他人を乗せて金をとって走るということがなかったのだろうか。
 これに近いものとして、輪タクはあった。自転車と人力車をくっっけたものに客を乗せ、料金をとって走るもので、自転車の車輪とタクシーをくっつけて輪タクと呼んだらしい。今も東南アジアで見られるようだが、日本では戦後の一時期見られただけですぐに消えてしまった。
 これは時代のせいだろう。自転車やリヤカーが普及するころは、都市部においてはすでに市電、バス、タクシーが走るようになっており、農村部では自転車、リヤカーの個別所有が進みつつあったので、とくに必要なかったということから来ているのではなかろうか。
 まったくの素人考えでしかないのだが。

 戦後も、牛馬車、リヤカー、自転車は輸送手段として大活躍した。ただし、戦前のように牛馬車やリヤカーに小作料の米を積んで地主の家か米倉庫に運ぶなどということはなくなった。こうした農地改革等の成果もあって、ほとんどの農家がリヤカーや自転車をもてるようになり、女性も自転車に乗れるような時代になってきた。また、耕地整理事業の展開による農道整備は牛馬車の導入を促進した。牛馬車の車輪はゴムタイヤに代わり、積載量は増え、動きもスムーズとなった。
 しかし、こうした輸送手段の全盛期はあっという間に終わった。
 その終焉は1950年代後半からの動力耕運機の普及から始まった。いうまでもなく耕運機は田畑の耕起のために導入されたのだが、耕運機の後ろにリヤカーのような荷車をつけ、それに荷物を載せて耕運機が牽引すれば運搬することができる。それで運搬用としても利用されるようになったのである。とはいっても、荷車はリヤカー程度の大きさだから量は牛馬車のようには積めない。しかし速度と馬力の面では牛馬車よりははるかに優れている。しかも牛馬は耕運機の導入で耕起で使わなくなっているので、運搬のためだけに牛馬を残しておいたら引き合わない。かくして牛馬車の利用は衰退していった。
 その衰退を決定的にしたのはオート三輪や軽トラックの導入だった。
 性能、価格両面で導入しやすくなったことから1960年ころから農家に導入されるようになり、それが牛馬車を決定的に駆逐し、さらにリヤカーの利用を激減させたのである。
 私の生家でも1953年に耕運機、58年に軽トラを入れて父が運転するようになり、牛車は使わなくなった。牛は、耕起・運搬等の使役のためでなく、厩肥取りと育成販売のために飼育するだけになった。そしてこの軽トラで田畑の作業や見回りに行くようになり、さらに後ろの荷台に幌をかけて家族が乗り、行楽にいったりするようにもなった。
 もちろん自転車は残った。それどころか台数は増えた。かつてのように1戸1台ではなく必要に応じて2台も3台もあるようになり、子どもが通学のために利用するようにもなった。
 そしてやがて乗用車、中型トラックが農家に導入され、日本はかつて夢にも見なかった車社会を迎えることになるのである(註4)。

(註)
1.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆商業的農業の発展と農協」(3段落)参照
2.10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承」(1段落)、
  11年5月27日掲載・本稿第二部「☆農村と山村の結合の解体」(1段落)参照
3.10年12月10日掲載・本稿第一部「☆子牛の売られていく日」(2段落)参照
4.11年2月28日掲載・本稿第一部「☆北海道入植、南米移住」(7段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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