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人力車の消滅、自動車の急増と道路



                 車社会化の進展(3)

             ☆人力車の消滅、自動車の急増と道路

 母がこんなことを言ったことがある。大正末か昭和初年のころ、「ノッテミタイナ ジドウシャニ」という詩の書いてある子どもの本があったと(註1)。私は思わず笑ってしまった。私たちがかつて飛行機に対して思っていたのと同じことを自動車についても考えていた時代があったのだ。
 私の生まれた頃、1930年代後半(昭和10年代)には、さすがにそんなことはもうなかった。それでもやはりまだ自動車は珍しかったのではなかろうか。それを感じたのはかなり前に近所の八百屋の小母さんの話を聞いたときだった。

 前に何度か書いたが、私の生家から30㍍くらいのところを国道13号線(現112号線)が通っていた。私の生まれる直前に産業道路としてつくられ、幅広い車道と歩道とが分離されている当時としては珍しい舗装道路だった(註2)。その国道に面して八百屋をいとなんでいる小母さんがかなり高齢になったころ、昔を思い出して私にこんな話をしてくれたことがあった。
 「お前が2、3歳のころ、一つ年下の妹の手を引いて、自動車が来るのを見るために国道まで歩いてよく来たものだった。2人でうちの八百屋の店先の歩道の縁石にちょこんと腰をかけて自動車を待つ。なかなか来ない。それで妹が飽きてしまって車道にちょこちょこと飛び出す。そのたびに、危ないから行ってはだめだとお前が大きな声で言いながら妹を引き戻して座らせたものだった、お前は本当に妹思いでえらかった」
 こう言うのだが、もちろん私にはこんな記憶はまったくない。でも、それでわかった、私の小さい頃、市内だけあってもうバスは通り、乗用車やオートバイもあったが、まだ車は珍しかった時代だったのだと。
 戦後すぐのころもそうだった。戦時中につくられた木炭バスが後ろにつけたタンクから青い煙をたなびかせてたまに走る程度だった。ただし、米軍が私の通っていた国道沿いの小学校を接収して駐留した(註3)ので、ジープなど米軍の車だけはひっきりなしに通った。しかし、2年後に撤退したら、とたんに通る車は少なくなった。
 夜暗くなると自動車はほとんど通らなかった。幹線国道なのにである。たまに通ると、今と違って本当に静かな夜、そして当時の日本の自動車のすさまじい爆音、田畑の真ん中の道路を来るので、2㌔先くらいからわかる。小さな音からやがて大きくなり、耳をつんざくような音がして通り過ぎる。突然音が小さくなる、町のなかに入り家々で音が防がれるからだ。そしてまた沈黙の夜となる。1950年代前半までの夜はこんなものだった。

 終戦直後、山形の駅前に人力車が群れていた。占領軍として市内に駐留したアメリカ兵はそれを珍しがり、喜んで乗っていた。ろくな就職口のないころ、車夫になる人も多かった。日本人の中にも乗る人はいた。人力車は今のタクシーと同じだったからである。もちろんタクシーはあったが、数は少なく料金も高かった。
 1950年代の半ばになると人力車は少なくなってきた。講和条約で米軍が引き上げ、米兵が少なくなってきたからもあるが、バス等の公共交通機関が整備され、市内外にバス路線が新設増設され、本数も増え、タクシーも徐々に増えてきていたこともあった。
 仙台駅の前にももちろん人力車がいた。輪タクもあった。1953年、家内が仙台の学校に入学して寮に入ったとき、仙台の南のある町から来た同級生が駅から人力車に乗って寮に来た。荷物もあるのでそれに乗りなさいと親から言われてきたらしい。「タクシーに乗らないで人力車で来るとは」と、同級生みんなが後々までそのことを話題にしたという。当時はそこまで人力車は珍しい存在となっていたことを示すものだろう。
 私は結局一度も人力車に乗らないで終わった。そもそも乗ろうなどと考えもしなかった。小さい頃から人力車には絶対に乗るまいと決めていた。汗水流して牽いている人を考えたら、のうのうと乗っているなどとってもできない、どんなに金があっても乗るまいと考えていたからである。
 それならタクシーだって乗れないではないか、人の世話になって乗せてもらっているということでは同じではないかと言われるかもしれない。しかし、運転手さんは車夫と違ってそれほどの重労働ではない。だからそれほど罪悪感を感じない。しかも運転手さんは技術者だった。
 いつだったろうか、かなりお年寄りの方が運転している個人タクシーに乗ったとき、自分は昭和初期に東京でタクシーの運転手をしており、戦後仙台に来たのだという話をしてくれた。そして彼はこう言って笑っていた。戦前は運転手といえばかっこいい職業として尊敬され、女性にもてたものだった、今の航空機のパイロットと同じだと思えばいいだろう、でもそれはもう昔話になってしまったと。
 そうなのである、タクシーの運転手さんはどんどん増えてタクシーは一般庶民の乗物となった。また、トラックが荷物を玄関先まで運んでくれる時代になった。一般の会社も自動車をもって配送したり、用事をたしたりするようになってきた。そして1960年代後半ころから自動車の運転免許をもたないと就職ができないという時代になり、運転は特殊技能ではなく、普通の人のやるものになってきたのである。
 そして世の中は車社会になった。信じられないくらいの速さで、まさにあっという間に変わった。

 農村部もそうだった。当初は大半が軽トラックだったが、農家が自家用車をもつ時代になった。かつては考えもしなかったことだった(註4)。役場は公用車を備え、農協職員は農協の車で農家に用足しに行くようになった。また農村部の中心地の町に小さなタクシー会社がたくさんできた。
 農家を始め農村部に住む人たちは本当に楽になった。公共交通機関の少ないそれどころかない地域の人が近隣の集落や役場、農協に行くのに歩くか自転車しかなかったが、自家用車で簡単に行けるようになり、町場に買い物や薬もらいに行くのも本当に楽になった。
 町の飲み屋に酒飲みにも行けるようにもなった。それでちょっと思い出すこともある。
 1968年、宮城仙北の米山町(現・登米市)に行ったとき、役場の職員がこの町には飲み屋が一軒もないという。それは珍しい、健全な町宣言でも出したらどうだなどといっしょに大笑いしたのだが、ある時農協青年部の講演で招かれ、それが終わった後いっしょに飲みに行こうと青年部の役員の人たちに車に乗せられた。飲み屋がないのだから隣の町にでも行くのかなと思っていると、10分もしないうちに隣町へ通じる山道のなかにぽつんと立っている店の前で止まった。雑貨屋兼酒屋のようである。青年たちは私をその店の庭の方に案内し、玄関から家の中に入ろうとする。何が何だかわからないで後をついていくと、奥の座敷に長い机があり、その上に何人分かのコップ、盃、料理を盛りつけた皿が並んでいる。これは飲み屋ではないか。聞いてみると、酒屋兼飲み屋で、飲み屋の方はその営業を税務署にも役場にも正式に届けていない、だから飲み屋ではないという。でも実質は飲み屋である。やっぱり米山町にもあったではないか、そもそもないのがおかしいのだとまたみんなで大笑いした。
 と言っても、やはりまともな飲み屋はない。それでたとえば隣町の迫町(現・登米市)に飲みに行く。ここは登米郡の中心地なのでけっこう飲み屋がある。問題は帰りだ。行きでさえ大変なのに夜帰るのはもっと大変だ。だからめったに飲みに行けなかった。しかし車社会になった。自家用車がある。だから行きは簡単だ。帰りは誰か一人飲まないで運転してみんなを乗せる。さもなければ運転代行にすればいい。運転代行などという便利なものができたのである。何人かいっしょに乗れば料金は安い。
 町のような盛り場が農村にはないが、車で簡単にそこに往き来できる。農村部に住みながら町場のもっているものを享受できる。そう言う点では、町と村の格差が少なくなった。
 なお、その後米山町にも飲み屋ができた。さっき言った酒屋兼飲み屋も正式に飲み屋としても営業することになった。それから約40年、米山のその飲み屋はどうなっているだろうか。この地区の中心部の迫町の飲み屋も少なくなっているというからだ。大都市と農村部の文化格差がまた広がってきているのだろうか。

 戦後こんな歌が流行った。
   「田舎のバスは おんぼろ車
    デコボコ道を ガタゴト走る」(註5)
 田舎だけではなかった。都会もまた道路が悪かった。主要国道以外、ほとんど未舗装、デコボコ道だった。町村によっては舗装道路のまったくないところもあった。
 そこに車が一斉に走るようになる。晴れの日が続くと車が白い土ぼこりをまきあげて走る。雨が降るとでこぼこ道路にたまった水を泥をはね上げる。歩行者はたまったものではない。道路わきの家も被害を受ける。大型のダンプなど通ったら地響きで家が揺れ、夏に縁側の戸を開けてご飯を食べることもできない。
 田畑ももちろんたまらない。道路わきの作物は土ぼこりと乾いた泥で真っ白、さらに石ころが田畑の中に飛ばされてくる。土の中が大小さまざまの石ころだらけになり、鍬で起こすとガチンと当たる。耕運機の爪が壊れたりもする。
 都市部でもこうした未舗装が大きな問題になってきていたが、農村部はさらにひどかった。
 やがて舗装が進んできた。また道路の拡幅、集落のなかを通らないバイパスの新設もなされてきた。こんなに道路が必要なのかと思うくらい、田畑をつぶして、膨大なカネをかけて道路がつくられた。
 さらに、農道の舗装や拡幅、新設も進んできた。農業の大型機械化への対応からしてもこれは必要とされていた。これで農作業は、また田畑への移動や生産物・資材の運搬は、非常に楽になった。
 しかし、ますます進む車社会のなかで、農道のなかには通勤道路になってしまったところもあった。主要道路の渋滞を避けるために都市への通勤者が農道を通るのである。農道にトラクターなどを停めておくと、けしからん、どけろとばかりに警笛が鳴らされる。ここは農道なのだが。落ち着いて仕事もしていられない。
 そしてこの農道はやがて兼業道路、兼業農家の通勤道路となり、農家の労働力流出を進める役割も果たすようになってしまった。

 農道すら交通渋滞するようになった(もちろん場所によってだが)のだから、ましてや都市部の交通渋滞はすさまじかった。そしてあふれる車は排気ガスを放出して光化学スモッグなどの環境問題、健康問題を引き起こした。さらに、事故が多発した。便利な社会の裏にはこんなことがあったのである。

(註)
1.「イチドハ ノリタイ ジドウシャニ」だったかもしれない、私の記憶が不鮮明である。
2.10年12月9日掲載・本稿第一部「☆やませ―サムサノナツ―」(4段落)参照
3.11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(1段落)参照
4.11年6月3日掲載・本稿第二部「☆三種の神器、格差の縮小、中流意識」(2段落)参照
5.『田舎のバス』 歌:中村メイ子 作詞・作曲:三木鶏郎  1955年


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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