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車社会と地域格差、年齢格差の拡大



                車社会化の進展(5)

            ☆車社会と地域格差、年齢格差の拡大

 私の網走での勤務が終わるとき、車は仙台に持ち帰らないことにしようと家内は考えていた。もう年になって運転は無理になっているだろうし、何しろ北海道限定免許(本気にする人もいるがこんな免許があるわけはない)、北海道の広くて車の少ない道路しか運転したことのないものが仙台の狭くて車の多い道路の運転は難しいだろうし、三車線や四車線の道路を走るのも難しいだろうからである。
 しかし、6年半も乗っていると車に愛着がわく、結局仙台に持ち帰った。家内は最初恐る恐る走っていた。また30㌔速度制限などにはなかなか慣れなかった。網走にはなかったからである。そのうち慣れてきた。車のあふれている町の中心部も走れるようになった。
 ところが、家内は欲求不満である。しばらくぶりで会った研究室の卒業生2人と飲んだとき、家内と3人大いに盛り上がり、都府県での欲求不満を爆発させていた、「カーブを70㌔で曲がりたい」、「雪道を車が踏む音がなつかしい」、「思いっきり車で雪道を飛ばしたい」(零下10度以下になると道路はあまり滑らない)等々。そして家内はいう、「高速道路は仙台で初めて乗ったのだが、そっちの方がずっと走りやすい」と。みんながそうだそうだとうなずく。

 仙台に帰ってきて痛感した。ますます自家用車がないと生きていけない社会になっていると。
 家の近くにあった小さな商店はほとんど潰れてしまったからだ。
 昔はみんな小さかった。八百屋も魚屋も豆腐屋も雑貨屋も靴屋もそして本屋もみんなみんな小さかった。第一次産業や零細消費者と結びつく商店の規模はみんな小さかった。小さくて十分だった。ついでにいえば、私たち日本人の身体も小さかった。
 しかしものがあふれる社会になってきた。量ばかりでなく種類も多くなった。あふれるものをあつかうには昔の八百屋や雑貨屋では小さい。一方でテレビのコマーシャルは歌った、『大きいことはいいことだ』と。ちょうどその時代から、大型量販店が各地に進出してきた。そして大きな大きな資本が八百屋や魚屋、雑貨屋をやるようになってきた。昔は考えもしなかったことだった。呉服屋から始まった三越などのように大きな商店はあったが、八百屋や魚屋などは金持ちがやる商売ではなかった。だからかつては無一文に近い人でも八百屋を始めることができた。戦後引き揚げ者がわずか2坪か3坪の八百屋を開き、それで命をつなぎ、やがて大きな店にすることもできた。しかし今は大きな資本が進出し、それと競争せざるを得なくなってきた。新しく始めるなどもちろんできず、既成店も太刀打ちできない。子どもたちも店の後を継ごうとしない。
 やがて全国チェーンの大型量販店が郊外につくられるようになってきた。広大な田畑や林野を買い占め、大きな建物をつくってさまざまな品物を大量にそろえ、さらに車社会に合わせて広い無料の駐車場をつくった。大量の排気ガスをまきちらしながら自家用車はそこに集まった。当然住宅地内の中小商店の客は大きく減った。小さな町の場合は町中心部に人が集まらなくなり、シャッター通りとなった。
 私の住んでいる住宅地でもそうだった。とくに90年ころには山と畑だった郊外に環状線と称する道路ができ、そこに大型量販店(スーパー、電気、洋服、雑貨、薬、ホームセンター等々)がいくつもずらっと並ぶようになった。全国チェーンの飲食店やパチンコ屋、カラオケボックスも並ぶ。それと同時に住宅地内の昔なじみの店は少しずつ姿を消していった。網走から帰ったらまた少なくなっていた。大店法(大規模小売店舗法)が2000年に廃止され、出店規制が緩和されたからである。それで、まともな買い物、時別な買い物をしようとなると、郊外に行かなければならなくなっていた。町中心部には高価なもの、若者向けのものを売る店はたくさんあるが、郊外の大型量販店のように品物がそろっている店が少ないからである。ところが、そうした店のあるところは郊外だからバスの本数は少なく、帰りに買い物したものを持って帰るのも大変である。そもそもそうした郊外の店は車をもつ人を対象にしてつくられたものである。だからどうしても自家用車にたよらざるを得なくなる。
 それでも私の家などまだいい。近くに小さなスーパー、コンビニ、そば屋、郵便局、銀行、各種医院等がある。近くにいくつか大学があり、町中心部にも近いので若者の居住するアパートが相対的に多いからだ。また、郊外の方にいくつもできた大きな住宅団地から町中心部に向けての道路がすぐ近くを通ることもあって町の中心部と仙台駅に行くバスも本数はかなり多く、JR仙山線の駅も近くに新しくでき、非常に便利である。小さなスーパーでは最低限のものを売っているので、種類が少なく、外国産の肉・魚や野菜、加工品が主であるということさえがまんすれば、そして歩くことさえできれば、食ってはいける。医者にもかかれる。だから自家用車なしでも何とか生きていける。
 問題は郊外の住宅団地だ。ここに住む人たちは車なしには動けない。高齢化して自家用車に乗れなくなったらどうするのか。若者が家にいればいい。しかし、多くは高齢者世帯だ。かつてあれだけいた子どもたちはいなくなり、小学校の廃校が問題となっているほどだ。車社会を前提にして一挙に造成した住宅団地にはここに弱点がある。そして古い団地は高齢者の町となり、買い物難民が問題となりつつある。
 昔は歩いたものだった、お年寄りも歩いた、歩けばいいではないか、健康にもいいと言われるかもしれない。しかし、一日がかりだ。たとえば私のいるところから大型量販店の密集する郊外の通りに行こうとすると車で十五分、近いではないかといっても距離にすると片道約6㌔、歩くと1時間半、かつての峠を越えていかなければならないのでもっとかかるだろう。こんなことをやっていられるない。
 それでも仙台などはまだいい。公共交通機関があり、医療機関にもそれほどの料金をとられずにタクシーでいける。
 農村部はそういうわけにいかない。商店過疎、病院過疎、学校過疎、公共交通機関の撤退などのなかで、自家用車のないものはどうしようもない。これで自家用車に乗れなくなった高齢者はどうなるのか。かつては高齢者を助ける若者が家にいたが、それもいなくなっているからなおのことだ。
 昔だって農村は不便だったではないか、何を今さらといわれるかもしれない。しかし、都市があれだけ利便さを享受しているのに農村部は不便でいいというのはおかしい。また、若者が農村部にあれだけいなくさせられている、これもおかしい。

 先日、十何年ぶりかで仙台―酒田間の高速バスに乗った。道路はかつてとかなり変わっていた。山形高速道がほぼ完成したからである。私の好きだったかつての月山道の景色の一部が眺められなくなって残念だったが、ともかく時間は早くなり、3時間で到着した。かつてより1時間半早まったことになる。しかも1日に10往復も走る。70年代、当時の国鉄の急行で4時間半、朝晩一本しかなかった時代、それでも乗り換えなしの直通で行けて楽になったものだと喜んでいた時代にくらべると何と便利になったことかと改めて実感した(といっても、3時間なら仙台―東京の往復ができ、やはり大都市のないところは相も変わらず不便なのだが)。
 それにしてもこんなにバスが走って乗客がはたしてそんなにいるのだろうか。と思ったらけっこういるという。特に土日などは仙台への買い物客で朝は行きが満員、夕方は帰りが満員となるというのである。
 もう一つ、ちょっと不思議に思ったことがあった。鶴岡と酒田の郊外にある大型スーパー店に停留所があることである。なぜこんな田んぼの真ん中に停留所があるのか、そもそも乗客がいるのかと。そのことを酒田の人に聞いたらこういう、農村部の人がここまで自家用車で来てスーパーの駐車場にそれをおき、バスに乗って仙台に行くのだと。なるほど、酒田や鶴岡駅など町中心部のバス停に行くよりずっと楽だし、駐車場をさがし、その料金を払うのは大変、ここにおいていくと無料だからつごうがいい。しかしそれでは駐車場をただで利用されるスーパーが困るではないかというと、仙台からの帰りに夕食のおかずなどちょっとしたものを買っていくし、駐車場は広いし、まあ問題はないという。
 いずれにせよいいことだ。たまに仙台に行き、大都市の匂いをかぐのもいいし、酒田・鶴岡で売っていないものを買うのもいい。
 しかし問題なのは酒田や鶴岡などの町中心部だ。郊外のスーパーにまた仙台の店に買い物に行くものだから、そこの商店街がさびれてしまう。
 今回酒田駅に行って驚いた。実際にそうなっていた。駅前の撤退したデパートの跡地はいまだにそのまま空き地、中小商店や食堂、飲み屋はほとんどシャッターをおろし、かつての賑わいは今いずこ、ゴーストタウンとまではいかないけれど何と寂しくなったものか、ちょっと悲しくなった。
 もちろん、これはスーパーや仙台だけのせいではない。自家用車と高速バスのせいだけでもない。農村部と都市部の経済的格差、人口の地域格差の広がりなどがこうさせたものなのだが。

 ついでにもう一つ思いついたことを述べておきたい。
 自動車が少ないその昔、車に気をつけて道を歩くなどということはなかった。たまに車が来てもエンジンの音がうるさいし、時にはすさまじい音の警笛を鳴らすので、すぐ気がついたからである。また当時の車はスピードがないので、気が付いてからゆっくり道端によけても十分に間に合う。
 だからみんな堂々と道の真ん中を歩き、道端に群がって立ち話をしていたものだった。
 そうなると困るのが自転車だ。自動車のように音がしないから、通行人は気が付いてくれない。歩行者はまったく注意せずに好き勝手に動くので、まともにぶつかったり、接触したりする。それを防ぐためには、ベルを鳴らして通行人の注意を喚起するしかなかった。だから、かつての自転車の前部には必ずベルがついていた。
 自動車の警笛などからみるときわめて軽快でさわやかなチリンチリンというベルを鳴らしながら青空の下を自転車が走る、こんな光景がよく見られたものだった。
 やがて自動車が普及するなかで通行人は車に絶えず気を配るようになり、道路のわきを歩いてくれるようになった。だから自転車は、自動車には気をつけるが、通行人には気をつけなくてもすむようになった。
 そうしたこともあるのだろうか、最近はベルを鳴らす人が少なくなった。それどころか最近の自転車のなかにはベルがついていないのがある。だからたまにベルの音を聞くと逆にびっくりする。
 このように自転車に乗る人がベルを鳴らさない。それどころか、携帯電話をしながら、イヤホーンをつけながら走る。つまり通行人には気をつけない。
 一方、自転車に乗る人が、かつてほどではないが、最近増えている(これは環境問題、健康管理等からしてけっこうなことなのだが)。
 その結果が、最近の自転車事故の多発である。もちろんそれは自転車が自動車と歩行者の間に挟まれて狭いところしか通れなくさせられていることにも一因があるが、いずれにせよこうした自転車事故の被害者の多くは高齢者である。
 もう一方で、高齢者は自転車に乗れなくなってきた。自動車が増えすぎて危ないからだ。何十年と通勤で自転車に乗ってきた私もこわくて乗れなくなってしまった。
 こうした面からも高齢者に住みにくい社会になってしまった。

 おまけにもう一つ、仙台に帰ってきたとき家内は驚いていた。擦り傷のある自動車の多いこと、前後左右あちこち傷だらけ、網走とは比較にならないと。しかも直さないで平気で走っている。運転が下手なのかと思ったが、ほとんど自分の家の駐車場に入るときの傷だとか。駐車場とそこに入る前の道の狭さがそうさせているのである。さらに町の中の駐車場は網走よりはかなり狭く、よく駐車できると家内がいうほど、これも擦過傷の原因とか。家内は人の車の擦り傷を気にしながら車に乗っており、あんな風にならないようにと注意している。
 先日、新幹線の先頭車両を見た家内が「さすが擦り傷がない」と言う。一瞬おいて「あ、当たり前か」と一人で大笑いしていた。そうなのである、新幹線は駐車場の狭さなどに悩む必要がないのである。

 話が農業のことから若干わき道にそれてしまったが、今言ったような問題はあるけれども、高速交通体系の整備と車社会化で生活面での利便性が高まったばかりでなく、生産面でも野菜等の首都圏等の大市場への輸送が可能となって産地形成と拡大が可能となった(註1)。また、私どもの農村調査についていえば、先にも述べたように(註2)、きわめてしやすくなった。
 それだけではなかった。調査後の集計整理、調査報告や論文の執筆まで、きわめて楽になった。「情報化社会」なるものが到来したのである。

(註)
1.11年7月25日掲載・本稿第二部「☆輸送時間の短縮と大都市向け野菜の導入」(2、3段落)参照
2.    同    上    (1段落)、
  12年5月7・9・11・14・16日掲載・本稿第四部「調査地への移動手段の変化(2)~(6)」参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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