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調査資料の集計整理と度量衡の変化



                 情報化社会の到来(1)

              ☆調査資料の集計整理と度量衡の変化

 農村調査から帰ってくると、まず農家調査票の整理と集計、統計資料等の整理加工に入る。たとえば調査農家の家族員数や経営面積、機械台数、経営費等を整理・集計し、その一戸平均を計算してみたり、その変化を累年で追ってみたりする。また、それと対比するために、市町村や県、国のそうした数字を統計資料から算出し、図表を作成したりする。この計算がけっこう大変なのだが、かつてはそれをそろばんでやった。

 学生のころである。何の調査のときだったか忘れたが、調査農家の経営耕地面積を合計していた。ところがどうもおかしい。集落の総耕地面積と合わない。調査農家を合計したものが多くなるのである。どうしてかわからない。そしたら当時助手をしていたMIさん(後に林業経済分野で活躍なされた)が笑いながら言う、『歩』の合計のしかたをまちがっていないかと。そうだった。当時は町・反・畝・歩(=坪)の単位で面積を表していた。そして1町=10反、1反=10畝、1畝=30歩で計算するわけだが、ついつい歩を十進法で単純合計して10歩になると1畝として上の桁に繰り上げてしまった。だからおかしくなってしまったのである。このように面積の計算はそろばんでも計算しにくく、苦労したものだった。
 米麦の生産量の計算でも困ることがあった。当時は石・斗・升・合という単位の体積=容量で量っていた。若い人にはなじみがないだろうから説明しておくと、1石=10斗、1斗=10升、1升=10合、1合=10勺である。このように十進法なので反収等の生産量の計算の場合は面積のような問題は起きず、計算は問題はない。しかし農家で一般的に使われている単位は「俵」であり、しかも1俵=4斗である。するとこの換算が大変になる。
 芋や野菜等の生産量は重量を単位としており、1貫=1000匁なので比較的単純である。しかし十進法でないからちょっと気をつけなければならなかった。
 なお、長さの単位は1里=36町、1町=60間、1間=6尺、1尺=10寸で、これはもっと複雑だった。
 私たちは学校で「メートル法」を学んでいたが、日常生活はこういう単位いわゆる「尺貫法」を使っていた。たとえば身長は何尺何寸、体重は何貫何百匁と言っっていたし、野菜や魚の売買では匁を使い、距離は何㌔などと言われてもピンと来ず、何里と言われてはじめて大体これぐらいの距離だというイメージがわいたものだった。

 大学院に入った頃(1958年)のある日、八百屋と肉屋に買い物にいったらびっくりした。野菜や肉をグラム単位で売っているのである。
 今まで100匁というと大体これぐらいの重さだというのが実感でわかっていた。ところがグラムで表示しているとどれくらいの重さなのかイメージがわかない。だから、何㌘欲しいといえばいいのか、値段がどれくらいになるのかが判断できない。たとえば100㌘10円と書いてあるとついつい100匁とまちがって安いと考えてしまったりもする。換算すればいいのだが、換算のしかたがわからない。やがて1貫目は3.75キログラム、100匁は375㌘という換算に慣れるようになったが、最初は戸惑ったものだった。
 1升=1.8㍑の換算も大変で、なかなか慣れなかった。
 八百屋さんや魚屋さん、米屋さんなども戸惑ったらしい。しかし、これまでの尺貫法で売買したりすると罰せられる。計量法という法律が厳しくなったので、どうしてもやらないわけにはいかなかった。
 農林省の統計も変わり、1957年度からメートル法で表示されるようになった。それでもわれわれは困らされた。換算が大変だったからである。とくに米麦の計量単位が容量から重量に変わったことには参った。これまでの1俵は60㌔、1石は150㌔とすることになったが、どうもイメージがあわず、またそれまでの統計数字とその後をつなげるためには換算しなければならず、大変だった。農家もそうだったようで、最初の頃はやはり尺貫法で話をし、後で整理するときに換算することにしていた。
 なお、面積については1962年まで統計書はそのまま町・反を使っていた。どうしてだかわからない。1町=0.997㌶でほぼ1㌶だったためなのか、地籍台帳等との整合性の問題があったためなのか、いずれにせよこの改変はあまり困らなかった。ほぼ同じだったのでイメージはつながったからである。
 こんなことで最初はいろいろ混乱はあったが、やはりメートル法になってよかったと思う。これに変わっていないとそろばんはもちろん計算機での計算も大変だし、さらにはコンピューター利用も大変だったろうからだ。
 とはいっても少し淋しい。農家が米を俵に入れる時の量りに使った一斗枡(いっとます)はほとんど見られなくなり、家庭用としても不可欠だった木製の一升枡(いっしょうます)、一合枡(いちごうます)なども見られなくなってしまった。農家や八百屋さんなどが野菜などの重さを量るのに用いたさお秤(棒秤)も見られなくなった。一寸先も見えない、一寸法師、一寸(ちょっと)などになぜ一寸が使われるのかも説明をしないとわからなくなった。和裁用の物差しの鯨尺(くじらじゃく)も死語になってしまった。
 それでも1升びん、4合びん、2合びんなどはそのまま残っており、その言葉もまだ用いられている。生産者の出荷する米袋が1俵もしくは半俵入りとなっているのも(その呼び名は60㌔袋、30㌔袋とメートル法にはなっているが)かつての伝統を引いている。畳の6尺×3尺もそうだ。それなりの合理性があったからかもしれないが、せめてこれ位は残しておいてもらいたいものだ。こんなことを言うのは年寄りのノスタルジアなのかもしれないが。

 ついでに言えば、私どもの年代は、こうした度量衡ばかりでなく、漢字の改変にも悩まされた。戦後一部の漢字の書き方が変えられたのである。小学校でせっかく覚えた旧漢字のいくつかが使えなくなり、新漢字を覚えなければならなくなった。もちろん、新漢字は旧漢字より書き方が簡単になり、また教科書や新聞雑誌等で使う漢字が制限されたので覚えなければならない漢字が減り、楽にはなった。しかし、まだ若干の旧漢字が私の頭の片隅に残っていて、講義で黒板に書くときついつい旧漢字を使ってしまい、学生から読めないと不満が出ることがある。
 もう一つついでに言うと、仮名や読み方の改変にも対応していかなければならなかった。今の「わいうえを」はかつては「わゐうゑを(ワヰウヱヲ)」であり、たとえば私の苗字・酒井の振り仮名は「さかゐ」、絵は「ゑ」としないと誤りだった。また、現在の「しましょう」はかつては「しませう」、「〇〇のような」は「〇〇のやうな」、「ちょうちょう」は「てふてふ」と書かなければならなかった(もっといろいろあるが)。それが大きく変えられた。ところが、「を」は「お」にならずに残り、方向を示すときの「○○へ」は「え」とならずにそのまま「へ」、「私は」の「は」は「わ」にならずにそのまま「は」を使わされる。統一性がとれておらず、戸惑ったものだった。
 せっかく小さい頃頭に叩き込まされ、手に覚えさせたものを、また直さなければならない。今考えてみると私たちは大変な子ども時代を生きたものだ。
 こうした変化ばかりでなく、戦中から戦後への政治・社会体制の変化、学制の変化等々大きな変化を子ども時代に体験したわけだが、これがわれわれ世代にどう影響し、それがまた現在の社会にどう影響しているのだろうか。これは歴史が判断するところなのだが。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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