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蓄音機からCDへ



              文化格差の縮小―楽器、書籍、映画を例にして―(1)

                   ☆蓄音機からCDへ

 終戦の翌年、予科練から復員して復学していたM叔父(註1)が卒業し、山形の専売局(後の専売公社、現在のJTの前身)に就職した。
 月給をもらってくると、叔父は祖父に給料袋をそっくりそのまま渡した。祖父はそのなかからいくばくかのお金を小遣いとして渡す。叔父は頭を下げてそれをもらう。
 当時の農家ではこうするのが当たり前だった。家族員の収入はすべて家の収入であり、つまり家長=身上(しんしよう)持ちのものであり、家長が収支すべてを管理するのが普通だったのである。だから家族員は必要なお金については家長からもらうことになる。しかしぎりぎりの暮らし、自分で自由にできる小遣いなどはめったにもらえなかった。嫁である母はもちろん後継者である父も同じだった。叔父の場合は、勤め先での付き合い上必要な場合もあるだろうからと小遣いを毎月もらえたのだろう。
 どれくらいもらったのかはしらない。ただその使い道の一部は知っている。
 まず、戦後の解放感からだろう、急に流行り出したダンスホール通いである。教本をもってスロー、スロー、クイック、クイックと畳の上で練習していた叔父は、そのうちとち狂って毎晩のようにダンスホールに通って深夜帰るようになった。当然祖父から厳しく怒られ、やめるより他なかった。それからパチンコだ。今のパチンコと違い、手で一つずつ穴に入れるもの、子どももやってよかったので、叔父はたまに私を連れて行ってくれた。それに麻雀である。戦後の解放感でこうした遊戯が山形市内でも大流行していた。
 それから、蓄音機を買ってきてレコードを集め始め、またギターを買ってきて爪弾きはじめた。蓄音機やギターが叔父の小遣いで買える、このことはこれまで軍需産業に回されていた資材や労働力がこうした民需産業に回され、豊富に安く供給されるようになったことを示すものであり、まさに平和の証しだったと言えよう。

 1947(昭和22)年だったと思う、M叔父が小型トランクくらいの大きさの金属製の蓄音機を買ってきた。
 蓄音機といえば木製の大きな箱と決まっており、戦前はかなり高価て、一般庶民はなかなか買えなかったのだが、叔父が小遣いを貯めて買えるほど安くなっていたのだろう。しかもこれまで見たこともない小型の金属製、だから持ち運びは便利、それに音は昔の木製よりもいいくらいである。新しい技術が輸入されてきたのかそれとも新しく国内で開発されたのかわからないが、まさにこれは大きな進歩だった。
 もちろん基本構造は同じで、手回しでゼンマイを巻き、このゼンマイの緩む力でレコード盤を回転させ、その盤の表面に渦巻き状に刻まれている細い線(溝)の上に針をおく、すると針が溝に刻み込まれている凹凸を通るときに出るかすかな音が拡大され、音楽となって聞こえるようになるというものである(こんな説明でいいのか不安だが)。これはすごいものである。家にいながら、好きな時に歌が聞けるのだから。
 問題は、ちょっと油断するとゼンマイがゆるみ、レコードの回転が遅くなって音が変になり、止まってしまうことである。そうならないように、絶えず注意してゼンマイを巻くクランクを手で回さなければならない。
 もう一つの問題は、何曲か聞くと針がすり減って音がおかしくなり、そのまま使っているとレコード盤の溝の凹凸がすり減ってくることである。これも注意して、3~4回使ったら新しいのに取り換える必要がある。だから交換用の針も買っておかなければならない。これがちょっと不便である。

 この蓄音機の購入を契機にM叔父はレコードの収集に狂った。といっても、当時は発売されるレコードの数は今と違ってきわめて少なく、小遣いもそんなに多くないので、その限度内だったが。
 戦前のリバイバル流行歌、戦後新しくつくられた流行歌のレコード、これは私の心をとらえた。何しろ物心ついたときは戦争のさなか、軟弱な流行歌は禁止され、あるいは自粛しており、学校で習う唱歌、童謡、ラジオから流されるラジオ歌謡、軍歌、それに浪花節だけしか耳にしたことがなかったからである。
 流行歌で覚えていたのは『勘太郎月夜歌』(註2)だけだった。
  「影か柳か 勘太郎さんか
   伊那は七谷 糸ひく煙り……(以下省略)……」
 1944(昭和19)年、徴兵のために北海道から帰っていたK叔父(註3)が、小学3年の私を自転車の後ろに載せ、当時流行っていたこの歌を歌いながら、これを主題歌とした映画のストーリーを教えてくれたが、あの夏の夕方の田んぼの光景が忘れられない。前にも書いたが、このK叔父は戦死して帰ってこなかった。
 そのとき教わったことが後での理解につながった。何でこんなやくざの歌が戦時中に許可されたのか、それは勘太郎が勤王の志士を助けるというストーリーだからだったのである。
 この歌詞の3番にこんな一節がある。
  「……菊は栄える 葵は枯れる……」
 つまり葵のご紋の徳川は滅び、菊の天皇家は栄えるというのだから、これは忠君愛国の歌なのである。
 しかし歌う方にとってはそんなことはどうでもいい。軍歌調の歌しかないときだったからましてやこの曲は庶民の心をとらえ、大流行したのである。それで私も覚えていたのだろう。
 この流行歌しか知らなかった時に聞く『影を慕いて』をはじめとする戦前の古賀メロディ、『隅田川』、『赤城の子守歌』など東海林太郎の歌う歌、『誰か故郷を思わざる』(後でわかったのだが引揚者が涙を流しながらこれを歌ったという)、『人生の並木道』等々は私の心を打ったものだった。
 さらに戦後の流行歌がある。『リンゴの歌』、『東京の花売り娘』、前にも述べた『星の流れに』をはじめとしてせきを切ったように新しい流行歌がつくられた。
 こうしたさまざまな歌を私はレコードで聴いた。もちろんラジオでもそれを流していた。大人にとってはなつかしく、若者や子どもにとってはきわめて新鮮に受け止められた。お祭りの演芸会ではこうした流行歌が歌われ、それに合わせた踊りが舞われた(註4)。
 たまにM叔父が、外国の歌のレコードを買ってくる。今でも覚えているのは『ラ・クンパルシータ』、『黄色いリボン』である。耳慣れない音楽、それほど好きにはなれなかった。
 叔父の許可を得て(あるときはこっそりと)私は毎日のようにレコードを聞いた。そしていろいろ歌を覚えた。今の私の音楽的嗜好、音感の基礎はそのときに養われたものと言えるだろう。もちろん、幼いころから聞かされた唱歌、軍歌の影響はあるし、日本の伝統的なヨナ抜き音階は血統的に引き継いだと思われるほど身に沁みついているが。いわゆるクラシックより流行歌やポップスが好きなのは、そしてリズム感がないのは、その両方から来ているのだろう。
 やがてM叔父は結婚・分家し、蓄音機を持って行ってしまった。音楽はラジオから聞くしかなくなった。しかし、放送局はNHK一局だけ、歌の時間は限られている、やはりレコードが欲しいと思ったものだった。高校のころ、同級生から教わった『テネシーワルツ』、『トゥーヤング』、映画で聞いた『雨に唄えば』等のアメリカンポップスに魅かれるようになっていたので、ましてやだった。
 そのラジオも大学に入ると聞けなくなった。1950年代、ラジオはまだ高価で、学生風情が個人でもてるようなものではなかったからだ。それでもほとんどの家庭がラジオをもつようになっており、農村部でもほとんどの家にラジオがおかれるようになった(註5)。戦前との大きな違いがそこにあり、その点では都市との情報格差がなくなってきた。

 大学2年のとき(1955年)、友人から音楽会に誘われた。行ってみたら、大きな会場の舞台の真ん中にぽつんとかなり大きな長四角の箱・機械がおいてある。電気蓄音機というものだそうで、それでレコードをかけて音楽を聞かせる、こういう音楽会だった。会場いっぱいに人が入っている。こんな箱で会場全部に聞こえるのだろうかと思ったらすさまじい大きな音である。低温がよく響き、生演奏に近いだろうと友人はいう。たしかにそうかもしれない。といってもオーケストラの生演奏など聞いたことはないのだが、普通の蓄音機やラジオの音とは違って迫力があるのはたしかだった。何という曲だか全然覚えていないが、クラシックである。集まった人たちはいかにも音楽通のような顔をして深刻な顔をして咳一つせず静かに聞いていた。
 電気蓄音機を見たのはこれが初めてだった。レコードは電力で回転させ、レコード針の動きが電気信号に変換されて増幅し、スピーカーを鳴らすのだという。後でわかったのだが、これは戦前からあったとのことである。しかしきわめて高価、お目にかかるなどということはこんなときにしかなかったのである。
 まだこんな時代だった。それが数年もしないうちに大きく変わってきた。

 1960年代、テレビはほぼ全家庭に普及した。そうなると映画とラジオは衰退するだろう。そう思ったものだが、ラジオは形を変えて生き延びた(映画については後に述べる)。それはトランジスタラジオの開発によってだった。テレビは大型で重くしかも高価、だからこれは家庭に1台、家族全員で楽しむもの、ラジオは小型軽量、低価格なので個人でもつというようになって生き延びたのである。トランジスタをポケットに入れ、イヤホンでそれを聞きながら歩く、そんな姿があちこちで見られるようになってきた。またこのラジオの小型化は自動車への搭載を可能にしたが、このこともラジオの存続を可能にした。
 こうして音楽はラジオ、テレビを通じてどこででも聴けるようになった。

 さらにラジオは電気蓄音機と合体されることによっても生き延びた。そしてそれは「電蓄」と呼ばれるようになり、さらにステレオと呼ばれて各家庭に普及するようになった。60年代後半だったと思う。さきほど述べたような大きなものではないが、戦前の箱型の蓄音機よりも大きく、中央部にレコードの回転部とラジオがあり、左右にスピーカーがついていており、音は非常によく、また立体的に聞こえた。
 それと同時に、30分も聞けるというLPレコードが売り出され、今までの約3分で終わるレコードはSPと呼ばれるようになった。つまりSP以外にEP、LPなどという回転数の違うレコード盤ができ、電蓄についている78回転(SP)・45回転(EP)・33回転(LP)・16回転(何と呼んだか忘れた)のスイッチを切り換え、レコード盤を回転させて聞くようになったのである。これまで長時間の曲を聞くときは何枚ものSPレコードを裏表何回もひっくり返さなければならなかったが、こうした中断や面倒などなく、しかも手でぜんまいを回すこともなく、さらに針を取り換える必要もなくなったので、本当に便利になった。
 1970年代、その大小や質の違いはあったが、ステレオは多くの家庭に導入された。農家の座敷にどっかりと座っているのを見ることもできるようになった。

 1980年代ころからではなかろうか、これまでのテープレコーダー(註6)のテープに代わってカートリッジ式のコンパクトカセットが使用されるようになった。これでテープレコーダーは前よりもずっと小型になった。やがてレコードと同じように流行歌などが録音されたコンパクトカセットが販売されるようになってきた。その結果、あの大きな電蓄・ステレオでレコードを聴くのと同じように、簡単に持ち運びできる小さなカセットテープレコーダーで流行歌などが聴けるようになった。
 さらに、この新型のテープレコーダーとラジオを組み合わせたラジカセ(ラジオカセットレコーダー)が開発され、これまでの機能以外にラジオ放送の聴取と録音もできるようになったことから、爆発的にこれが普及した。またこのラジカセはカーステレオという名前で自動車にも取り付けられ、車内でもカセットテープに録音された音楽を聞けるようになった。
 こうしたなかで、これまでのレコードはカセットテープに置き換えられ、電蓄とともにその姿を消すようになった。
 そうした変化だけではすまなかった。20世紀末になると、そのカセットテープも見られなくなってきた。CD、DVDに置き換えられたのである。そしてラジカセでCD、テレビでDVD、あるいはパソコンでCD・DVDを聞く時代となってきた。

 この短期間でのめまぐるしい変化、あるものに慣れたかと思うと次のものが出てくる、さらにまた別のものが出てくる、私のような年寄りはなかなか追い付いていけない。しかもこのように変わるたび、古い機器は捨てられ、それを作ってきた機械施設は破棄される、それも短期間でだ。もったいない精神で育ってきた私には何か引っかかる。と言いながら、もう一方では便利になったと喜んでいるのだが。

(註)
1.11年2月7日掲載・本稿第一部「☆もんぺ姿、人の取り上げ」(4段落)、
  11年2月14日掲載・ 同 上 「☆里の秋」(1段落)参照
2.歌:小畑実 作詩:佐伯孝夫 作曲:清水保雄  1948年
3.10年12月27日掲載・本稿第一部本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(1~2段落)、
  11年2月7日掲載・本稿第一部「☆人の取り上げ」(4段落)、
  11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(4段落)参照
4.11年2月25日掲載・本稿第一部「☆抑圧からの開放感」(1段落)参照
5.11年3月29日掲載・本稿第一部「☆地域格差是正の進展」(3段落)参照
6.12年4月23日掲載・本稿第四部「☆新しい調査用品の出現」(4段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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