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むら社会(2)

   

          ☆入会林野

 近隣の農家同士の共同による生産・生活面での相互扶助に加えて、むら仕事のような村落(むら=東北でいう部落と考えてよい)の農家全体の共同による助け合いも必要不可欠であった。水、林野、農道などのむらぐるみでの共同所有、共同利用、共同労働なしでは生産・生活の維持が困難だったのである。
 なお、山から遠く離れた町場にある私の生家の地域には入会(いりあい)林野、つまり林野の共同所有、共同利用、共同労働はなかった。この入会の存在は大学に入ってから初めて知った。ちょうど当時は入会権をめぐって明治以来争われてきた岩手県の「小繋(こつなぎ)事件」(このことについては後で述べる)が社会的な問題となっていたが、実際に入会の実態にふれたのは農村調査においてであった。ただし私が本格的な調査に入るようになった一九七〇年以降には入会慣行はなくなりつつあった。

 一九五〇年代半ば頃、高校のときだったと思うのだが、一人で見に行ったような気がする、しかし何でその映画を見に行ったのかわからない、題名も覚えていない、それでもそのとき見た映画のストーリーと青森県津軽地方の農家の娘を演じた左幸子のはつらつとした印象はその後いつまでも頭に残った。
 秋になって岩木山のふもとの草刈り場に周辺の農家が牛馬車を牽いて一斉に出かける。ある場所に着いた農家はそれぞれそこに生えている萱(かや)で掘っ立て小屋を建て、そこに何日間か泊まり込んで萱(屋根の葺き替えや雪囲いなど生産、生活に不可欠だった)を刈る。その間に左幸子と隣部落の男性(俳優の名前は覚えていない)とが結ばれるというものだった。
 あるとき、それもいつだったか思い出せないが、その映画の原作が石坂洋次郎の小説『草を刈る娘』であったこと、ただし映画の題名は小説の名前と違っていること、そのなかに出てくる草刈り場が入会林野であり、この利用の過程で生まれた農村の男女の恋愛を描いていたのだということに気がついた。
 後で弘前周辺の調査に行ったとき、次のようなことを知った。岩木山周辺のむらむらが裾野にそれぞれ入会地(共同利用地)をもち、その管理もむらの共同作業で行う。秋になると、むらが決めた口開け日(利用開始日)に入会権をもつ農家が一斉に草刈り場にでかけ、それぞれに割り当てられた土地の萱を刈って家に持ち帰るというものであった。その土地の各農家への割り当て方や萱を刈る量などはむらによりそれぞれ異なっていたようである。
 この調査に行ったころは、建築様式や生活様式も変わって萱が不必要となっており、草刈り場のかなりの部分はリンゴ園や水田に変わっていた。
 なお、『草を刈る娘』は一九六一(昭和三十六)年に吉永小百合主演で再び映画化されている。しかし見ていなかった。私のこの話を記憶していた若手女性研究者のWMさんが最近テレビでこの映画をやっていたと録画して見せてくれた。いっしょに見た若手研究者NK君が衝撃をうけていた。清純派女優の吉永小百合が相手男優の落としたライターを「おめえの糞の匂いをかぎつけて探してやった」というセリフをはいたからである。また、若い男女二人が将来の農業として経営の多角化を対等に論じあっていた当時の雰囲気に感動していた。しかし私には、萱刈り場の風景の描写があまりよくない(利用が減って荒れ始めていたからだろうか)等々の不満があり、左幸子主演の白黒映画の方がよかったような気がする。

 秋田県の十文字町(現・横手市)のある集落では、九月一日が口開け日で入会地に草刈りに行ったという。その刈った草の高さが一丈になると一丈餅をついてお祝いをした。冬のまぐさ、敷きワラが確保できたからである。
 青森県十和田湖町(現・十和田市)の調査に行ったとき聞いたのは入会地の薪炭林としての利用であった。秋になると各戸から男が一人ずつ出役して入会地の山に一週間くらい泊まり込み、薪の伐りだしをする。ある決められた日時にそれを一斉に川に流す。下流では家に残っていた女性、高齢者、子ども全員が出て、流れてきた薪を拾い、川岸に積み上げる。それを各戸平等に分け、冬期間の燃料とするというのである。
 宮城県中新田町(現・加美町)の集落でもそれと同じような話を聞いた。みんなでまとまって隣の色麻町(現・加美町)にある林野に行って一週間くらい泊まり込み、秋は萱刈り、春は柴刈りをし、それをみんなで分けたという。このようにまとまって山に入って共同作業をすることを「やまざ」(山座と書くのだろうか)といったそうで、一九五五年ころまでやっていたらしいが、その山が入会林だったのか、色麻の人から刈り取る権利だけを買っていたのか私の調査ノートに記載がない。だから共同所有していたかどうかはわからないが、むらの共同利用、共同労働、平等配分という点では一種の入会慣行だったといえよう。

 入会牧野も多かった。とくに南部牛や南部駒で名高い岩手に多かった。家畜の運動や飼料確保のためには広大な土地が必要となるが、それを個人で所有し、管理するのは困難なので、むらが共同で所有し(明治維新でそのほとんどが国有地になり、それを共同で借りるという形になっていたが)、利用し、管理するのである。そして夏はこの入会牧野に牛馬を放牧し、寒い冬は家に連れ帰って畜舎で育てる。いわゆる「夏山冬里」方式で家畜を育てるのである。
 この入会牧野を初めて見たのは岩手県川井村(現・宮古市)であった。川井村は北上山地の中央部、盛岡から宮古に向かう国鉄山田線の中間に位置する広大な面積をもつ山村である。ここに何千㌶もある自然牧野がいくつかある。そのうちの一つを一九六七(昭和四十二)年の山村振興調査の時に見せてもらったが、そこには入会権をもつ農家の日本短角牛二~三百頭が放牧されていた。これだけ広いのだからどこからどこまでが入会牧野だなどと牧柵をつくるわけにいかない。だから平気で周辺の国有地に入り、ただで草を食べているという。
 放牧した牛の日常管理は、所有者が毎日来てやるわけにいかないので、牧野利用組合で頼んだ専門の監視人にやってもらう。監視人は山に泊まり込んで、牛が行方不明になったり、けがしたりしないようにする。
 これはその後の調査のときのことだが、ある農家におじゃましたとき、庭に学校に入る前くらいの子どもがいたので声をかけた。にこにこしてこちらを見るが、返事がない。そしたら農家の方が笑いながら言う、山から下ろしてきたばかりだからしゃべれないのだと。つまりこの子は監視人の子どもで親と山のなかにいる。近くに子どもはもちろんのこと他人がいないのだから会話がない。当然しゃべれない。しかし学校にあがる年齢が近づいてきた、そこで自分が預かって社会になじませているのだ、こういうのである。ちょうど夏山冬里で牛を山から下ろしてくるという話をしていたので、人まで山から下ろすのかとみんなで笑ったが、ちょっとショックだった。
 牛の所有者は月に一回塩をもって牧野に行く。そして大きな声で牛を呼ぶ。すると牛が寄ってくる。塩をなめさせてもらえるからだ。間違えずに自分の牛が寄って来るというから不思議なものだ。そのなめている間に飼い主は監視人から放牧の状況についていろいろ話しを聞き、また自分の目で牛の健康状態などを見る。
 驚いたのは、自然交配だったことだ。五十~百頭の雌牛に一頭の割合で雄牛を入れるという。これまた不思議なもので、百頭近い雌牛を引き連れる雄もいれば、二十頭くらいしかいない雄もいるという。また、雄は平等に交尾するとはかぎらない、好きな雌とは何回も交尾するともいう。牛にも美男美女、好き嫌いがあるのだろうか。

 小さい頃、「さかりがついたみたいだ」、「種付けさ行ってくる」と言って、父や祖父が牛や山羊を連れて年に一度どこかに出かける。米の種子か麦の種子かわからないが、何でそれを背中につけさせるのか、しかも何でどこかよそに連れて行く必要があるのか、そもそも「さかり」とは何か、子どもの私には不思議でならなかった。何のことはない、雄の牛や山羊を持っている農家のところに連れて行って交尾をさせていたのである。戦前のことだからまだ人工授精はなかったが、それでもこのように人間が関与して交配させていた。
 ところが川井村ではまったく人間の手を借りない自然交配がなされていた。人工授精などという非人間的(?)な交配が普通になりつつあった時期なのに、自然交配とは何と心和むことだろう。牛も牛らしく生きられる。しかし、交配の目的である優良な子牛の生産、品種改良はそれでできるのだろうか。
 こんなことを思いながら、また村の助役さんが農家から徴発してきてくれたどぶろくを飲みながら、雄大な牧野を眺めた。

 いうまでもなく、どぶろくつくりは今も禁じられている。ましてや当時はかなり取り締まりが厳しかった。それなのに、助役さんがどうしてどぶろくを農家からせしめてくるのだろうか。不思議に思って聞くと、助役さんは笑いながらいう、農家は役場に恩義があるのでくれないわけにはいかないのだと。
 税務署がどぶろくの摘発にくる。見つかって罰金を取られたりしないようにそれを知らせようと思っても当時は電話がない。そこで役場はジープを出し、マイクで知らせて歩く。もちろんまともに知らせたりしたら大変なことになる。そこである暗号をつくっておく。農家はそれを聞くと一斉にどぶろくをかくす。これで農家はかなり助かっているので、私が行けば感謝の印にどこの家でもどぶろくをくれる。こう言うのである。思わずみんなで笑ってしまった。村行政が村民の罪をかくしてくれているのである。
 しかし考えてみればどぶろくづくりは本来罪であるわけはない。自分の家でつくった米を自分で加工して飲むのだから何の問題もないはずである。しかし国は税金をとるためにそれを禁じてしまった。もちろん飲みたくなったら清酒やビールなどを買って飲めばいい。しかし農家にはそんな金はない。それなら飲まなければいい。しかし、酒を飲むささやかな楽しみくらいはあってしかるべきである。そこで密造する。村当局者も同じむらびととしてそれはよくわかる。だからつかまらないように教えるのである。
 それにしても今はやりのコンプライアンス(法令遵守)ということからすると大きな問題であろう。しかし、むらは個別経営の弱さを協同の力で補完する組織であるばかりでなく、権力に対してむらびとの権利を防衛する組織でもあった。したがってそのむらの連合体である村当局がこうしたことをするのは当たり前のことであった。
 まさにむらは残っていたのである。

 いうまでもなく自然牧野の生産力は低い。そこで一部を人工草地化してより多くの草を生産し、放牧頭数を増やせるようにしよう、つまり入会牧野を高度に利用して畜産の振興を図っていこうという動きが全国的に高まり、政府も畜産振興、山村振興という視点から入会林野の近代化、草地造成、公共(市町村もしくは農協営)放牧場の造成等に力を入れた。私どもの川井村の調査もその一環として北上開発に関してなされたものであった。
 しかし結果としてそれはうまく行かなかった。九〇年ころから大家畜の飼育農家が激減し、自然牧野はもちろん、造成された牧野を利用するものも少なくなったのである。こうしたなかで入会牧野や公共放牧場は大きな赤字をかかえ、荒廃するようにさえなってきた。また、開発された草地に入植して酪農をいとなんだ多くの農家が多額の借金をかかえて離農し、その草地は荒れ果ててしまったところもあらわれた。
 こうしたことから北上開発、入会林野近代化は間違いだったという人がいる。しかし私はそうは思わない。開発とその意図はまちがっていなかった。それは飼料自給率の向上と農山村の過疎化の歯止めに役立つはずのものであった。ところが、安い外国産の飼料輸入、加工乳製品の輸入、牛肉の輸入自由化、価格政策の後退等がそれを不可能にしたのである。
 これは北上山地ばかりではなく、全国の中山間地帯の牧野で見られたことであった。有名な九州の阿蘇山麓の自然牧野はその典型で、いまは放置されて消滅寸前にある。担い手の高齢化で牛を飼育して放牧するものがいなくなり、またその維持管理のための野焼きをするものもいなくなってきたからである。こうして放置された結果、阿蘇山麓の景観が変わってきた。これを何とかしようとして最近ボランティアによる牧野の復活運動が起きている。しかし、全国のほとんどの牧野は荒廃してしまった。
 もしも百万㌶を超えるといわれる秣場(まぐさば・飼料や肥料にするための草を刈り取ることを目的として農家が共同で利用した原野)が人工草地と自然牧野からなる放牧場として活用されるなら、飼料作と畜産の結びついた本来の畜産が成立し、飼料自給率はもっと高く、しかも安全な肉や乳製品を消費者に届けることができたであろう。最近の山村の荒廃を、また我が国の農地の減少をみるとき、それをしみじみ思う。

 それにしても、あの川井村の雄大な牧野はいまどうなっているのだろうか。当時飼育されていた日本短角牛が牛肉輸入自由化で激減したという話を聞くが、今もきちんと牧野が利用されているのだろうか。いつか訪ねて行ってみたいものだ。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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